信じるものは足元すくわれる
優しくてなかなかNOと言えない心配性のあなたには、
「ある特定の人々」
が集まってくることがあります。
それは「お金を貸してくれ」という昔の友人だったり、
「スキルがなくても誰でも○○万円稼げます!」というネットビジネスの勧誘であったり、
はたまた「宗教の勧誘」だったりします。
もちろん心配性わくわくも過去にそんな「宗教」に勧誘されたことがあります。
彼らは「誘う相手」をよく見ている
そんな宗教の勧誘は、比較的学生時代の元クラスメートからが多く、
突然話したことのないクラスメートが自宅のポストに手紙を入れてきた
ということも実際にありました。
当時はまだ個人情報に対して甘かったので、卒業アルバムに自宅の住所が載っていたんですね笑
なので恐ろしいことにそれを見て、家の前までわざわざ来ていたようです…。
そして特に困ったのが、中学生時代によく遊んでいた友人に飲みに誘われて行ったら、2人きりの席で熱心に「宗教の素晴らしさ」を説かれる、悪夢のような状況。
さらにもう1つが、友人からの「ご飯を食べに行こう」というお誘いでついていったら、
そこが「宗教団体の本拠地」だった、という地獄のような状況です。
もちろん熱心な信者ほど、「あなたのために!」という強い情熱で勧誘してきます。
当時の私は、まだそこまで心が弱っていなかったので、
「いやいや~と、とりあえず今は大丈夫だからさ!」
とやんわり断り、なんとか入信せずに済みました。
しかしこれがもし、「酷く落ち込んでいるような当時の状況」であれば…。
その「甘い誘い」に応じてしまっていたのかもしれません。
宗教は「良いもの」なのか?「悪いもの」なのか?
正直宗教という単語聞くだけで、「詐欺」や「洗脳」というような、マイナスイメージがあって怖いですよね?
しかしながら色々と調べてみると、長く人間の歴史に残る「宗教」というのは、とても優れた「仕組み」でもあるようです。
そもそもなぜ宗教が生まれたかというと、
「人間にはどうにもならないことが起きた」
というとき、「それ」を説明するために生まれたものが「宗教」という考えでした。
なぜなら、「正体不明、原因不明のものには恐怖を感じてしまう」ということが、人間の遺伝子には刻まれているからです。
例えば、津波や雷、噴火などの自然災害も、当時の人々にはその原因が分からなかったので、
「きっと神が怒っているからだ」
と理由を付けることで、だれもが『納得』することができました。
また疫病や日照り、作物の不作というようなトラブルも、
「これは神の機嫌が悪いんだ」
などと言い出す人がいて、それを聞いた人達も「きっとそうだ!」と信じ込みます。
その「神」に対して儀式を行い、捧げ物をして、その対価として病気の完治や、豊作を願ったり、雨乞いをしたりと願い祈ることが1つの「宗教」だったのです。
何か大いなる力に祈り、自分ではどうにもできない欲望を満たして欲しい…
そんな人々の「願い」から「宗教」は生まれたというのです。
人間は「理由が分からない」、「どうしようもできない」という理不尽さを解消するために、「神」という架空の信仰対象を作り、納得できるようにしてきました。
「なぜ地球があるのだろうか?」
「人間はどうやって生まれたのか?」
こんな疑問も、「神が創った」ということで、当時の人々はみんな納得していたのでしょう。
今でこそ科学の進歩で「地球は宇宙の大爆発で生まれた」ということや、「人は猿から進化した」というような色々な答えが見えてきました。
しかし、昔の人々は「どうしようもできない不安」に対し、「何かしらを信じること」で『心の平穏を保ってきた』という歴史があったのです。
宗教でしか解決できない「3つの問題」
科学技術が発達したこの現代でも、宗教でしか解決できないとされていることが、大きく「3つ」あると言われています。
「本当の幸福」
「人生の目的」
「死」
これらは人間にとって大きな「3つの問題」です。
これを分かりやすく言いかえれば、
幸せが何か分からなくなったとき
人生の目的を見失ったとき
死を意識したとき
このような状態に陥ったときに、人間は「宗教」というものに助けを求めてしまいます。
なぜなら人間には先ほども話に出たように、
「自分で理解できないこと」
「説明できないこと」
これらのことに強い恐怖とストレスを感じる生き物だからです。
ちなみに近年20万部を超えるベストセラー、「お金2.0」の著書である佐藤航陽さんは、本のなかで「宗教」についてこう話していました。
宗教とは、社会の中で報われない人たちを前向きな気持ちにさせる「救い」
報われない現実からの、「避難所」のような役割があった。
そういう意味では、宗教は過酷な生活環境で多くの人が困っていた課題に対する、
ソリューション(解決策)として存在していた。
「過酷な生活環境」を解決するための存在…?
心配性わくわくは久しぶりに会った友人から、「ご飯のお誘い⇒突然の勧誘」という悪夢のような連続技をくらった経験で、
「宗教=悪」
という自分なりの結論を出していました。
しかしこの歴史的背景を見ると、やはり宗教と人間の間には、そう簡単に切っても切り離せない「関係」があることがわかりました。
「信仰」と「強要」は全く違うもの
すごく楽しかった場所や、読んで良かった本を人に勧めたくなりますよね?
そんな宗教も純粋な気持ちで、
「あなたにとってとても良いことだから!」
という部分で勧誘してくる人が実際にはたくさんいました。
勧めている本人には全く悪気が無く、本当に『善意で勧めてる』というケースです。
しかしここで注意したいことは、自分にとっては良いことだけども、
「相手にとって本当に良いことかどうかは、相手次第だ」
ということですよね。
これを理解してないで勧めてくるのは、勧誘ではなく「強要」になります。
信じるか信じないはもちろん個人の自由です。
しかし相手のことを考えずに強要することはどうなんだろうか…、と感じます。
信じる者の足元を「巣喰う」者たち
「宗教」と聞くだけで身構えてしまい、少し距離を取ってしまいますよね。
しかし大前提としてどんな宗教であれど、実際は日本国民憲法で、個人の【信教の自由】が保障されています。
なので、注意するべきは先に話した善意の勧誘ではなく、完全に相手の弱みに付け込んでくる「詐欺・洗脳タイプ」の人たちです。
人は弱っているときはワラをもつかむ勢いで、何かに助けを求めてしまうものです。
しかしそんなときに卑劣にも近寄ってくるような、【宗教の勧誘】には気をつけましょう。
「心を病んで病院に行ったら、その病院は【とある宗教団体】と裏で繋がっていて…」
そんなウソのような怖い話もあります。
まともな判断ができない状態なのを良いことに、入信させる。
こんなことは「信教の自由」ではなく、完全に詐欺と洗脳です。
どうしても何かに助けを求めたくなる気持ちはとても分かります。
誰かに「進むべき道」を導かれ、「幸せ」が何かを教えてもらい、肉体が「死」んだ後のことを託せたら…確かに心配や不安は無くなるかもしれません。
しかし、それは本当に「自分の人生」なのでしょうか?
入信することで今後は、「宗教の教えに自分の人生を当てはめていく」ということなります。
人は自分の人生を選び進んでいきますが、これでは、「自分の人生を歩めなくなる」という可能性もあります。
『宗教が良いか悪いかは、「自分自身」がしっかりと判断するべきこと』
心配性わくわくはそう思います。
あなたはどう感じますか?(*´ω`)
もしよろしければご気軽にコメントしてもらえると、とてもワクワクします♪
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?