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フリーランスになったことだし、ちょっと今までの自分について語ってみる

こんにちは、松本です。
Noteをはじめた当初、少々自己紹介させていただきましたが、あれからもいろいろ変わっているので、ちょいと今また自分語りをさせてください。

今の仕事は、自営業のスリランカ専門の旅行業であるジャスミンツアーズ(Sri Lanka Jasmine Tours & Drivers)と、非常勤の会計監査です。前者が本業、後者が副業の位置づけです。
わかりやすく言うと、私は会計士と総合旅行業務取扱管理者という2つの国家資格で食べています。
そうなった経緯を、書かせていただきます。


学生~ニート時代

横浜の女子高で自由に育ち、大学は東京にある国立大学の社会学部。考えることは苦手ですが暗記が得意で、数学のヤマが当たって後期試験で滑り込みました。部活は茶道部と競技ダンス部。時間があれば国技館や福岡国際センターに行くような大相撲好きでもありました。

会計士を目指したのは大学2年の頃。理由は、
①がちがちの組織で働きたくないから
②資格があれば将来結婚・出産してもすぐ復帰できそうだから

①は、体育会系の部活で、組織の統率のために理不尽な練習をさせられるのが本当に嫌だったんです。資格を持った人同士ならば組織の規律も緩いと思いました。これは実際、おおむねあっていたと思います。
②は当時はそれであっていたのですが、今は資格のあるなしに関わらず、女性がキャリアを継続的に構築しやすい環境に変わっていますね。まあ結局、今に至るまで、結婚も出産もしていないので、結果として自分には関係なかったです笑

つまるところ、手に職ならば資格は何でもよかったんです。テレビドラマかなんかで税理士を知り、親に聞いてみたところ、航空会社の経理マンだった父に「だったら会計士のほうがいいんじゃない」と言われ、どんな仕事かもわからず勉強をはじめました。ロースクールに行かせてほしいとは言いにくい環境でしたし。

ちなみに、4つ年上の兄も会計士です。彼は私より会計士を目指したのが遅いにもかかわらず、地頭と要領の良さをいかして先に試験に合格し、今は個人事務所を開業しています。
うちの兄を検索したら、こんなうさんくさい写真が出てきました・・

前述のように、理論的に考えることが苦手なので、当然会計も苦手で、試験に合格するまでに時間がかかりました。就職活動もしないまま大学を卒業して、1年半、NEET(当時の流行り言葉)でした。
当時は社会とのつながりがないことがすごく不安で、電車のホームの端に立ったこともあります。ホームに入ってくる電車の"ぶわっ"とした風圧に、はっと我に返り、「死ぬことは意外と簡単なようだから、もう少し生きているか」と思い、現在に至ります。

3回目の受験の頃は、出題のパターンをほぼすべて覚えてました。試験に向けて自分で勉強の計画を作り、それを淡々とこなすことは、自分のペースでできるので、その後につくどんな仕事よりも楽でした。自習室やカフェでは集中できずに家の自分の部屋が一番はかどるのも今と同じです。
振り返ると、このときに無理に就職しろと言わず、勉強に専念させてくれた両親には感謝です。休学したいと言ったら、普段は口数の少ない父に「そんな生半可な気持ちではいつまでたっても受からん」と叱られたのは今でも覚えています。

監査法人時代

会計士になった(正確に言うと、試験に合格した)のは2008年。ほっとしました。
監査法人への就職活動はかなり特殊で、新社会人の場合は、Big4と呼ばれる4社しかほぼ選択肢がありません。当時はリーマンショック直前で売り手市場だったので、だいたい行きたいところに行けました。第一希望の監査法人に内定通知を取りに行った後、有楽町駅でナンパされたのは覚えてます。

そんなわけで東京の監査法人へ入所します。当時、同期という存在は大変ありがたかったです。学生生活の延長のようなわちゃわちゃ感もありました。
ただ、今も連絡を取り合う同期はせいぜい1、2名かな。同期を問わず、当時のメンバーと集まると、面白いくらい話が合わなくて、ずいぶん遠くに来たものだ・・と実感します。

よく働きました。でも、当たり前かもしれないんですが、会計士って頭いいんですよね。周りの人たちの頭の回転の速さに、ちょっとついていけないなあと思うことも多々ありました。アップ・オア・アウトといって、監査法人に残るためには急こう配で成長し続けないといけないのもしんどかったです。
何より、当時お世話になっていたマネージャーには小さなお子さんがいたのですが、定時で帰宅されるものの、子育ての落ち着いた深夜や朝5時に業務連絡をされるんです。「この働き方はどう考えてもできない・・」と強く思いました。

事業会社時代

当時は30代半ばになると転職しにくい、と言われていたので、2014年、29歳のときにIT系の一般事業会社に転職しました。監査法人には5年半いたことになります。
その会社を選んだのは
①当時は二部上場で、あまり大きい会社ではなかったこと、
②有価証券報告書をみて、金融商品のような難しそうな会計論点がなさそうなこと、
③入社を1か月待ってくれたこと、が一番の決め手でした。おかげでスペインに旅行できました。

アビラ Avila の城壁
頭に流れた「冒険の旅」
セゴビア Segovia の水道橋
人類と文明の進歩について考えた
グラナダ Granada アルハンブラ宮殿
泣いた

転職先の部署はオーソドックスに経理。営業経理と海外子会社管理をやってました。途中、人間関係がうまくいかずにうつ状態で数か月休職しましたが、上司に恵まれて、続けて働くことができました。会社では4人の上司の下につきましたが、この復帰したときの上司を一番尊敬していますし、今でも「〇〇さんならどう判断するかな」と考えることがあります。

担当していた事業は基幹システムの導入プロジェクト。PM(プロジェクトマネージャー)さんに、何で赤字になっているのかとか、営業さんになんで入金が遅れているのかとかをチクチク聞く仕事でした。PMは事業の花形職業でお忙しく、対応は面倒だったと思うのですが、いい人が多くて、ずいぶん良くしてくれました。経理らしからぬフットワークの軽さが自分を助けてもくれました。やはり、ややこしい事案のときには直接お顔をみて話するのが一番です。
このときお世話になったPMさんとは何人も、今も連絡を取っています。

経理で4年ほどたったとき、いよいよ「会計はもういやだ!ルーティンワーク飽きた!」(←我ながらわがまま)となり、事業の現場に出たい、直接お客様とやり取りしたいと思うようになりました。
社内の根回しの結果、2018年、社内ベンチャー的な部署に異動し、クラウド型会計システムの製品プロモーションと会計事務所向けの営業を担当することになりました。

当時、企画・運営・登壇したのがこちらのセミナーです。監査・経理実務とは全く違う分野でしたが、マーケティング部の人に教えてもらってタイトルのつけ方や集客文の書き方から学びました。協賛金集めもしました。

会計事務所対応では、会計士がいるだけで先方の対応がフレンドリーになるようでしたが、システム知識がなさすぎて営業はへたくそでした。
目の前のお客様の心をつかむよりも、セミナーのように、不特定多数の人に対して「何かよさげなこと」を伝えるほうが得意でした。集客メールのライティングは一芸必殺レベルで得意になり、このスキルは今に活きています。ブログのライティングもこのときたくさんこなしました。

スリランカに旅行に行ったのもこのころです。初回は2018年の9月。
そして、スリランカでテロがあったのは2019年4月21日。
日付を覚えているのは、ちょうどこの日、ブログを開設したからです。
wordpress講座で一通り習って、簡単なwebサイトを公開できるようになったところで、スリランカの知人から

bomb blasted

という連絡がきました。何かのたとえかと思ったら、本当に爆弾テロがありました。このときに直感的に、「スリランカのために何かやらなきゃ」と思い、その気持ちが今に続いています。

そのときのブログはこちら

5年経って、当時の事件と振り返る記事

スリランカの経済危機は、コロナが直接の引き金になりましたが、観光はこのときに一度いたんでいました。

長くなったので、いったんここで区切ります。

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