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東京大学の2008年度開講の学部横断型教育プログラム:ジェロントロジーの講義ノートまとめ
与えられたものには個人差がある。個人間で条件が同じでも、解法と解は異なりうる。よくやる失敗は、それを忘れて同じ解法を使おうとして使えず、別の解法を探索しないことだ。独自の解法を探す手間を惜しむべきでない。
必要な認知的ストラテジーを特定し、 認知的ストラテジーを繰り返して意識的な努力なく自動的に実行できるようにする
成長は、特殊な状態変化だと捉える。 成長に、程度と方向性の次元を導入してそれをモデル化してみよう。 以前、長時間労働の経験をすることは成長だと上司に言われた。 その状態変化を成長と呼べるなら、その理由は何か。会社組織にとって都合の良くなる方向性での状態変化だからか?
マイ美徳 フランクリン自伝と仏教思想 勤勉ーよく見聞きし分かり忘れないーこれは難しい状況で正しい決断を下すため 禁欲ー煩悩を無くして心を穏やかにする、および無駄なことにリソースをさかない ー足るを知るーあらゆる過剰は慎むぺき →これは幸福および勤勉に専心するため
ここで息をするとは、本来為したかった目標とは無関連のことをし始めることだ。問題は、それに伴い必要な対象にリソースを割けなくなることだ。 頻繁に息をしても良い。その代わりリソースは関連する対象に割けるようにする。 ならば瞬きのような、邪魔にならない物事に快感を覚えるようにする。
私にとって報酬を待つことは難しい。 待ち遠しさが耐え難い。待つとは、水中に顔を突っ込んで息ができない感覚に近い。我慢できずに呼吸を求め、思わず顔を水面から上げる。ぷはぁ。空気を取り込むこの瞬間は快感である。しかし世の中で何かを為すには長時間水中に顔を沈めておくことが必要だろう。
食事の原則: 正しい食物 正しい時刻 正しい温度 正しい一口の大きさ 正しい噛む回数 もちろん、ラーメンを勢いよく啜るような、快楽のため、心を楽しませるための食事もありだと認める。でも自分にとっては、体を存続させるために必要十分なものを取り込むことだと捉える。
自分で見つけた素朴だがうまくいく法則を時が経つにつれ忘れてしまう。 忘れぬようにしたい。
・ある = 真正な世界の状態 ・ありたし = 願望や夢想つきの想像された世界の状態 ・あるべし = 未だあらざる、達成すべき世界の状態 注目すべきはあるとあるべし。tobeとasisだ。しかし現実は「ありたし」にdistractedされ続け、ほか2つを忘れがちではないか。
運動を開始しようと思う。しかし身体がだる重い。なので開始できないでいる。 ここから思うことがある。自分がどんなコンディションであれ、つまり、(好条件の時はできて当然なので)悪条件に思える場合にいかに為すべきことを為せるか。これがクリアすべき問題なのではないか。
山月記を久々に読み返しました。李徴と同じく、私も自分の中に臆病な自尊心、尊大な羞恥心を飼っています 周囲から詰められてクライシスに陥った時でないとありのままの自分を見つめられない人間です。平常時は甘い願望を塗りたくった自分の像を作りあげて観賞しています、
『山月記』再読。高校生以来。自分の中の臆病な自尊心・尊大な羞恥心は高校生の時も今も変わらず飼っているとメタ認知。さらに、基本的に自分にしか注視しない李徴。妻子や袁傪は二の次。自分もそんな感じ。精密な描写によって詳細な自己概念を得られた。 あと、名文学を読める青空文庫は有難い。
クリフォードの「信念の倫理」の感想文。 私が何かを「そうであるはずだ」と信じる時、どのように信じているか。その信念を支える正しい方法による調査は存在するか。それとも調査なく「正しいはずだ」と自分を思い込ませているだけか。後者ならば、私にそれを信じる資格はない。
メタ記憶のアクション 自分のtoolboxとは?という問い 例えば、 - 課題解決をするためのtoolboxはある - 不確実性に対処するためのtoolboxはない toolboxのイメージは、windowsのexplorerのように フォルダ単位で体制化されているイメージ。
サルトルのアイデア。現実の決断、そして実際のケースは個別的なので、一般的規則では決定できない。規則をどのように適用するか、どの規則を適用するかは私たちの肩にかかっている。決定するのは規則ではない。私たちだ。 (引用元『ここからはじまる倫理』)
this workshops is scenario-driven, metaphor rich...Humans learn best when concepts are presented in the context of problems and solutions.