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自分の心を整理する記事(友達になりたい人ができた)

このところ、自分の考える友達の定義についてモヤモヤとしているので、ここで書き出すことで何らかの納得が得られるかどうか、チャレンジしてみようと思う。

大人になると、子どもの頃とは違って、ただそこにいるというだけの理由では友達を作れなくなってきた。

知人と呼べる人は増えていくが、友人と呼びあえる人は減っていく。

そんな中で、私は非常に珍しいことに「この人と友達になりたい」と感じる人に出会った。

とても魅力的な女性で、能力も才能もあり、センスが良くて可愛らしいかただ。
この場ではAさんとお呼びしよう。

出会い方としては、私の根っこにある欲求を見つけるために対話をしてくださる、いわば「コンサルタント、ないしカウンセラーのようなことをしていただくかた」として、4名ほどが参加したイベントの場でお会いした。

そこでいち参加者であった私はおそらく、Aさんに恋に落ちたのだ。たぶん。

だって今現在、どうやったらAさんに会えるか、何をプレゼント(有形無形に)したらAさんに近づけるか、一緒にお話ししてもらうためにはどうしたらいいかなど、ちょいちょい考えたりしてるし。

これはもう、もはや恋なのではないだろうか。

しかし私は今現在、恋愛感情を持つ余地があまり無い。

それゆえ恐らくは「友達になりたい」という欲求としてそれが現れたのではないだろうか。

そして私は戸惑う。今まで無意識に使っていて考えてもみなかった、自分にとって”友達”という単語が意味することをじっくりと考えざるを得なくなったからだ。

なぜなら、友達として私がAさんと共にあるには、あまりにも遠い存在で。またもてる能力が違いすぎるように感じたから。

そして同時に、私はAさんの”何か”を強く欲していて(悪く言えば奪おうとしていて)どうやら、何かを与え合うとか、ただ時間を共有するとか、そういう対等な関係にいられないように感じたからだ。

そもそも、Aさんと会うにはまだ人を介してしかお会いできていないという現実もあるし。


私には友人だと呼べる関係の人が何人かいるが、それは殆ど、学生時代に出会った同窓の友だ。

つまりはベースに体験と時間の半強制的な共有があり、そこから時が積み重なって今の関係に落ち着いている。

そして私は友達と、普段はあまり密に連絡を取り合ったりするタイプではない。

会えば、食事を囲って近況を報告しあい、他愛もない愚痴を共有しあったりして、それで終わる、ありふれた友人関係。

(そして少なからず、そんな友人関係に物足りなさを感じていることも事実だ。半分は自分のせいだけど)


私は殆ど初めて、体験の共有が少ない人と、友達になりたいと思っている。

自分がAさんと友達になろうとするとき、まず私は自分の中で”友達”とは何なのかをきちんと形にしておかないとと思う。

だって、友達という皮をかぶって恋心を持った人間がそばにいたとして、その行いが友達のそれより範囲を超えていたらキモチワルイじゃん……?

Aさんはそういう人をうまくあしらうだけの人間的余裕と成熟をもっているけれども、際限なくそういうことを続けていれば嫌われちゃう可能性も高まるし。

きちんと自分のアウトラインを決めてAさんに接していたいという自戒のためにそれを定義したいと感じているようだ。


ふむ、ここまで書いてみて、これはどちらかと言えば私の中の”恋心”をどうにか”友情”に押し込めようという試みのようだ。

そして恋とは、自分の課題をあらわにするヒントであることを私は知っている。

私は夫について一度、”恋愛から結婚を経て自らの抱いていた幻想を打ち砕かれる”という盛大な痛い目を見たのちに”痛みを解消すべく様々な学びをし、人間として成長できた”という経験がある。

この恋について自分の反応を考察することは、さらなる自分自身の成長を促すトリガーになるのではないだろうか。


あれ、ぜんぜん違うところに結論が飛んでしまった。

しかし書いてよかった。

これに今気づけたことはとても大きいと感じている。

Aさんに下手を打ったりしなくて済むしね(笑)

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