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April 11, 2022 元町での弦楽器演奏会

 山手のカフェに寄ろうと夏の様な日差しの中を散歩に出かけたところ、陽気の良い日曜日の昼過ぎということもあり、店の前には長い行列ができていた。せっかく来てみたのでと20分ほど並んではみたものの全く動く様子もなく、あまりの日差しの強さに列を離れ元町へ降りた。サンドイッチを食べようと目当ての店に近づくと、車両通行止めになった商店街の細い車道の一箇所に人だかりができハープの様な弦を弾く音が聞こえてきた。
 「確かウクライナの音楽家の人のコンサートがあるって、何かに書いてあったけど、今日だったのかな」
 妻の言葉通り、その人だかりの中央でオレンジ色の花の刺繍があしらわれた黒いワンピースを纏った金髪の女性が大きな木製楽器を奏でている。ウクライナ民族楽器であるバンドゥーラの奏者で、日本在住でウクライナ出身のカテリーナさんという方の演奏らしい。そう聞くと、耳にするマイナー調の弦の響きが一層物悲しく聞こえてくる。横浜市の姉妹都市がオデッサであることから、元町でウクライナの芸術文化支援を目的として開催された様だ。

 いま、日本で多くのウクライナ向け支援が行われている。5日には、外相が避難民20人を欧州からの帰国時に政府専用機に乗せて戻ってきた。千葉県などいくつかの自治体でも、避難民への支援を積極的に展開し始めている。ただ、今回の一連の国内でのウクライナ支援の動向に何処かギクシャクとした違和感を感じていて、諸手を挙げて素晴らしいとは言い切れない。

 その大きな理由のひとつが、海外で紛争や弾圧がある度に日本国や自治体が今回と同じ素早さで対応しているわけではない事だ。去年2月に軍事クーデターが起きたミャンマーに対する対応では、政府は日本に残りたい在日ミャンマー人に特定活動の在留資格を与える緊急避難措置を導入したが、今回のウクライナの人々への1年間フルタイム就労可能と比べそれは制約が多く、在留期間6カ月が基本で就労時間の上限が設けられる人もいると言う。いまやマスメディアでのミャンマー関連報道はすっかりなりを顰め、自治体のミャンマー避難民支援は広がりすら見えない。

 ミャンマーに限らず中東やアフリカの多くの国で現在も沈静化していない紛争は複数あり、多くの人々が迫害や暴力に苦しんでいる。ウクライナ避難民に対する救済や支援自体は、無批判に素晴らしい行動に違いない。ただ、日本や欧米の避難民救援活動には、自らの経済的利益の確保という胡散臭さもにおう。本来、紛争そのものが国益や民族益の優位性獲得に導かれるものだから、紛争を解決するために自己利益を主張して何が悪いという論もあるだろう。ただ、支援を行う第三国あるいはその国民としては、紛争を抱える国が複数存在し、その結果苦しんでいる民族も複数に及ぶという事実を客観的に認識して、国際世論に流される様に一箇所に集中的な支援を行うのではなく、自国または市民として明確な支援ゴールや優先順位に基づく総額配分調整機能を持った支援を行うことが、不均衡な予算消化やポピュリズムに流されない健全な外交政策として重要なのではないだろうか。

 ここで思い浮かんだのがペトルーシュカのストーリーだ。ロシア出身の20世紀最大の作曲家、イゴール・ストラビンスキーの3大バレエ音楽の一つであるペトルーシュカにはムーア人が重要な配役として登場する。バレリーナに恋をしていた主人公ペトルーシュカだが、ムーア人がバレリーナの前に現れ上手な踊りを披露してバレリーナの心を奪う。嫉妬したペトルーシュカは喧嘩を挑むが逆にムーア人の刃の餌食になってしまうというストーリーだが、このバレエ音楽に限らずムーア人は西洋文化において何処か異端な存在として描かれることが多い。シェイクスピアの時代に文学や芝居に登場するイスラム世界のムーア人は憐れみや慈悲の心を持たず、嘲笑の的や非難の対象としてキリスト教世界の他者と表現された(1)と言う。

 いまもってこうした考えが消滅していないのかは不明だが、キリスト教を宗教的な基盤とする西欧諸国では、イスラム教やユダヤ教、仏教などの他宗教を基盤とする、特に皮膚の色の異なる民族を、『他者』として隔絶する価値観は未だに継続されていると思える経験は過去にあった。もう20年ほども前の話だが、アメリカやイギリスでの滞在時に、ガラガラなレストランでわざわざトイレや厨房近くの席へ誘導される、あるいはミシュランクラスのホテルで階段下やエレベーター横などの狭苦しい奉公人向けとしか思えない宿泊部屋への誘導される、などがそれだ。行っている当事者としてはほとんど意識のない、仏教系黄色アジア民族に対する差別的行為だったのだと思う。

 こうした非意識下の差別的行為を、日本への避難民に対する人道支援においてアジアの代表国である日本が国家レベルで行っているのだとしたら大変残念だし、それが単に国際世論に対するプロパガンダとして、あるいは日本国民に向けての選挙前アピールとして「頑張っている風」を装うためのものだとしたら、本当に情けないとしか、言いようがない。

(1) 五十嵐博久著、東洋大学人間科学総合研究所紀要Vol.13 (2011)93-10:ムーア人という他者を描くシェイクスピア言説の特異性について

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