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『タコピーの原罪』感想

 何よりもまず目を引くのは、タコピーと久世しずか(及びその周辺人物)との対比だろう。理想的な道徳観念、つまり綺麗事に生きるタコピーは、「現実の厳しさ」に直面する。ここでいう道徳観念は、宗教的理念と言い換えても構わない。
 古代において人間は、一方的に与えられる神からの教え(宗教的理念)を至上のものとして受け入れた。作中冒頭におけるタコピーの顕現は、つまるところその再演に他ならない。タコピーの故郷であるハッピー星とは、理想郷であり神の国というわけだ。しかし古代と作中との決定的な相違は、その理念が「現実」に敗北する点にあるだろう。タコピーの理想論による行動は、現実を解決するには至らない。
 この時点で『タコピーの原罪』は、古代に受け入れられた宗教的理念を、現代人の観点から否定するものということになる。

 結末において、この構図は大きな転機を迎えている。タコピーという理念の消失に伴って、主要な登場人物らは他者との関係性に救いを見いだす(関係性。ここにもやはり、「理念の否定」という主題がうかがえる。タコピーは、あくまで契機に過ぎないのだ)。
 では、救いへと繋がる「関係性」とはどのようなものか。これは間違いなく、「双方向的な関係性」「インタラクティブな関係性」「主体同士の関係性」と、このように言い表せるものであろう。
 久世しずかと雲母坂まりなのかつての関係は、常に一方通行であった。「いじめる側→いじめられる側」「恋人を奪う側→奪われる側」。対等な存在としての対話はない。
 あるいは東少年がかつて抱いた関係性も、やはり同様といえるであろう。見いだされるのは、「承認する側→される側」「期待/要求する側→期待/要求に応える側」という残酷な光景に他ならない。
 そしてタコピーが象徴する「宗教的理念」もやはり、神から一方的に与えられるモノといえる。
 しかし終盤、救いの場面においてそれらは覆されるのである。

「もう一人じゃない〝きみたち〟が」
「きっと大人になれるように――」

 久世しずかと雲母坂まりなは、対話を端緒として対等な関係へ移行する。対話をするということは、相手に自分と同じ主体を認めるということだ。あるいはまた東少年は、友人との対等な関係によって、閉ざされた母親との関係から開かれていく。
 共通するのは、それが一方通行ではない、主体同士の関係であるということだ。
 すぐそばに「対等な他者」が存在するということだ。
 「もう一人じゃない」ということだ。
 つまるところ、これは近代の個人主義に他ならない。

 「タコピー」という古臭い綺麗事、道徳観念、宗教的理念は現実の前に無力であると否定され、最終的に消滅した。
 そして「対等な他者の存在」、近代的個人主義こそが肯定される。
 古代から近代へと至る、極めて政治的な構図が本作には発見された。

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