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これからのあるべき技術の姿について

はじめに

技術の進歩は目覚ましく、日々新しい話題を提供するのに事欠かない昨今ではあるが、果たしてそれが”人の進歩”と呼べるものかどうか、人間の生活をより良いものに本当にしているのかどうか?について、私は疑問に思っている。

確かに、技術進歩によって新しいことはできるようになっているが、果たして、過去から問題となっているものや、過去において将来解決されるだろうことが期待されたことが、今日解決されているのだろうか?
決してそれは十分ではないし、むしろ同じ問題が繰り返されているのではないか?と考えている。

要するにこれは、進歩とは何をもって進歩とするか?という問いである。
我々はついつい”新しいことができること”が進歩であると思ってしまいがちであるが、それよりもむしろ”同じ過ちを繰り返さないこと”の方が重要で、その方が”人の進歩”と呼べるものであると私は考えている。

もっと言えば、そういった目新しさよりも、見通しの良い技術、見通しをよくする技術の方が良いのではないだろうか?
昨今の技術進歩は確かに便利さをもたらしたが、それは実は複雑な工程を覆い隠したことによる幻想なのではないだろうか?

IT技術で言うなら、確かにAmazonでワンクリック購入は便利だ。注文したものが自宅まですぐに配送されることは快適だし便利に感じるが、これはサービス事業者と消費者間の工程が見えないからそう思うだけで、これが逐一見えていたらはたしてそう思うのだろうか?少なくとも、今抱いている印象とは異なるのではないだろうか?

特に今、地球温暖化とそれに付随する問題によって環境負荷が注目されている。また、オンラインショッピングに関わる配送で、配送事業者に皺寄せがきている話も耳にすることが多い。
これらを鑑みるに、複雑な工程を隠すことによって実現される目新しさよりも、どれだけの資源がどこに利用されてその結果として何が得られているのか?といった、見通しをよくする技術の方がより重要なのではないだろうか?

では、なぜこのように実際の問題解決や問題を繰り返さないこと、それに繋がる見通しをよくする技術よりも、目新しい技術の方が進歩として捉えられるようになってしまったのか?

私は、過剰な技術至上主義と、人間や社会と技術の関わりを正しく整理できていないこと、すなわち、人間視点の欠如によるものだと考えている。
ここでは、真の人間の進歩とは何か?という視点から、これからの技術がどうあるべきかを論じてみたいと思う。
そして、ここで取り上げる技術はインターネット関連のIT技術やサービスを指している。IT技術を取り上げる理由は、昨今の技術発展の一般的にイメージされるのがそういった技術であるからだ。

ITから見える技術至上主義

技術発展といえば昨今ではITがすぐにイメージされるだろう。インターネットの発展と、暮らしを便利にするサービスの登場と成長が著しい。
情報に簡単にほとんど無償でアクセスできることによって、利用者もサービス提供者もその恩恵を受けている。
特に最近ではAIと呼ばれる深層学習や強化学習の結果を利用したソフトウェア・サービスが、そういった無償で情報にアクセスできることによって、発展している。

ただ、この技術が発展しているという印象と実情とは大きく乖離していると私は考えている。技術発展によって、はたして問題が解決されてきたのか?という疑問を私は持っているということだ。

そもそも論として、インターネットやITが解決するといわれてきた課題はなんだっただろうか?

誰しもが、かつては一部の人間や大手のメディアにしか認められていなかった意見の表明を、コストをかけることなく実現することができる。そういったことの積み重ねとして、インターネットは百科事典のようになるだろう。意見の表明をしやすくするということは、民主主義に寄与するだろう。誰しもがコストをかけず自由に議論可能になることによって、民主主義はより良くなるだろう。このようなインターネット・デモクラシーが実現されるだろう。といったようなことが期待された時代があった。

「インターネットが公共空間を拡大させたので、これまでプロのジャーナリストと政治の専門家との対話のなかに閉ざされていた世界は、大きく開かれた。…まず、公開するというプロの特権が、インターネットによって奪われた。」

インターネット・デモクラシー(2012年)ドミニク・カルドン P.15

「フリー・ソフトウェアの品質が、プロプライエタリ・ソフトウェア 〔使用、改良、複製が、法的にも技術的にも制限されているソフトウェア〕よりも高いと評価されているのは、フリー・ソフトウェアのほうが、多くの人々の関与によって改良されているからである。「集団の知恵」とも呼ばれるこうした共同体の知能形式は、インターネットを発展させる際の理想になった。」

インターネット・デモクラシー(2012年)ドミニク・カルドン P.29

現在の状況を見るに、この未来予想は現代からすれば楽観的に過ぎるといわざるを得ない。

意見の表明や拡散についてのコストは劇的に下がったが、では気軽に誰しもがそれを行えるか?といわれればそうではないし、それが民主主義に寄与しているとも言い難い。
気軽に行えるがゆえに、慎重さを欠いた安易な言説が垂れ流され、情報が多過ぎるがゆえに、人の神経を逆撫でるような言葉が注目されるのが現状である。そういった中で、冷静な議論が行えるかといわれれば、むしろそうではなく言葉で殴り合っているのが現状であるし、懸命な人たちはむしろ意見表明から距離を置いている。
当然、こういった状況が民主主義に寄与するはずもない。

情報の真偽についても、考えもなしに投稿される情報が存在することはもちろん、自分たちにとって都合の良い情報を意図的に広めようとすることが行われていたり、安易な情報の再利用の中で、本来の意図とかけはなれた内容になってしまったりしていることがある。
つまり、百科事典には程遠いのが現状である。

「新たにインターネットを利用するようになったそれらの人々は、不調和な分裂した領域を生み出し、インターネットに商売を持ち込み、不評を買った。また、あらゆる場面に臆面もなく登場する彼らは、日和見主義や独創性に乏しい模倣的な態度をとった。 彼らは、協力と打算、天賦の才能といんちき、独創性と凡庸性を、ためらいもせずに組み合わせた。黎明期に定義されたインターネットの理想は、インターネットの利用が大衆化されたため、片隅へ追いやられた。」

インターネット・デモクラシー(2012年)ドミニク・カルドン P.42

SNSの登場によって交流が促進されると期待されていたが、それは「アテンション・エコノミー」(アンチソーシャルメディア(2020年)シヴァ・ヴァイディアナサン)と言われる仕組みを生み出した。これは注目を浴びる言説が持ち上げられる経済である。それによってSNS各社は広告を効果的に打つことができるのであるが、注目を浴びることは即人の役に立つような情報であることを意味しないし、そういった仕組みによって効果的に各人にターゲットを絞った広告を打てることから、ニッチで偏屈な思想をむしろ補強するような効果も持ってしまっている。

これはSNSが本格的に普及する以前から警鐘が鳴らされていたことであるが、フィルタリングやパーソナライゼーションによって、各人が興味を持つことに絞って情報に接することが可能になっている。こういった仕組みは知らないうちに機能しているため、自分がいる接する空間に、どういった情報が集まっていて何が見えていないのかを把握することが難しくなっている。

「我々がどういうものを食べるのかは、その食品の生産方法によって決まる。同じように、我々が消費する情報はメディアによって決まる。そしていま、我々の情報食は自分に関係のあるものだけが満載された状態になろうとしている。それはそれでいい面もあるが、過ぎたるは及ばざるがごとしである。パーソナライゼーションのフィルターは目に見えない自動プロパガンダ装置のようなものだ。これを放任すると、我々は自らの考えで自分を洗脳し、なじみのあるものばかりを欲しがるようになる。暗い未知の領域にひそむ危険のことなど忘れてしまう。」

閉じこもるインターネット(2012年)イーライ・パリサー P.25

そもそも、技術者は情報を絞り込むことに何の抵抗も感じていないので、意図的にこのフィルタリングだらけの状態、「フィルターバブル」(閉じこもるインターネット(2012年)イーライ・パリサー P.19)から抜け出そうとしない限り、接する情報は限られてしまうし、気が付かない。
つまり、基本的には様々な知見に触れることには寄与しないのが、現状のインターネットである。

そういった状況なので、個々人が世の中に意見を発信してより良い社会にしていくことが可能になるといった過去に期待されたような流れにはなっていないし、旧来のメディアは廃れるだろうという見通しも外れている。

逆に、雑多で虚偽の情報が溢れかえっているために、むしろ公的な機関による発信や、旧来のメディアによる発信や情報の整理が必要となっている。つまり、出本のわかる情報が重宝されるがゆえに、匿名の個人による発信が主体となるようにはなっていない、ということである。

とどのつまり、元々期待されていたことは全然解決されないままに、現在に至っているということだ。

ただし、新しいことはできるようになった。新しいサービスが次々と誕生し、眼前の便利さが向上していることは間違いがない。
ただしそれは、お茶を濁すことによって、以前からある課題が解決されずに放置されてしまっていることを、覆い隠してしまっているように私には思える。

前述のような問題がとるにたらない問題であれば、それでも良いのだろうが、結局IT各社が謳っているソリューション、提供するサービスは、本質的にはそういった問題を解決することを意図しているから問題なのである。
様々な人を繋げよう、コミュニケーションを円滑にしよう、効率よく情報を手に入れられるようにしよう、そういった趣旨の"ソリューション"を提供することを喧伝しているのがIT企業やそれに関わる技術者達ではないだろうか?

問題が根本的に解決されない、というより解決されたと思いきやまた蒸し返される例として、コンテンツにまつわる権利問題がある。
インターネットとコンテンツの権利問題はずっと課題であり続けているが、プラットフォーマーが権利者に正当な報酬を払うことによって、インターネット上でのコンテンツの利用を促進する、という方法が編み出された。
※例として、YouTubeがある。ここではアップロードされたコンテンツの権利者(アップロードした人だとは限らない)に広告料が支払われる仕組みが存在する。

個人的には、この仕組みは利用の促進と権利者の保護の観点から素晴らしいものであると評価しているが、最近ではいわゆるAI開発のためにコンテンツを無断で学習する問題が生じている。
ここでは深入りしないが、少しだけこの問題を論じてみる。

この無断学習によるコンテンツの利用において、正当な権利者が直接的に得るものはない。
古くから認められたコンテンツの利用方法として引用があるが、これは利用されるコンテンツの権利者には自身の意見を世間に広められるという直接的なメリットがある。
しかし、前述のようないわゆるAI開発のための学習においては、このようなメリットは存在しない。学習モデルの肥やしになるだけで、権利者にメリットは存在しないのである。

権利は権利として規定されているだけでは足らず、実効性や実益がなければ意味がない。
それは違反に対して法的措置を取れることはもちろん、それを権利を行使することによって得られるものがなければならない。
コンテンツの文脈で言えば、権利者は利用料を徴収することや自身の意見や作品を他の人に見てもらうというメリット、権利者ではない人はそういった対価を支払えばコンテンツを利用できるメリット、である。
昨今の問題はこのバランスを著しく欠いているという意味合いで、問題だと私は考えている。

つまり、せっかく解決に向かいつつあった問題がまた蒸し返されたのである。

ではなぜ繰り返されるのか?それは、後先考えずに革新を求めるアメリカ的思想に原因があると私は考えている。
インターネットはデファクトスタンダードであると言われており、間違いなくそのおかげで今日の発展があるのだが、それは、問題は事前に解決しようとするのではなく起こってから考えれば良い、という思想と、実利優先の功利主義が結びついたものであると私は考えている。

このデファクトスタンダード的な思想は、インターネット界隈特有の文化というより、アメリカの文化によるものであると私は考えている。インターネットがアメリカで発展したものであることであることと、アメリカ人の功利的な思想とを考えれば、そのように捉えるのが適切であるように思われるからだ。

加えて、技術がなんでも解決するかの如き固定観念(技術至上主義)も影響している。

昨今ではIT各社はバラ色の未来を売りつけ、それに取り巻くメディアもこぞって持ち上げる様がよく見られる。
例えば、SNSが政治運動に使われて盛り上がれば、技術によって個々人が力を持つ未来が実現されたように喧伝するが、実はその陰で同じような方法で試みられた政治活動が失敗したことは取り上げられないし、そういった技術を使用しなくても成功した同様のそれの存在は忘れ去られる。

「過去10年のあいだ、イランでは街頭デモがたびたび起きている。だが、その多くでソーシャルメディアが利用されることはなかったという事実にアナリストらが気づくことはなかった。彼らにしてみれば、多くの人が命がけで支配政権への抗議と苦悩を暴露した事実より、数名のツイッター利用のほうがはるかに重要だったのである。」

アンチソーシャルメディア(2020年)シヴァ・ヴァイディアナサン P.260

結果として、そういった技術が個人よりもむしろ権威主義的な体制の方がうまくそして大規模に活用できるということは、見逃されてしまう。

「ソーシャルメディアの力を矮小化し、民衆に力を与えて下から組織化するものとして扱うことは、慎重で取り扱いに注意を要する、きわめて重要な政治的運動や出来事に関する分析の妨げでしかない。権威主義的政権はソーシャルメディア、特にフェイスブックを駆使して反乱分子を監視し、苦しめ、弾圧する。/が、ソーシャルメディアの力を矮小化してしまうと、その政府のやり口を見えなくしてしまうのだ。新しい技術への礼賛のせいで、北アフリカと中東を一変させたメディアエコシステム全体についての理解がおよばなくなっている。アラブの春で起きた数多の蜂起のなかで失敗に終わった地は、決して分析に含まれないことを意味した。」

アンチソーシャルメディア(2020年)シヴァ・ヴァイディアナサン P.260〜261

IT企業は、その独善性で技術を広めれば皆が幸せになる(そして自社も儲かる)と信じ込んでいるが、その実は、文化的に異なったり実情が異なる地域・場所に自分たちの方法論を押し付けてしまっているがために、問題が生じている。
技術と文化は別物ではない。その境界は極めて曖昧だ。特定の思想に基づいて開発された技術が、その思想や思想を形作った文化と無縁のはずがない。

フィルタリングやパーソナライゼーションを含む技術・サービスは、そういった絞り込みが正しいと思ったり疑問に思わない技術者の思想と無関係ではない。そのくせ、サービス利用者に重要な情報を選別して与えることについては疑問を呈している。何が重要かどうかを選別することは間違っているとしながらも、フィルタリングやパーソナライゼーションを無自覚に肯定していることによって、実のところその選別を行なっていることは無視されている。

力を持つ企業、Facebook等が公的な空間や市民意識の醸成に努力することについて
「このような面でパーソナライゼーションのアルゴリズムを改良できないかとたずねたところ、数多くのエンジニアやテクノロジー系ジャーナリストから否定的な反応が返ってきた。なにが重要なのかを誰が決めるのかと聞き返してきた人もいる。ある種の情報のほうがほかの情報よりも価値があるとグーグルのエンジニアが決めるのは倫理的に問題があると反論してきた人もいる―実際のところ、エンジニアたちがずっとしているのはそういうことなのだが。」

閉じこもるインターネット(2012年)イーライ・パリサー P.285

技術はこのように思想や文化とは無縁ではない。その境目はグラデーションであって明示的なものではないのである。

「フェイスブックは人(開発者、運営者、利用者)とコンピュータコードでできている。そのコードを形づくるのは人で、人を形づくるのはコードだ。テクノロジーとその設計者、運営者、利用者、それにコンピュータが使われる文化的・社会的・経済的・政治的な環境との境目はあいまいだと考えている。」

アンチソーシャルメディア(2020年)シヴァ・ヴァイディアナサン P.45

つまり、技術が全てを解決するかのように信じ、それが思想や文化とは無縁であるかのように見做して、個々の文化や地域性といったものを無視するのが技術至上主義である。

人間と技術、主観と客観について

技術に対する思い込み

技術至上主義を支えるのは技術者の思い上がりだけではない。一般の人々の技術に対する期待もその原因の一つである。
中身についてよく知りもしないのに、きっとこうなるはずだ、これを使えば実現できるはずだ、となぜか決めつけて期待する。

「自分ではまったく科学に触れているわけではなく、時には科学的な考え方をするでもなく、ただ「科学が保証してくれ ているはず」という雰囲気の中で何も考えずに数字を鵜呑みにしているのです。 そうではなく、生きものであることを忘れずに、その力を生かすことが必要であると思うのです。」

科学者が人間であること(2013年)中村桂子 P.14

昨今で言えば、IT化がそれにあたるだろう。IT化さえすれば、まるで問題が解決できるかの如き風潮であるが、ITは魔法の杖ではない。
当たり前だが、結局は人が手を動かして物を作っている以上、何かしらのコストがかかることは避けられ得ないし、ITが向かない作業を無理やりIT化したところで効率が劇的に上がることはない。

本筋から離れるので簡単に要旨だけ説明すると、ITが得意なのはルーティンワークの代替と、複数の工程を一つに取りまとめることによる効率化である。
これらから外れてしまうような場合、いくら高価で高性能なデバイスやサービスを導入しても劇的に効率化がなされることはあり得ない。

こういったことを理解せずに、単にイメージだけでITを捉えるとあれもこれもできるという誤った認識に陥る。そういった意味合いで、実情や現状と一般の人が抱くイメージとの間には乖離が存在する。
すでに述べたが、技術と人間的なものとの間には明瞭な境界線は存在しない。にもかかわらず、技術と人間的なものとの連続性を無視ししてしまっているがゆえに、技術を過剰に持ち上げて何でも問題を解決できるかの如き風潮につながるのだろう。

技術は人間的なものとは別だから、文化・思想・倫理とは別のものだとして開発を推し進めてしまっているが、当然その影響は人間的なものに及ぶ。
当たり前だが、技術は社会において使われ、技術者は社会の一員なのであるから、社会すなわち人間的なものと無縁であるはずがない。
にもかかわらず、特に最近では客観性が神聖視されてることによって、人間的な主観が軽視されている。

ここにおける"主観"とは、人間にとって物事が何であるか?ということである。この文脈においては人間にとって技術はどういったものであるか、あるべきか?ということである。
技術による影響を我々は当然受けるのにもかかわらず、この視点が軽視されているのは極めて不可思議である。

客観的なものの代表としては、統計が挙げられるだろう。
統計情報は、主観とは異なる視点からの情報なので別視点の情報という意味合いで有用であるし、長期間の見通しを立てることにおいても有用である。
ただ、統計情報は、あくまでも全体における割合を扱うものであるから、個々の状況を予見することはできないことが基本である。
にもかかわらず、昨今ではこの統計情報とそれに基づいた指標が過剰に持ち上げられて、そういったことにも使用できるかのように思われているように見える。

もちろん、個々の状況においてその傾向から対策を立てることは可能であるが、より具体的に対処するためには個々の状況を加味しなければならない。
乱暴に言い換えれば、主観的に対応しなければ実際の状況には対応できないのである。

ここにも、技術に対する過剰な期待と同様の、〜しさえすればといった、統計があたかも魔法の杖か何かであるかのような期待がある。
このように、一般の人々の技術・統計といったものに対する認識と実情の間には乖離がある。そして、そういった乖離の中で勝手なイメージを持って技術を人がこういうものだと見ているのが現状だ。

この乖離の問題点は、単に期待過剰を招くだけではなく、人と技術とを切り離して考えるという悪い癖に繋がっていると私は考えている。
当たり前だが、技術も技術者も社会の一部である。また、技術は人や文化とは無縁のものではない。人がこうしたい、こうありたいと思ったり考えたりして形作られるのが技術である。
また、基礎研究のように技術にまで達していないような根源的な研究であっても、社会に影響を与えるという観点で言えば人と完全に無縁ではないし、もっと言えば、そもそもそういったものを研究するのは人の意思によるものである。

場所・風俗・文化が変われば技術の扱い方はもちろん、技術の形作り方も変わるはずである。つまり、技術は完全に客観的ではないのである。
詳しくは後述するが、そもそも真の客観性などない。もっと言えば、客観的であると思われている論理や理屈は、あくまでも現象に対して人間が貼り付けているラベル、人間なりの説明に過ぎないのである。

とすれば、人間と技術とを切り離して捉えることは間違いである。
そして、そういった認識は技術に対して過剰な期待を抱くことに繋がり、また技術を社会がコントロールすることを阻み、その暴走を許すことにつながるのである。

客観という主観について

論理や理論は主観から切り離された客観的なものだ、というのが一般的な認識であるように思われる。
実はこれは大きな間違いで、人間視点という意味合いで主観的なものである。論理や理論は現象に対して人間が行う説明づけのことであるし、そういった類のものに過ぎない。

論理や理屈といったものが、現象に対する人間の説明書であるというのは、どういことか。
現象は常に論理や理屈に先行している。そして、それぞれの論理や理屈はそれに合わせて見出され形作られるものである。それは、実際にそういったものが導出される過程を見ればわかる話である。そして、そういった論理や理屈は類似の現象には適用できるが、そうではない現象に対しては適用できない。なので、また新たに現象に対して論理や理屈を当てはめる作業を行う。この繰り返しである。

では、これを続けてゆけばそのうち全てを網羅する論理や理屈にたどり着くのか?
そうではない。そもそも人間は、人間という視点で物を見ている。その視点に囚われているといってもいいだろう。逆に言えば、別の視点、別の文化や何だったら宇宙人でもいいが、異なる見方が存在している。

数学が苦手な人は多いだろう。数字や記号が並んでいてとっつきづらく、ある種の才能のある人にしかわからないように思える。
だが、そういった数字や記号、公式は言葉に置き換えることができ、言葉で考えることができる。当然と言えば当然で、そういった言葉による表現を、より適切または理解しやすく表現するために数字や記号で表しているのに過ぎないからである。
このことからわかるのは、一つの現象に対して複数の説明のしかたが可能だということだ。

話をまとめると、理屈や論理は、先行する現象に対して人間が行う説明書きである。それは人間がどれだけ物を知ろうと変わらない、絶対的な手順である。そして、一つの現象に対する説明は、言葉と数学のように同じ人間の中であっても別の説明の仕方が可能である。
つまり、立場が変われば説明の仕方、見方が変わるということである。

これらのことから言えるのは、理屈や論理は人間視点という意味で主観的なものだということだ。乱暴に言えば、理屈や論理は人間によるラベル付に過ぎない。
これを突き詰めていけば、一見したところ世界の全容がわかったような気がするかもしれないが、前述の理屈で言えば、自分たちが作った説明書を見て世界をわかった気になっているだけ、自分の貼り付けたラベルに取り囲まれているに過ぎない、ということになる。

言い換えれば、客観性を突き詰めて主観的な世界に囲まれるといったところだろうか。

現代からすれば、過去の論理や理屈は古く間違いだらけに思えることだろう。
例えば、川で足を引きずり込まれるのは河童のせいだという話がある。実は川の流れが生み出す渦のせいで足が引きずり込まれるのだが、河童云々は現代から見れば非科学的なものに見える。
しかし、それは当時において行い得る現象に対する説明付だったのだろう。現代の我々がもっともらしいと思う説明も、未来からすれば荒唐無稽なそれに見られるものがきっとあるはずだ。

何が言いたいかというと、各時代の理屈や論理というのは、ポイントポイントごとの説明付に過ぎないということだ。各々の時代の人々が、自分達が今現在わかっている中で筋の通るように説明したものなのである。
その意味で、今現在の理屈や論理が絶対的であると考えるのは誤りであるし、また過去の理屈や論理がいかに荒唐無稽に思えたとしても、それを単純に時代遅れだとか迷信だと馬鹿にして良いものでもないのである。

このことを念頭に置いて、陰謀論者が語る突拍子もない意見がどこから出てくるのかを考えてみると、興味深いことが見えてくる。
彼らは彼らなりに持っている知識を繋ぎ合わせてそういった結論を導き出しているのであって、全く根拠がない(正しいという意味ではない)ものに基づいて判断を下しているわけではない。

このことと本質的に同様なのが、今現在の理屈や論理で全てが説明可能であるかのような思想、例えば技術至上主義もそうである。
すでに述べたように、現代の理屈や論理がいかに優れているように見えても、結局のところポイントポイントごとの説明書きにすぎないのであるから、それで全てが説明できたり解決できるかの如き認識は明らかに誤りである。

つまるところ、陰謀論者も技術至上主義も、自分達が認知している手持ちのそれで全てが説明可能だとする点において、本質的に同様の基準・水準で物事を捉えているのである。
そこには、自分が認知している世界(世界観)が自分達の説明付にすぎないという根本的な理解が抜け落ちており、あたかもそれ以外の事実や解釈が存在しないかの如くである。
その意味で、それらは過信の産物であり、思い上がった主観による歪んだ世界観に過ぎないのである。

「自然は複雑でありそのまま向き合うのは難しいのでモデル化するのですが、いつの間にかモデルがすべてとみなし、それだけを研究すれば生物がわかるつもりになるのが科学の癖になってきたように思います。」

科学者が人間であること(2013年)中村桂子 P.228

あるべき技術の姿とは

技術進歩によって新しいことはできるようになった。しかし、そこにかかる手間は見えてこない。
Amazonでワンクリックで物を買う時、ユーザーにはボタンを押しただけで商品が手元に届くように思える。しかし、その間の工程は、そういったサービスがなかった頃よりも複雑さを増していることは間違いがない。

サービスとしてのWebアプリケーションが必要で、それを設置するサーバーやアクセス負荷に耐えるためのインフラの整備、商品在庫の管理と確保、管理や出庫のために必要な人材や機械にかかるコスト、配送業者の手配と配送状況の把握等、単に店頭で物を買ったり配送を頼んだりといったことよりも、はるかに手間がかかっているのである。
ユーザーの感じる便利さというのは、こういった手間を省くことによるものであることはもちろんだが、これらを見えなくすることによっても実現されているはずだ。
すなわち、手間の問題は以前と変わらず残り続けているのである。

また、解決されると期待された問題が未だ解決されていないことや、解決されたと思われた問題が蒸し返される、といったことがある。技術が進歩しているというのであれば、もっと言えば人間が進歩しているのであれば、とっくに解決されて再び起こらないようになっていていいはずである。
すでに述べたように、インターネットにおける交流への期待とその課題への対処、コンテンツ問題の解決とその問題の再燃がそれである。
つまり、解決されるべき問題は放置され続けているか、解決したと思われたような問題であってもまた蒸し返されて問題になっている、というのが我々の現状なのである。

こういった状況であるにもかかわらず、目先の便利さや新規性に目を眩ませて、あたかも技術が社会や人間を進歩させているかのように持ち上げて、問題を放置している。今現在進歩と言われているのは、新しいものを弄んでいるだけで、問題を解決することを放棄しているように私には思える。
そろそろ頭を切り替えて、新規性ではなく、問題を解決することを進歩と認識すべきだろう。

また、技術と人との関わりについても真面目に考えるべきである。
技術を持ち上げるばかりに、何でもかんでも自動化を推し進めて作業から人を遠ざけようとしているが、これは大きな間違いである。

確かに、肉体労働や面倒な繰り返し作業を自動化によって代替できれば便利だろう。
だが、"自動化が進めば進むほど一人の人間の管理する範囲が広がるため、一人のミスが致命的な影響を与えてしまう"ということについて考えなければならない。

「もう一つの問題は、自動化が進むと、一人の作業員、運転員の受け持つシステムの規模が大きくなってくるわけですね。それだけ合理化が進んでいるわけですね。巨大装置産業というのはまさにそういう状況にあり、例えば深夜になると三人か四人の運転員で発電所の全体を見ているわけですよね。そうなるとエラーと一口で言っても、昔なら大した結果を生まなかったものでも、今日ではもたらす結果は桁違いに大きくなる。」

事故調査(1997年)柳田邦男 P.228

人間が作る以上完璧なものなどあり得ない。また、一般的に人間の制作物がうまく機能するのは、ある程度技術がこなれているものでそれが制作されていて、ハードウェアであれば劣化が始まっていないか、メンテナンスが行き届いていて、それを維持する人・時間・金といったコストがちゃんと支払われている場合である。
はたして、世の中そんなものばかりだろうか?特に、目に見えて利益があるわけでもないメンテナンスの費用は真っ先に削られるのが常ではないのか?

確かに、自動化の結果として事故はしばらく起こらないかもしれないが、事故を起こさないために必要なコストが十分に支払われるのでないのであれば、結局のところそのうち事故は起きるし、すでに述べたように自動化の結果としての大事故が起こることとなる。

デジタル化という言葉が錦の御旗のように掲げられるようになって久しいが、一般的にデジタル化はルーティンワークの代替と複数作業を一つにまとめることによって効率化を図っている。これは、雑に言い換えると"わかりきったこと"に対してその効能を最大限発揮するということになる。
逆に言えば、"わかっていないこと"に対しては十分に効能を発揮するとは限らない。

"わかっていないこと"というのはつまり、想定外の事故への対処やその予兆への対応のことである。
デジタルなシステムや制度といったものは当然何かを想定して作られているわけだから、それから外れたものに対しては十分に対応できない。その場合の対処にはアナログな人間が当たるわけだが、そういった事態に対処する訓練を怠ったりすれば十分に対処できない。
また、そのような場合においては事前の予想を超えた問題が生じるわけだから、状況の把握が重要であるが、仮にそういった設備がないような場合、やはり十分に対応できない。

何が言いたいかというと、いざという時に備えた人間が技術に対して関われるようにすべきであると同時に、人間が起こる事態に対処できるように全体を見通せるようにすべきだということだ。
いかに高性能な測定機器を取り付けたところで、故障したり劣化したりすれば用を為さないし、そういった測定機器も"こういったことが起こるだろう"という事前予測に基づいて、作られたり設置したりしているわけだから、想定外の場合には十分に用をなすとは限らない。

アポロ13号の事故について
「のちに同一条件のもとでおこなわれた実験の結果によれば、タンクの頂部近くの実際の温度は五三八度にも達していた。これは、のちにスリーマイルアイランドにおいて運転員たちを混乱させることになる問題のひとつを予兆するものである。スリーマイルアイランドでは、危機の最中、圧力逃し弁から出てくる水の温度が一四〇度以上になっても、コンピューターはそれ以上高い数値を表示しなかった。ここでもまた運転員たちはだまされ、表示されている温度が実際の温度だと考えるようになる」
※ スリーマイルアイランドとは、スリーマイル島原子力発電所事故(1979年)のことを指す

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか(2001年)ジェームズ・R・チャイルズ P.325

となれば、そういった高性能な機器に頼らなくても対処できるよう、アナログな手法で対応できるように人間を訓練することやそのための仕組みを作ることが必要である。
また、想定外の事態に気がつけるのは人間なのであるから、ある程度は人間が物事をチェックする仕組みもまた必要である。

特に、人間の感覚的な気づきというのは馬鹿にならない。意識には上らないが何かを知覚して気づくことはある。
別にこれは人間の感覚の方が機械より優れているとか、神秘的な感覚が必要だとかいう話ではない。繰り返しになるが、想定されている事態に対応するのが自動化やデジタル化であるのだから、想定外のことに対してはそういった感覚で対処するしかない、ということである。
特に、日常的な現象を知覚することで慣らされている感覚と、そうではない異変が生じた際に感じる違和感は、事前に予想され得ない事故を防ぐために非常に有用である。

ダムの崩壊事故に際して、現場作業員がいち早く危険を察知したことを踏まえて
「たしかにわれわれは、建設作業員、技術者、保守担当者といったおおぜいの人びとをもっと有効に活用すべきである。かれらは危険な欠陥が生じつつあることをだれよりも先に知る可能性が高く、この警戒能力をある種の訓練によって強化すれば 、かれらはどの時点から不安を感じるべきか自覚できるようになる。」

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか(2001年)ジェームズ・R・チャイルズ P.330

「さまざまな長所をもつにもかかわらず、自動操縦システムはそうした事故を起こしてきた。一九八七年一〇月にアエロスパシアルATR-4型ターボプロップ旅客機がイタリア・アルプス上空を飛行中に急降下、墜落したが…その原因は、氷が補助翼に付着し、だんだん厚みを増していたにもかかわらず、自動操縦システムが操縦系統をコントロールして飛行をつづけようとしたためだったという。パイロットたちは、自動操縦の制御能力が限界を超え機体の水平がたもてなくなるまで、問題が発生していることを察知できなかった。/機体が横にかたむきはじめ、その結果として自動操縦装置は停止した。この時点でパイロットが事態を改善するすべは残っておらず、同機は墜落した。だが、氷が厚みを増しつつあるなかで、自動操縦装置ではなく人間が操縦系統を制御していれば、機体を操作する「感じ」がだんだん悪くなっていくことを実感できるので、危機が迫りあることに――最悪の事態を迎えるずっと以前に気づいただろう。」

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか(2001年)ジェームズ・R・チャイルズ P.442

通常であれば、そういった感覚から生じる疑問に対して、情報を突き合わせて答えを出せるようにするべきであるし、非常時であればそういった感覚に基づいて行動ができる用意すべきである。
つまり、アナログな感性とデジタルを状況に応じて上手く組み合わせるか使い分けるべきであって、デジタル化をすれば全て解決するかのようなそんな単純な話ではないのである。

「好むと好まざるとにかかわらず、トラブルシューティングと判断力行使という能力は、 限界ぎりぎりのところで動いている高度なテクノロジーのなかで人間だけが発揮できる、数少ない技能なのだ。」

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか(2001年)ジェームズ・R・チャイルズ P.500

ここ数十年、技術進歩やイノベーションという言葉を弄んできたが、結局のところ問題は増えるばかりか解決されていないものさえある。
そういったことを鑑みるに、眼前の目新しさではなく真に問題を解決ための技術が必要であるし、人間が進歩したと言えるためには同じ失敗を繰り返さないことが重要である。
そして、そのためには人間や社会と技術との関わり方を真剣に考えなければならない。

人間や社会がコントロールできない技術などナンセンスだし、もしもの場合には人間が対処しなければならないわけだから、システム全体の見通しを良くして人間が関われるようシステムを作成し、制度を作るべきである。
すなわち、真に問題を解決するためには、全体を見渡せることが必要だということである。

「マシンはモデルなしで結果を出せるかもしれないが、人間はモデルなしでは理解ができない。我々の暮らしに関わるプロセスを人間に理解可能な形とすることには意義があるのだ。少なくとも理論的には人が受益者なのだから。」

閉じこもるインターネット(2012年)イーライ・パリサー P.249

人間が好き勝手やっても自然がよしなにしてくれる時代はとうの昔に終わった。
これからは人間が自分自身の行いに対して責任を持つ必要があるし、そのためには目新しさではなく真に問題を解決することが重要であるという価値観に頭を切り替えなければならない。

インターネットの文脈で、よくデファクトスタンダードという言葉が使われる。要するに、実践的に使われているモノがいつの間にか標準化しているということを指すのだが、これは新しいものを加速的に作ったり取り入れたりするには最適な思想であるが、自分自身の行いに対して責任を持つということとは相容れない。
なぜなら、他者との調整や行いの結果への考慮ではなく、実践に重きが置かれているからである。

しかし、すでに述べたように新たな価値観へ頭を切り替えるのであれば、このような考え方は諦めなければならない。真に問題を解決するためには、ただやりたいことを各々が突き詰めれば良いというのではなく、また悪意がなければ良いといったことでもない。
我々は結果責任を取らなければならない時代に入った、ということなのである。

最後に、特にここ最近のIT業界界隈のの浮ついた言説にはうんざりしているが、動機づけが良ければ許されるだろう、と言わんばかりの子供じみた発想で物事を動かすことや、それに踊らされて喜ぶことは、いい加減やめるべきだと考えている。

参考文献

  • インターネット・デモクラシー(2012年)ドミニク・カルドン

  • 閉じこもるインターネット(2012年)イーライ・パリサー

  • アンチソーシャルメディア(2020年)シヴァ・ヴァイディアナサン

  • 科学者が人間であること(2013年)中村桂子

  • 事故調査(1997年)柳田邦男

  • 最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか(2001年)ジェームズ・R・チャイルズ


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