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ナポレオンとクラシック音楽(3):「ウェリントンの勝利」

19世紀最初の20年ほど(交響曲第一番を出版した1801年からイギリス行きを模索する1817年頃まで)の音楽界を牛耳ったともいえるベートーヴェンと、フランス皇帝ナポレオンは、同時代に生きながらも、お互いに出会うことはありませんでした。

1809年のフランス帝国軍のウィーン占領時(1805年に続く二度目)には、ベートーヴェンの支持者であるロブコヴィッツ侯爵(英雄交響曲や第五交響曲の被献呈者)や皇弟ルドルフ大公(ピアノソナタ第26番「告別」作品81aは、大公との別れにちなんで作曲された曲)が市街へ避難するなか、ウィーンにとどまり続けたのです。

ソナタの第二楽章は「不在」と題された、寂寥感と在りし日への憧れのような想いで満たされた短い楽章。

仏軍占領下のウィーンにおけるハイドンの死

ベートーヴェンの師である交響曲の父ヨーゼフ・ハイドンは、ウィーンを占拠せんとする攻め入るフランス軍の打ち込んだ大砲が轟く中で自宅で死去しています。1809年5月31日のこと。

不発弾が自宅に着弾しても老ハイドンは動じることもなく、「わたしはヨーロッパでもっとも有名な音楽家だ、フランス軍も私を害することはない」と落ち着き払っていたとか。

実際、オーストリア軍を破ってウィーンに入城した音楽好きのフランス軍の一将校は、ハイドン宅に護衛の兵士たちを派遣して大作曲家を保護しました。その折に将校はハイドンの最高傑作オラトリオ「天地創造」の中のアリアをハイドンの前で披露したのでした。

仏軍占領下のウィーンにおけるベートーヴェン

一方のベートーヴェンは街中を飛び交う大砲の轟音に怯えて、耳の周りに枕を押し付けて、難聴の悪化を恐怖して一睡もできなかったのでした。ベートーヴェンの耳は急に悪くなったのではなく、徐々に病状は進行して、終には最後まで聞こえていた甲高い音さえも聞こえなくなるのですが、おそらく轟きわたる大砲の着弾音は耳によく響いたのでしょう。耳を守るのに必死だったベートーヴェンと、人生の最期を迎えんとしていた落ち着き払ったハイドンとの違いが対照的です。

悪化してゆく聴力を抱えた音楽家ベートーヴェンの必死の努力は、当然ながら優れた補聴器を求める方向へと向かい、後にベートーヴェンの人生に多大な影響を与える、ある人物と出会います。

メルツェルとの出会い

メトロノームの考案者として有名なヨハン・ネポムック・メルツェルです(発明者ではありません)。手先が器用でいろんな道具を作り出せるメルツェルが当時最大の作曲家として高名だったベートーヴェンに出会ったのは、難聴の作曲家が補聴器を必要としていたからでした。

ベートーヴェンが保有していた補聴器

こういう喇叭型の補聴器。園芸用のじょうろではありません。

補聴器を使用するベートーヴェン

出会いは1813年の夏のこと、作曲家が求める特製補聴器を製作することからメルツェルはベートーヴェンと知り合い、経済的困難に陥っている作曲家にある儲け話を持ち出します。

1813年の政情はロシア遠征に敗れたナポレオンが断末魔の叫びを上げ始めた頃。「会議は踊る」のウィーン会議の時代が幕開ける数年前。

度重なる戦乱によってウィーンの物価は高騰し、ベートーヴェンを経済的に援助していた貴族なども没落。1800年から1830年の間に物価は三倍になったと言われています。1800年以前は物価変動などあり得なかったのに。

ピアノソナタ第21番作品53ハ長調に不滅の名を遺した、若き日の作曲家の親友ヴァルトシュタイン伯爵が破産没落したのもナポレオン戦争で社会的秩序が崩壊したがため。

当時、ナポレオン戦争の混乱ゆえに支持者貴族による年金も滞り、ベートーヴェンは金策としてアイルランドの民謡などを編曲して日々の稼ぎを作り出すありさまでした (民謡編曲は1806年ごろから1820年頃まで続きます)。

ベートーヴェンは音楽史上、生涯にわたって最も金に困っていた音楽家の一人なのでしたが、こういう時代を生きていたためでもありました。彼個人の金銭感覚や財産運営の資質ばかりの問題ではなかったのです。

一攫千金の大金を必要としていたメルツェルがベートーヴェンに吹っ掛けた儲け話は以下のようなものです。

自動演奏機械による「ウェリントンの勝利」

ナポレオンはモスクワ遠征で大敗 (1812年)。スペインのヴィットリアにおいてもイギリスのアーサー・ウェルズリー率いる、イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍が皇弟ジョゼフ・ボナパルト率いるフランス軍を打ち破り、ナポレオン帝政は末期状態へと突入するのです。

ウェルズリーはこの戦功において、ウェリントン公の爵位を与えられ、以後初代ウェリントン公爵(The Duke of Wellington)として知られるようになります。

フランス帝国軍敗退の報に、フランス軍の占領の悪夢を忘れてはいないウィーンの街は戦勝気分に沸き立ちます(フランス軍による占拠は1809年から1810年まで)。

つまり、メルツェルはこの戦勝ムードに便上して金儲けをしようとたくらみ、18世紀後半より大人気だった自動演奏オルガンを改良して作り出した自作の「パンハルモニコン」のための作曲をベートーヴェンに依頼したのです。

「パンハルモニコン」は巨大なオルゴールのような自動演奏楽器で、太鼓や喇叭が取り付けられている、当時の最先端の技術を組み合わせて作り出された音楽再生機。

「いまに生きるベートーヴェン」より

ナポレオン嫌いゆえに、イギリス軍の勝利を祝うための音楽を作り出すというアイデアにベートーヴェンも意気投合して、二人してパンハルモニコンの改良を試みます。

ベートーヴェンもまた、産業革命の時代を生きた作曲家だった証のようなエピソード。作曲家もまた、機械の創り出す音に夢中になったのです。

こうして作曲されたのが、音楽愛好家の間ではベートーヴェン最大の駄作として知られる、「ウェリントンの勝利、またはヴィットリアでの勝利」作品91。戦争交響曲とも呼ばれます。

にもかかわらず、「ウェリントンの勝利」は作曲家ベートーヴェンの生涯最大の商業的成功作となります。非常に具体的な戦争の情景を描いた音楽活劇なのでした。こうした音楽はこの曲以前には存在しなかったのです。

この曲ほどにベートーヴェンに経済的利益をもたらした作曲は他にはありません。作品の世俗的価値と芸術的価値は一致しないという好例。

つまり、ポピュラー音楽のミリオンセラーのはしりと言えるもので、この曲を聴けば、クラシックとポピュラーを分けるものはなんであるかが判ります。世にも珍しい、音楽で哲学しないベートーヴェン音楽です。

派手なファンファーレや大砲の音やイギリスの愛国歌 Rule Britannia まで飛び出してくるというトンデモな曲。こんな風にしようと言い出したのはメルツェルなのだそうです。確かにベートーヴェンからは出てきそうにない極めて卑近なアイデアばかりが詰まっている音楽ですが、そうした非ベートーヴェン的な音楽構成にも関わらず、オーケストラの個性的な響きなどはまさにベートーヴェン。

この曲、いままでにお聴きになられたことがないのであれば、是非ともお聴きください。特にクラシックは普段は聴かないと言われる方。
真面目なベートーヴェン愛好家がけなし、クラシックを毛嫌いする人が聴くと「なんて楽しい曲だ」と喜ぶという音楽です。

愛好家がベートーヴェン指揮者としては、しばしば失格の烙印を押す大指揮者ヘルベルト・カラヤン (1908-1989) の演奏が史上最高の出来栄え。

指揮者の個性と、この曲の通俗性が合致したという素晴らしい動画。いわゆるベートーヴェン指揮者にはできない演奏。

ハリウッド戦争映画BGMの先駆のような音楽なのです。

ティンパニや喇叭の軍楽隊の響きが自動演奏されるパンハルモニコンでの演奏は、これまで自動演奏などに接したことのなかった19世紀の聴衆にはどのように響いたのでしょうか。

実際のオーケストラによる演奏初演は1813年の暮れ、ウィーン大学講堂で戦役負傷兵のためのチャリティーコンサートおいて、第七番交響曲と共に行われて、空前の大成功を収めるのです。

チャリティーコンサートですので、ウィーン在住の有名音楽家も多数参加しました。ベートーヴェンの友人シュパンツィヒがコンサートマスターで、ベートーヴェンにイタリア歌唱の書き方を教授したサリエリまで参加。他にもシュポアー、マイアベーアー、モシュレス、フンメルなど。大成功ゆえにチャリティーコンサートは再演されます。

この二回のコンサートから得られた純利益は約4000グルデンで、それはベートーヴェンが有志の三人の貴族、ルドルフ大公、ロブコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵から得ていた年金と同額なのでした。ベートーヴェンの年収一年分を二度のコンサートで稼ぎ出したのです。

まさに一攫千金。後日開かれた人気ゆえにチャリティーではない、ベートーヴェンとメルツェルが主催の演奏会でも初演にも劣らぬ大成功。こちらでは第八番交響曲も同時に初演されます。

興行コンサートの収益はベートーヴェンとメルツェル山分け。こうして「ウェリントンの勝利」はまさに「メルツェルとベートーヴェンの勝利」となるのです

現代においては第七番交響曲や第八番交響曲はベートーヴェン屈指の名作ですが、初演における人気は「ウェリントンの勝利」が圧倒的だったことは言うまでもありません(この曲の二番煎じが、やはりクラシック通には不人気でも、一般では大人気のチャイコフスキーの「1812年序曲」。「ウェリントンの勝利」のロシア版なのです)。

第七番交響曲の第二楽章はアンコールを求められるなどしましたが、本来の自分の本領を発揮した芸術的な作品は理解されないで、こうした軽薄な作品がもてはやされることに作曲家は深い悲しみを覚えます。

ベートーヴェンは一般受けする作品を書くことに虚しさを覚えます。ここから無理解な大衆を意識しない、深く内省的な、わかる人にしかわからない後期作品への道が開けるのです。

実現しなかった英国行き

「ウェリントンの勝利」がイギリスでウケるであろうことは疑う余地のないことなので、メルツェルはベートーヴェンを伴っての英国行きを画策。

しかしながらパンハルモニコンで「ウェリントンの勝利」が演奏されれば、音楽家ベートーヴェンの出番はなくなってしまいます。自動演奏されますから。

世間の注目を集めるのは最新式テクノロジーを駆使して作られたパンハルモニコンばかりになるのは火を見るよりも明らか。また報酬の分け前にも影響を及ぼすことも金銭問題に敏感な作曲家は危惧。そうした状況からベートーヴェンは英国行きを渋り、師匠ハイドンのような、ベートーヴェンによる英国遠征は実現しませんでした。

ハイドンは1791年から1792年ならびに1793年から1794年にかけての二度に及ぶ英国遠征を行い、空前の大成功を収めて世界一の大作曲家として知られるようになったのでした。

英国行きの反故は二人の関係は険悪に。さらに事態を悪化させたのはベートーヴェンでした。この「ウェリントンの勝利」の所有者は作曲者一人のもので、楽器製作者でしかないメルツェルにはないと語ったのです。

同意できないメルツェルは作品の発案者として作曲の所有権を主張し、パート譜から作曲家に無断で全曲譜を作り上げて(すごい音楽的才能です)ミュンヘンで勝手にこの曲を別のオーケストラに演奏させてしまいます。あとでそのことを知ったベートーヴェンは激昂し、即座にメルツェルを著作権法も整備されていない時代にも関わらず、法的に告訴。

こうしてメルツェルとベートーヴェンは決裂。

一人で英国へ渡ろうとするメルツェルの成功を阻止せんと、ベートーヴェンは自分の名前を印象付けるために「ウェリントンの勝利」を英国国王ジョージ4世に献呈し、ロンドンの音楽家にメルツェルに協力せぬように要請するありさま。

裁判所への申し立てにベートーヴェンはメルツェルの人物を「無礼で、がさつで、無教養な男」と散々に罵っています。まさに泥仕合で、裁判は三年たっても結審しないほど。

ベートーヴェンはこの間、ようやくハプスブルク皇弟のルドルフ大公より新たな年金を手配してもらえることとなり、長引いた経済的困窮より抜け出すことができるようになるのですが、インフレは止まるところを知らず、ウィーン会議景気にナポレオン百日天下、その上に仲の良かった、長らく病床に臥せっていた弟カールが死去、遺児である甥カールの後見人に名乗り出るなど、作曲などに落ち着いてはいられない数年なのでした。

メトロノーム登場

メルツェルは訴訟を起こされたくらいでへこたれるような人物ではありませんでした。

オランダのディートリヒ・ニコラウス・ウィンケル (1777–1826) が考案した、振り子の原理で一定の間隔で拍を刻むクロノメーターを入手し、目盛りを付けてテンポ設定の正確さを向上させるなどの改良を無断で加えて、1816年、メトロノームとして商標登録するのです。

1821年製のメルツェルのメトロノーム

こうしてメルツェルはメトロノームの発明者として歴史に名前を刻むこととなりました。

しかしながら、当然のことですが、盗作疑惑が持ち上がります。オランダのウィンケルは後にこの事実を知りますが、すべては後の祭り。ドイツ(オーストリア)のメルツェルを訴えてウィンケルは勝訴。

ですが、メルツェルのメトロノームの素晴らしさがもう世間一般にすでに広まった後のことでした。

実際にメトロノームを発明したのはウィンケルでしょう。でも今日までメルツェルがメトロノームの発明者として知られています。

ウィンケルは同じオランダ人の科学者クリスチャン・ホイヘンス(1629-1695)の考案した振り子時計よりインスピレーションを得て、クロノノームを発明したようです。

ホイヘンスもまた、イタリアのガリレイの「振り子の振動の周期は、振幅の大小にかかわらず一定である」という「振り子の等時性」にインスパイアされています。

このように、科学の発展とは先人の功績の上に成り立つものですが、先の発案者、発明者の名を無視して、勝手に自分の手柄とすることは許されるものでありません。

メルツェルとベートーヴェンの和解

この犯罪的とも言える、メトロノーム商標化に一枚嚙んだのは、なんとまたここでベートーヴェン!

メルツェルは、訴訟で自分を訴えている相手であるベートーヴェンにメトロノームの有効性を売り込ます(おそらく儲け話として)。

ベートーヴェンは正確に拍を刻み続けるメトロノームの素晴らしさに惚れこんで、係争中の裁判を取り下げるのでした。裁判費用を折半することで折り合ったそうです。1817年のこと。

和解したベートーヴェンは早速自作の交響曲の全ての楽章にメトロノーム速度を書き込んで、メトロノーム販売促進のために新聞にまで全交響曲の速度表を一般公開。さらにはサリエリなどの同志にも推薦文を書かせています。

商魂逞しいベートーヴェンですが、ナポレオン戦争の経済的混乱の最中に最大のパトロンだったロブコヴィッツ侯爵が前年1816年12月に急逝して年金の支払いもままならぬ時期でした。

ベートーヴェンがあのような戦う音楽を書き続けたのも、生涯のほとんどを金策に追われていた芸術家だったからでした。経済的困窮ゆえに苦しみと戦う音楽を書き続けて自分自身を鼓舞していたのでは、とわたしは思います。

その後のメルツェルとベートーヴェンの関係は知られていません。メルツェルは新たな儲け話を求めてアメリカ大陸に渡しますが、そのお話はまた後日。 

2022年の映画「ゴヤの名画と優しい泥棒」

先日、スペイン戦役のみならず、のちにナポレオンの没落を決定づけるワーテルローの戦いで勝利者となるウェリントン公に関する、興味深い映画を映画館で鑑賞いたしました。

映画 The Duke、邦訳は「ゴヤの名画と優しい泥棒」。

Dukeはイギリス英語ではカタカナでジューク。アメリカ式のデュークではありません。

フランシスコ・デ・ゴヤ作「ウェリントン公爵の肖像」(1812-1814)

スペインの画家ゴヤは、祖国から侵略者ナポレオンを追い払ったウェリントン卿の肖像画を書き上げるのです。完成された肖像画は海の向こうの英国のウェリントン公爵自身の手に届けられるのですが、その後は競売にかけられて、1961年8月2日に14万ポンドでイギリスのナショナルギャラリーの所有となります。しかしながら、19日後、何者かによって、ウェリントン公の肖像画は盗まれてしまいます。

14万ポンドは、英語ウィキペディアの記述によれば、現在の通貨で318万ポンドほどにもなります。当時の英国政府が買い上げたのです。大変な額の税金が投入されたのです。

ここから先が映画「ゴヤの名画と優しい泥棒」で描かれる物語。

まだ映画館で公開中の映画ですので、ここまで。

何ともスリリングな映画。映画評で☆☆☆☆☆な映画だとか。確かにファイブスターに値する、一度は見るべき2022年最良の映画の一つでしょう。お勧めです。


参考文献:


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