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「君は君の人生の主役になれ」感想

私はかつて、独特の世界を行きたいと心から願っている子どもだった。学年の大半が医学部か法学部に進学するような進学校にいながら、「なんでみんな医学部や法学部に決めることができるんだろう?」と疑問だった。
当時は、裕福な友達の持ち物や旅行先なんかがうらやましく、自分を不幸と感じたこともあったが、今思えば早々に自分の生き方を決める必要がなく、自分のやりたいことを追求できるとても幸福な子どもだったのだと思う。

高校の校長は「人生は壮大な無駄である」と言っていた。私はそこに何の疑問も抱いていなかったが、医者の子、弁護士の子として生まれ、すでに将来がうっすら決まっていた周りの友達は、うすら寒い気持ちで聞いていたのかもしれない。

「君は君の人生の主役になれ」を読んでいると、そうした学生時代のことが思い出された。

かつての子どもとして、私は自分の子どもが10代になったらぜひこの本を読んでほしいなと思った。子どもが今後、生きづらさを感じることがあったとき、きっと助けになってくれる本だからだ。

しかし一方で、大人や親として読むと複雑な思いにもなった。この本では二項対立で考えることへの注意喚起が繰り返されている。二項対立というのは、単純で理解しやすい一方、二項に簡単に割り切れない曖昧な部分を見えなくしてしまう恐れがあるからだ。しかしこの本で「親」や「大人」が語られるとき、「子ども」と対峙した存在として語られているようにも思えた。

「大人」「親」という言葉それ自体が子どもとの対立構造を含んでいる部分もあるとは思うが、ひとりの大人、親である「自分」に焦点を当てると、それほど確固たる子どもの対立項として存在しているとは言い難い。「かつての子ども」の心を残しながら自分以外の「大人」の振る舞いに理不尽さを感じることも多々あるし、親という責任から逃れてひとりで趣味に没頭していることもある。

たしかに第3章において、「あなたの親は、あなたが生まれたそのときにはまだ十分に親ではありませんでした。あなたの親を親たらしめたのは、他でもないあなたでした。」(p135) といった一定の目くばせはあるものの、「親」になった後の親は、一枚岩的に語られているように思う。

親も「"親" からの逃走線」を確保することはできるだろうか。あるいは「子どもからの逃走線」を引くことは許されるだろうか。出生数が急激に減少する今の日本は、多くの若者が「自分の人生」を生きることを優先し、「親になること」「親として生きること」を注意深く避けるようになったようにも見える。そこにはある種の希望も感じるものの、子どもを持つという選択肢をした者としては一定の寂しさも感じるのである。

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