人類最高の哲学者はクマのプーである 〜ジョン・T・ウィリアムズ著「クマのプーさんの哲学」のこと
A.A.ミルンによる児童文学「クマのプーさん」を知らない人はいないでしょう。そう、あの愛すべきプー。おバカなプー。まったくもう、プーのやつったら!
ところが、本書の著者ジョン・T・ウィリアムズは言うのです。
「人類最高の哲学者は、クマのプーである」と。
……おいおい、ちょっと待てと言いたくなった人も多いでしょう。
そこで今回はそんなぶっ飛んだ主張から始まる本書「クマのプーさんの哲学」をご紹介します。
著者ジョン・T・ウィリアムズについて
まず、本書の著者であるジョン・T・ウィリアムズというのは一体どういう人物なのか、気になる人も多いでしょう。どうせどこの馬の骨とも分からぬ奴に違いない、とまで思っている人もいるかもしれません。
本書の著者ジョン・T・ウィリアムズは幼い頃は子役をしていた人で映画化された「エミールと探偵たち」では主役のエミール役を演じたこともあるそうです。
その後演劇と文学の研究者となり、オックスフォード大学から博士号を授与されたのだとか。
うーん、思ったよりはちゃんとしてるような。そんなことありません?
ちなみに、本書を訳しているのはシェイクスピアの翻訳でお馴染みの小田島雄志さんと息子さんの奥さんである小田島則子さんです。
うん、こっちもちゃんとしてます。
本書の内容
それはさておき、本書の内容はどういうものなのでしょうか。
よく哲学というのはプラトンにつけられた長い注釈のようなものだ、と言われますが、著者によると違います。
第1章「この本はどんな本か」で著者は言うのです。
そう。プーが人類最高の哲学者である理由は、プー以前の哲学はすべてプーへと至る道であり、プー以降(「クマのプーさん」が刊行された1926年以後)の哲学はすべてプーにつけられた注釈だからなのです。
いやあ、どんどん風呂敷が広がってきましたね。
そういうわけで本書では第2章でプラトンやアリストテレスといったギリシャ哲学、第3章でデカルトやスピノザらの合理主義、第4章ではロックやヒュームらイギリス経験主義、第5章ではミル、ラッセル、ポパー、ヴィトゲンシュタインといった後期経験主義、第6章でカント、ヘーゲル、ニーチェといったドイツ哲学、最後の第7章でハイデガーやサルトル、カミュといった実存主義を解説していきます。
もちろん、クマのプーさんを引用しながら!
なぜならこれらの哲学を真に理解し、実践しているのは誰であろう我らがプーなのですからね。当然です。
そういうわけで、本書はクマのプーが大好きな人はもちろんのこと、哲学に関心がある人にもおすすめです。
なんか難しそうだって? うん、確かに、難しくなくはないかもしれない。でも、大丈夫。だってあのプーが教えてくれるんですから!
そんなこと本当にできるのかよ、と思う人もいるかもしれません。そこはまあ、実際に読んでみて判断していただくしかないのですが……
プーとソクラテス
さて、恐らく多くの人が、人類最高の哲学者は(もしもそれがプーでないなら)ソクラテスだ、と言うでしょう。
確かに、ソクラテスは偉大です。あのプーと並び称されるほどに!
なぜプーがソクラテスと並び称される(本当はその逆)存在なのか、いくつか根拠を示しましょう。
まず、プーのことはみんながバカだと思っているということ。そうでしょう?
しかし、そこで思い出していただきたいのは、ソクラテスのあの有名な教え「無知の知」です。
そう、ソクラテスは言ったのでした。私は私が無知であると自覚しているが故にそうでない人よりも賢い、と。
ああ、それこそ正にプーのことじゃないですか! 僕たちはプーがバカだと思っている。もうその時点で本当はプーよりも賢くないわけです。
また、僕たちは誰もソクラテス自身の言葉というものを知りません。ソクラテスは自身では著書を残していないからです。僕たちが知っているソクラテスというのは、実はそのほとんどがプラトンが書き遺したものでしかない。
このこともまたプーと同じです。プーもまた、僕たちはプー自身の言葉を知りません。僕たちが知っているのは、ミルンという作者を通して語られるプーだけなのですから。
最後に
とまあ、こんな感じで、それがソクラテスであれプラトンであれヴィトゲンシュタインであれニーチェであれ、まあ哲学者が述べていることは大抵プー物語の中でも語られているってわけです。
なんだか半分本気で半分冗談のような感じでここまでレビューしてきましたが、そもそも本書自体がそういう調子だったりします。
でも、どうなんでしょう。実は意外とそういうことの方が真実であるような、そんな気がしませんか?
完全な本気なんてむしろ笑ってしまいそうになるし、完全な冗談なんてつまらないじゃないですか。
そもそも、本書が主張してることが冗談に思えてしまうこと自体、マジメに考えるとなんだかおかしいような気がします。
「指輪物語」で有名なJ.R.R.トールキンはこんなことを言っています。
真に優れた文学は児童文学である。なぜなら、児童文学は子どもも大人も楽しめるからだ、と。
それって実は哲学も同じような気がします。プーがすごい哲学者なんだ、という主張が冗談のように思えるのは、プーのようなバカで子どもっぽい存在といわゆる哲学というものがまるでかけ離れているように感じるからでしょう。
でも、哲学って、大人が難しい顔(あるいは怖い顔)をしてやるものなのでしょうか。むしろ子どもが投げかける素朴な疑問の方が、ずっとずっと哲学だったりするんじゃないでしょうか。何で児童文学はあるのに児童哲学はないのだろう?
そんなことを考えていると、もう、僕だって本書の著者と同じようにこんなことを言いたくなってしまうのです。
人類最高の哲学者はクマのプーである。というか、クマのプーであるべきだ。
ってね。
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