エッセイ:隠れ怠惰に関する考察

自分は隠れ怠惰である。
それに似た特性の人も何人かいる。
その隠れ怠惰について考えてみた。


やるべきことをやらない人がいる。いわゆる怠惰である。

しかし、一見怠惰ではない、隠れ怠惰がいる。

やる必要のないことをやる人である。

この類の人が問題となるのは、あまりにも無用なことをする頻度が高いケースだ。
そのため、本来やるべきことをやる時間が残っていないのである。
だから、結果の観点において、やるべきことをやらない人と同等の地位である。

では、なぜ、やる必要のないことをやるのか。

まず、行動がもたらす帰結にまで考えが及ばないことが予想される。
あるいは、及んでも解像度が低い。
だから、帰結が目標にどうつながるのか、検証していない。
(もちろんrelevantなのかの説明もできない。)
ただし、そもそも目標に目が行ってないケースもある。

このように目標志向的でないにもかかわらず、行動するのはなぜか。
何がその人々を行動を駆動するのか。

要因は2つ考えられる。これらは複合的かもしれないし単一かもしれない。

要因1は、行動の方針は的外れなのだが微妙に的の中心に近いことだ。それゆえ、自分のアクションは的を射ていると錯覚することだ。これはかなりタチが悪い。これを防ぐためには自分の行動を批判的に省察する必要がある。だが、かなりの技術か努力を要するだろう。

要因2は、ドーパミン受容体の特徴だ。つまり報酬系が独特なのだ。

どういうことか。
なにかの満足感を得ようと常に必死なのである。快楽中枢に絶え間なく刺激を入力しないではいられない。

そうしてめでたく満足感を得られそうな的を発見すると、まっしぐら。
的外れの的に、釘付けになる。
これは、池の鯉が、ゴミをエサと勘違いして食いつきに行くようなことに似ていると思われる。ゴミにぱくつく。盲目に。

そして、満足感をもたらすものは人それぞれらしい。
例えば、味覚を愉しませるもの、人からの注目を集めること、落書きをする、等々。

隠れ怠惰の人が囚われる的外れの的を、irrelevant and invisible targetと呼ぶことにする。
invisibleがついているのは、他人目線ではその的を把握しないことが多いからだ。他人からすると、目標志向行動でないのになされる行動というのは、「なんでメリットがないのにそんな行動を頑張るんだ?」と奇怪に見えるのだ。エサは、本人の中でのみ見出せられるものである。

このタイプの人は、満足感を得られない状況が一定時間続くと、その不満さを紛らわせるために別の快楽を探し求めることがある。だから、全然目下のやるべきことと関係のないことをし始める。心を満たしてくれる刺激を求めて。目の前のものごとは、必要だが、何もリターンがない時間が長すぎる。その途中で辛抱することができなくなるのだ。

こうして、無駄なことをするのではないかと考えている。

繰り返すが、無駄なことをする人は、怠惰と同等の結果に着地することがある。
だがタチが悪いケースがある。
無駄なことをしているのに、自分はしっかり勤め励んでいる、と勘違いしている場合だ。
こういう人は、その他悪条件が重なる(ネガティブな性格など)と、悲劇が生まれる。

自分は頑張っている(実際は、多くが無駄なこと)

報われる資格がある

なのに、結果が出ない(無駄なことが多いから)

ムキー!
努力したって無駄なんだ…(真の努力をしていないにもかかわらず)
もう憂鬱だ…

ただ何かをしているというだけで、結果を受け取る資格があると勘違いしてしまう。しかし結果がついてこないため、気分が落ち込んでしまうのだ。

こういう無駄な行動が多いタイプへの処方箋はあるのか。

最初に目標を定義して、そこから逆算して行動を考えるようにすることだろうか。重要なのはirrelevant and invisble targetにまっしぐらな行動への対処法だ。ノータイムでタスクリストに入れるようにするのがよかろうか。


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