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【短編小説】カラス、軽快なステップ。

決行の時間は、刻一刻と迫っていた。俺は獣のように鼻息を荒げ、大通りを歩いていた。焦りと不安が神経を不快に撫でつける。呼吸は乱れ、頭の血管にいつも以上の血液が流れているのを感じる。「落ち着け、落ち着くんだ。深呼吸をしよう!」大声でそう言うと、前を歩いていた女が早歩きになった。
息を深く吸って吐いた。マスクにぶつかった息は行く当てを失い、眼鏡を曇らせる。気がついた時には、眼鏡を勢いよく顔から取り、コンクリートの地面にぶん投げていた。俺は視界を明瞭にするために眼鏡を買ったのだ。もう一度深く息を吸う。肺胞が膨らみ、酸素をいっぱいに取り込もうとしているのが分かる。それから大きく息を吐いた。視界は膜を張ったみたいにぼやけていた。マスクの方をぶん投げればよかった。

駅前の大通りを一筋外れた所に、その店はあった。古い木造の二階建ての家は、丹精な雰囲気を醸している。中崎町に紛れていれば、若者がカフェと間違えて入っていくに違いない。しかし、店の前にある大きなライムグリーンの看板が、全体の印象を見事なまでに壊している。縦に1メートルと少しあるその看板には、白字で「タトゥーショップ タトゥー」と書かれている。ふざけた店名だ。「バイク川崎バイク」みたいなことなのだろうか。
その長方形の看板の上に、カラスが羽を休めていた。カラスは俺の姿に気づくと、羽を少しだけ羽ばたかせてコンクリートの地面に着地した。細くしなやかな足でしたっ、したっ、と軽快なステップを踏み、俺に一瞥をくれてから夕暮れの空へ飛んで行く。

扉を横にスライドさせると、「カランコロン」と気の抜けたドアベルが鳴った。床が軋んだ音がして、男が奥から顔を出す。

「なに?お客さん?」

男は青いメッシュ帽にサックス・ブルーのブラウス、ベージュのハーフパンツという出立ちだった。胸にはハートマークのロゴが入っている。なぜか裸足だった。マスクをしているが、顔には所狭しとタトゥーが並んでいるのが分かった。配置のセンスが優れているのか、顔立ちの雰囲気と絶妙にマッチしている。

「予約していた宇治川です」

俺は少しだけ心が軽くなった。この男にならタトゥーを任せることができそうだ。

「ああ、了解。顔に”孤独”って掘るんだっけ?とりあえず中にどうぞ」
男はフランクな調子でそう言う。どうやら敬語を知らないらしい。俺は靴を脱ぎ、男の後を続いて廊下を進んでいく。一見して普通の民家だ。タトゥーショップに来たと言うより、友達の実家に遊びに来た感覚だった。

手前から2つ目の部屋は障子が空いていて、テレビの音が聞こえる。本当に実家みたいだなと中を覗くと、ババアがテレビを見ていた。

「え?」

「どうかした?」

「いや、おばあさんがいるんですけど」

「うん、いるよ?」

「なんで?」

「いや、実家なんでそりゃいるでしょ」

男は何を言ってるんだこいつと言ったように苦笑いを浮かべながら答える。実家をタトゥーショップに改造しているヤバいやつだった。

「母ちゃんには内緒でやってるから、さっさと行こう」

「バレてるだろ多分」
母ちゃんだったらしい。おばあさんと言ってしまったのを若干反省した。

「ここだよ。どうぞ」
通されたのは6畳の部屋だった。その奥には勉強机があって、教科書が並べられている。世界地図のポスターも貼られていた。しかし、天井からはタトゥーを掘るための、針付きのペンのようなものがぶら下がっている。セルフ式ガソリンスタンドみたいだ。紫のダサい座布団が、その両脇に並べられていた。

「じゃあそこに座って」

「あの、なんでこれ、ぶら下がってるんですか?」

「ああ、この天井に繋がってるところあるでしょ?そこがちょうど雨漏りするんだよね。だから上にインクを流して、それで漏れてきたので彫ってんの」

一つも意味が分からなかった。

「あと気になってたんですけど、おいくつですか?」
遠くから見ると分からなかったが、近くで見ると大分顔が幼い。

「21だよ。まあこの世界は長いから安心して」

「ああ、それでさ、」男はそのまま続け、マスクを取った。お客さんのタトゥー、こんな感じでいい?

顔には昨日電話で伝えた、俺の今日彫るはずのタトゥーが刻まれていた。行書体で「孤独」という2文字が目の下の頬骨の辺りに大きく彫られている。

「え、どういうこと?」

「いや、お客さんのは全部試しに彫ってんの」

「へぇ...」
俺は若干この男に気圧されていた。おそらくこいつはキチガイだ。今すぐ逃げたほうがいい。しかし、なぜか俺はその場から動けなかった。それが好奇心から来るものなのか、恐怖から来るものなのか判断できない。

「じゃあもう彫っちゃおっか。これでいいよね?」

「はい。それでお願いします」
彫られているタトゥーは完璧だ。セルフでこれが出来るならば、腕は確かなのだろう。

男はペンの先にあるスイッチを入れる。先端が小刻みに揺れ、音を立てて向かって来た。皮膚に針が押し当てられる。弾力を持った皮膚が、針を押し返そうと一瞬抵抗する。その瞬間、経験したことのない激痛が俺を襲った。
「痛い痛い痛い痛い!!!!」
想像を絶する痛みだった。痛みという形容では足りなかった。死を顔面に押し付けられている。そんな奇妙な形容が、頭の中にふと浮かんだ。全身の穴と言う穴から冷や汗が噴き出て、目の前がチカチカと点滅する。即座に右手を上げ、作業を中断させた。

「はあ・・・はあ・・・タトゥーってこんなに痛いんですね。初めて知りました」脂汗がぽたりと垂れ、畳にシミを作る。痛みは心臓が波打つたびにやってきて、俺はその度に呻き声を漏らした。

「ああ、ウチは痛み2倍なの。その代わり速さも2倍だから。比例なんよ」

マジで何言ってんだ。

「ほら、見てよ。もう一部彫り終わってるでしょ?」そう言って男は手鏡を差し出した。

見ると、本当に一部が彫り終わっていた。どういう仕組みだよ。真っ黒な行書体で、「瓜」という字が書かれている。

は?おいおいおいおい、何こいつ?「孤」ってタトゥー彫るのに右の「瓜」から書くの?ありえねえだろ。義務教育受けてんのかよ。普通「子」から書くだろ。マジ頭おかしいんじゃねえの。

「おっさん、ちょっと静かにしてくんね?」

「はい、すみません」
声に出してしまっていた。21の子供におっさんと呼ばれ、頭に血が上ったが、我慢して謝った。下手に刺激すると、顔に変なタトゥーを彫られるかもしれない。もし「淫乱メガネ君」なんて彫られた暁には、この先の人生を「淫乱メガネ君」として生きていかなければならない。それは嫌だ。メガネを買い直さなければいけないし、ヘソの下にハートのタトゥーを追加しなくてはいけない。

「あとお前、俺の母ちゃんのことおばあさんって言ったよな?」

「すみません」
これは本心から謝った。

「じゃあ続き行くね〜」
そう言って男は、許可もなく作業を再開し始める。

「え、ちょっと待って。まだ心の準備できてないから」
次あの痛みを食らったら、俺は本当に死んでしまうだろう。しかし、俺の意図とは裏腹に、針は俺の頬骨に向かう。ああ、俺の人生はここで終わる。最後に見る景色が、キチガイのタトゥー・アーティストなんて嫌だ。死は小刻みにその体を震わせながら俺に向かってくる。意識は次第に薄れていく。遠くでかすかに、カラスの鳴き声が聞こえた。

真っ黒の空間に、俺は佇んでいた。地面には8ミリフィルムのようなものが落ちていて、淡い光をたえている。光は放たれたそばから暗闇の中に吸い込まれて行くため、辺りは不明瞭だ。ただ優しく、フィルムだけをその光で包んでいる。その消え入りそうな光は道のように、ずっと遠くの方まで伸びていた。俺は腰を下ろして、その断片を注意深く見つめては、少しずつ手繰り寄せた。

俺はずっと孤独な人間だった。クラスでペアを作りなさいと言われた時、一人だけ教室で飼っているザリガニとペアを組まされた。ランドセルの並ぶうらぶれたロッカーの上に、隙間を埋めるためだけに飼われているザリガニと、なぜ万引きをしてはいけないかを話し合った。答えは出なかった。
高校に入ってすぐ友達ができたが、ふざけてイジってきたそいつを、俺はボコボコにしてしまった。15年孤独だった俺は、イジりという概念を知らなかったのだ。次の日、昨日まで友人だった男とその取り巻きから報復を受け、入学して1週間で俺は奴隷になった。
大学ではフォークソング研究会のガリガリの男にいじめられた。
俺は社会のどの部分にもうまく交われなかった。クレヨンの上に垂らした絵具みたいに、誰かが区切った画用紙の上を這いまわっていた。いつからか、社会と交わることを諦め、孤独を求めるようになった。

社会は孤独な人間に対して容赦をしない。孤独な人間は周りから見下され、見捨てられ、そして見て見ぬふりをされる。誰かと繋がっているということは、社会に認められているということだ。そうした繋がりの感覚は、俺たちに否応なく自我を意識させる。他人が見ている自分を本当の自分であると見紛う。他人からスポットライトを当てられたところだけが意識され、承認される。それ以外は暗闇に消えてしまう。そして俺のような、認められていない人間を見て言うのだ。お前は端役だ。木偶の坊だ。主役の邪魔をするなと。だから俺は「孤独」という文字を顔に刻むことを選んだ。全ての繋がりを断ち切り、自らの人生に一滴すらの光を当てず、暗闇の中で生きる決心をつけるために。そして自分の孤独は、自ら選んだものであるということを示すために。

フィルムはそこで途切れていた。

左目の下あたりに何かが当たっている。気がつくと、俺は地面に寝転がっていた。青い帽子のタトゥー・アーティストも居ない。古民家も緑の看板もなかった。
カラスが俺をゴミと間違えて嘴でつついていた。俺が上半身を起こすと、また軽快な足取りを踏み、飛んでいってしまった。俺はとうとう気がふれてしまったのかもしれない。路地で倒れ、タトゥー・アーティストの幻覚を見たなんて医者に言えば、閉鎖病棟に入れられるか尿を取られるかのどちらかだろう。あるいは両方かもしれない。幸い人通りが少なく、誰にも見つかっていない。帰ってデーブ・スペクターのアンチスレでも荒らそう。そう思って駅に向かった。途中、気を確かに保っておくために素数を数えようと思ったが、素数をよく知らないのでオリジナルのもので代用した。「テキサス」「マンチカン」「7」...と数えていき、「棒餃子」で家に着いた。

鏡を見て、俺は少しだけ動揺した。左目の下には、はっきりとした字で「孤独」と書かれている。帰りの電車で俺の隣にだけ誰も座らなかったのは、同人の素数を声に出して数えていたのが原因ではなかったのだ。その2文字は石鹸で擦っても、1ヶ月経っても消えなかった。

タトゥーを入れたら何かが変わるような気がしていたが、結局のところ俺は何も変わらなかった。生活保護の金をクラッシュ・バンディクーに課金するようになっただけだ。相変わらず、どこにも辿り着かない、光のない弛んだ線上を生きている。
アパート前のベンチで、タバコに火をつけた。煙とも、白息ともつかない何かを口から吐き出す。西陽が薄雲の切れ間から差し込んで、空は奇妙な紫色をしている。帰宅中のサラリーマンが俺の顔を一瞥し、何も言わずに去って行った。手繰った過去も、顔に刻まれた文字も、彼からすれば周りを通り過ぎる景色にすぎない。

俺とは何の関係もなく、冬が始まっていく。遠くの方でカラスがしきりに鳴いていた。

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