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これは単なる作品集ではない ~寺山修司著「少女詩集」のこと

「少女詩集」、このタイトルからして男は手を出すのをためらってしまいますね。きっと甘くてかわいい詩がたくさん収められているのだろうなあ、なんて思ってしまいます。

また、この作品集は寺山修司の過去の作品集の中から「少女詩集」というタイトルにふさわしいものを選び取ったものです。そう考えると、つまりは寄せ集めの作品集なんだな、と思う人もいるかもしれません。

ところが、実はこの詩集、そんな生易しいものではなかったのです。

この詩集は寺山修司のいくつかの詩集の中から抜粋して編集されたものだということですが、寺山修司本人が編集したものなのか、それとも彼の許可を得て編集者がつくったものなのか、非常に気になるところです。


さて、この本は9つの章からなっています。(章、という表現が正しいのかどうかはわかりませんが、便宜上、そう呼ぶこととします)


ぼくの作ったマザーグース

ぼくが男の子だった頃
悪魔の童謡
人形あそび
愛する
花詩集
時には母のない子のように

最初の「海」「ぼくの作ったマザーグース」「猫」は、本書のタイトルにふさわしい、少女らしい詩が収められています。例えばこんな一節

きみ、知ってるかい?
海の起源は、たった一しずくの女の子のなみだだったんだ。

あるいは、

「あの月夜に
トタン屋根の上の一匹の恋を見かけてから
ぼくはすっかり
あなたに猫してしまった」

というように。

そして第4章目、「ぼくが男の子だった頃」の最初の詩は、こんな一文で始まります。

これは男の子たちの詩集である
女の子の詩集に仮装してまぎれこんできた

また、こんな一節も登場します。

少年は考える
言葉でじぶんの翼をつくることを

そして有名な「ハート形の思い出」や「黒板」のような少年寺山修司の少女みずえへの愛の告白が続くのです。

それはまるで最初の少女らしい詩の数々が、少年が想像した架空の少女であったかのようです。

そう考えると、この第1章から第4章までは彼の代表的な短歌である

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

を様々な詩のかたちで表現しているのかもしれません。


ところが第5章、「悪魔の童謡」で雰囲気は一変します。

かごめ
かごめ
籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に
魔女が仮面を売りにきた
どっちの顔がほしい?
どっちの顔がほしい?

や、

生まれてはみたけれど
どうせ酒場の家なき子
花いちもんめ
 赤いべべ着て
 地獄へ落ちろ
 親のある子は
 地獄へ落ちろ
酔っぱらってはみたけれど
どうせ闇夜の宿なし子
花いちもんめ
 少女倶楽部は
 地獄へ落ちろ
 花嫁人形は
 地獄へ落ちろ

と、今度は一転ホラーの世界。

ここで描かれているのは、もはや少年が憧れた、あの「海を知らぬ少女」ではありません。少女はもう、「海」がなんなのかを知ってしまっているのです。

そして、少年もまた知ってしまったのでした。少女というものが、ただ愛らしいだけの存在ではないということを。世の中というのは、そんなに単純なものではないということを。

第6章「人形あそび」でもやはり、恐ろしく、残酷な世界が描かれ、その世界は少しずつ淫靡なものへと変貌してゆきます。

第7章「愛する」で収められた詩には、もはや少女の面影はありません。

「台本は
 人生で汚されてしまったわ」

という言葉は、少女の口から出るものではないでしょう。

もはや少女ではなくなった女性は叫びます。

何もかもが嘘ばかり
どこにもシンデレラはいない
おとぎ話にだまされて
二十歳すぎても
夢ばかり
夢の城から来る人を
待ちくたびれたシンデレラ

(中略)

かえして私の子供の日を
かえして
かえして 私自身を!

両手を広げた麦藁帽の少年の前にいたあの「海を知らぬ少女」は、もうどこにもいません。というよりも、第一章のタイトルが示す通り、少女こそがまさに「海」だったのです。そして、少年が「海」だと思っていたのは、両手を伸ばして少女に教えようとしたものは、もしかしたら、本当はバケツにたまった水でしかなかった。

ここで終わったらなんかもう、悲劇ですが、この本はそうではありません。

真実を知ってしまった少年は両手を下し、がっくりとうなだれるでしょう。でも、そこには花が咲いているのでした。

第8章「花詩集」はこんな文章で始まります。

子どもの頃から、私は花ぎらいであった。花には少女の純情と年上の女の情欲とがまじりあっていて、とても私の手におえるものではない、という気がしていたのだ。

そうしてバラの、チューリップの、ランの、ユリの、コスモスの掌編の後、次のような文章が続くのです。

私の書いたことは、すべてうそです。
ほんとうは花が好きで好きでたまらないのに、なぜか花を見ていると悪事の誘惑にかられずにいられないというのが、ほんとうのところなのです。

花というのは正しく少女のことでしょう。それは純情でありながら瞳の奥に情欲を秘めていて、美しさの裏側に恐怖を秘めている。

​そして最終章「時には母のない子のように」は、有名な同名曲の歌詞からはじまります。

時には母のない子のように
だまって海を見つめていたい
時には母のない子のように
ひとりで旅に出てみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない

少女はやがて母になるでしょう。そしてまた母はかつて少女であったのです。

少年が少女を愛するということは、そのことを受け入れることなのかもしれない。だからこそ、「母のない子になったならだれにも愛を話せない」。

麦藁帽の少年は、やはり両手を広げるのだと思うのです。たとえ少女が海だったとしても。少年の想像する海=少女がバケツの水であったとしても。

そしてそんな少年の想像を受け入れる存在、それこそが寺山修司の求める少女なのかな、なんて、この本を読んで思ったのです。

少女とは、まるで海のように優しく、愛らしく、同時に恐ろしく、残酷ですね。それでもやはり、愛さずにはいられないものなのです。

改めて考えると、「少女詩集」ってタイトルは不思議ですよね。だって寺山修司は少女ではない。普通「少女詩集」とタイトルがつけられていたら、「少女が書いた詩集」だと思うじゃないですか。でも、これはそうじゃない。そんなことは、別に隠しているわけじゃなく、誰もが知っている。

つまりこの作品集は「少女ではない寺山修司が書いた詩集」なわけです。てことは、ここでいう「少女」とは、「寺山修司が演じる少女」であり、「寺山修司が作ったキャラである少女」である。

だからこそこの作品集は、実はこの寺山修司が作り、演じている「少女」というキャラのドラマとなっているのです。そして寺山修司は詩人であると同時に、演劇人でもある。

彼がやりたかったことは、ただの「少女をモチーフにした作品集」ではなかったと思うのです。そうではなく、収められた詩をモンタージュのようにしてひとつのドラマ、演劇を作り出すことだったのではないか。

いやあ、すごいなあ、その発想。

自ら既に発表した詩を再編集し、このように新しい作品として世界を提示する、こんなこと他に誰がやっているでしょうか。

「少女」と「寺山修司」、「詩」と「演劇」、「過去」と「現在」、「本当」と「嘘」。

寺山修司がこの本でやりたかったのは、それらをごちゃ混ぜにしてこれまで見たことがないような何かを作り出すことだったのかもしれない。

寺山修司。やっぱりこの人は天才だなあ。


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