映画「Belle: 竜とそばかすの姫」への考察
遅ればせながら、細田守監督の「竜とそばかすの姫」を鑑賞しました。
海外在住のわたしには日本語版はダウンロードできなかったので、英語版を観ました。吹き替えにありがちな声優さんとキャラの違和感は今回は感じることはなかったと思います。
斬新な劇中歌の数々は全て無料でYouTubeなどで聴けますが、物凄い再生数ですね。大人気。作品に関しては意見が分かれていて、まさに賛否両論。
肯定論のほとんどは、歌姫Belleの歌への共感から始まるもので、作品のストーリーに感動したというものは、残念ながらあまり見かけませんでした。類まれなる美しい映像や音響美がこの映画が支持を集める要因なようです。
否定論のほとんどは、メタバースという世界の取り扱い方。世界中で誰もが知る童話を下敷きにしてパロディ化したような構成の在り方に不満だという意見も支配的。
見どころは
ボカロ的な圧倒的な「語る」歌唱 (日本のYOASOBIやビリーアイリッシュなど、ここ数年で広く支持されたポピュラー音楽では、こういうスタイルが流行していると言えるでしょう)。
限りなくリアルに近い、でもリアルではないという、3Dではない2Dアニメ映像の最新技術を駆使して作られた美しい世界。
メタバースという現代的テーマ (10年後には古びるかもしれないけれども、今は新しいテーマ (同じ細田監督の2009年の「サマーウォーズ」の世界観が今ではもう少しばかりレトロに思えるように)。
こういう「最新」なトレンドと技術による総合力によって出来上がっている日本製アニメ映画です。世界的に見て「斜陽な」ジャパンのソフトパワーはまだまだ捨てたものではないと少しばかり誇らしげに感じられました。
メタバースとは?
メタバースは、英語ではMetaverse。
Metaは、ギリシア語で「後のAfter、超えるBeyond、変化するTransform」という意味。
この接頭辞が引っ付くと、次元の超えた〇〇というような言葉が生まれます。
Metaphysics(形而上学):現実世界を超えるので、抽象嗜好や形而上という意味。
Metamorphosis(変身):この場合のMetaは変化するMorph(形態)。カフカの小説「変身」は英語でメタモルフォーシス。
Metabolism(新陳代謝):この場合のMetaは変化するBolism=body。だから新陳代謝。日本語の太り過ぎを意味するメタボは、Metabolic Syndrone。
Metaphor:Phorは〇〇であるという意味で、ここでは「変化したもの」から、比喩全般を意味する単語に。メタファーは日本語の隠喩。
Metanalysis:メタアナリシスは異分析。言語学用語で、言葉が本来の意味とは変わったものとなってゆくこと。マクドナルドを関西人はマクドと呼びますが、本来の意味ではマックのはず。こういうものです。
Metafiction:メタフィクションは、アニメなどでおなじみですね。アニメや漫画キャラが物語中で、これは漫画だからとか語ることです。手塚治虫先生や藤子不二雄先生の漫画などで顕著。
メタバースもこれらの言葉と共通する「変化した」「超えた」世界という言う意味で、別の世界という意味。
映画の中では、「U」というメタバースが物語の舞台です。
世界的に大人気のRobloxなどのメタバースよりも、映画の中のUは近未来的に先んじていて(人格を自動的に無意識に取り込めるなど)、こういう人工知能が、いつ頃、現実の我々の世界で実用化されるほどにメタバースの技術が進歩するのかは分かりませんが、なかなか興味深いところです。
現代のメタバースのペルソナは自分で髪の毛の色や体格などを見繕い、また好きなスペックを自分で選びます。映画のUは現代の技術では作り得ないのです。
私はメタバースで遊びませんが、現実世界に人生の喜びを見いだせない人が別の人生をここで楽しみたいという想いには非常に共感できます。
ネット世界のSuzu
ネットで匿名で語り合い、誰かのふりをする。
このNoteでも、ほとんどの方が匿名アカウントで投稿されています。
それに対して、実名を用いてLinkedInのように実用に使うべきだと呼びかけられる方もいる(Noteでの執筆活動を履歴書代わりに現実世界にアピールする、または現実世界の商売などの活動のマーケディング手段とするなどに役立ちます)。
でも、誰もがSNSを現実世界の延長として使いたいわけでもない。
匿名で、実生活では普段の自分の演じられないペルソナを演じられることが、SNSの魅力。
SNSがこれほどに世界に行き渡った理由は、自己アピールを好きなようにできること。
本の感想を140字以内で続くことも、自己アピール。
コメントがついて、共感してもらえる。嫌なコメントもついて炎上したりもするけれども。マーケティングも自己アピールの一環です。
SNSを使うと、身バレせずに (自分が誰かを語らずに) 自分を語ることができる。
どんな意見でも語れる。ある意味、自分のしたことに責任を取らない無責任な空間。だから映画にもあるように、身バレさせられることは、運営にアカウント削除されることよりも、恐れられることなのです。バレると実生活の自分が不利益を被ることにもなる。
だから、「本当の自分を見せて」と呼びかける、こんな歌が歌われる。
旅行先で撮った写真をシェアする。彼氏とのリア充な様子を見せつける。または作品を作ればそれを誰かに見てもらいたい、聴いてもらいたい。または浮気相手を見つけたり、本当に心の通じ合える文通友達みたいな人にも出会えるかも。
メタバースは、現実世界で他人に認知されている自分自身を引っ張って来るなく、自分自身が仮想空間で、歌ったり踊ったりアドヴェンチャーしたりできることが楽しい。
たとえあなたが身体的障害を持ち、歩けないとしても、メタバースでは飛び回れるわけです。リドリー・スコット監督のAvatar はそういう映画でした。
私のティーンの娘はメタバースで友達に会う。現実世界では気の合う友達や仲間はほとんどいない。寂しい奴に思えるかもしれないけれども、世界的感染症のために、こんな風な子供はいくらでもいるのです。
電脳空間でだけ、人は心を通じ合わせる。
映画の中のUは、2022年の現実のメタバースよりも優れたスペックを持っていて、自分の中の潜在的な自分自身を引き出してくれるネット空間。
いわゆる陰キャの冴えない高校生の鈴は、友達のヒロに紹介されて、彼女の協力によってメタバースUの大スターとなる。鈴は現実世界では、自分を残して知らない子供を命懸けで助けて死んだ母親に対するネガティブな想いを作曲に託していた。誰にも見せることなく。
鈴は、誰もが憧れる同級生ルカの顔と形を借りて架空のアバターを作り出す。
名前は日本語の鈴を英語にしてBell。でも語尾にEを付けて、Belle。
なんだか赤毛のアンみたい。語尾にEのつけたいAnnもまた、そばかすだらけの痩せっぽちな冴えない女の子でした。
名前を変えたいのは、心理学的に、現実の自分に満足していない証拠。
自分自身を隠したくて偽名を使うのではなく、赤毛のアンのEのように、別の自分に鈴はなりたいのです。
本人のコンプレックスであるそばかすだけはそのままにして(彼女らしさをどこかにとどめたい)彼女はBell+eとなり、Belleとなる。
映画ではEのスペリングのことには特に言及されないけれども。
Belleという名の少女
フランス語で「美女」、ペローの童話の「美女と野獣」の「ベル」。
つまり、この映画は美女と野獣を下敷きにして作られている。
それに細田守監督の前作の全世界を支配する人工知能を扱ったサマーウォーズを足して半分に割ったというような作品。
物語は、ベルがその歌声のために何億人というフォロワーを抱えるようになって、鈴本人もそのヴァーチャル世界の自分とリアル世界のギャップに苦しむようになって、ようやく映画のタイトルでもある、もう独りの主人公「竜」が登場。
主人公がBelleとなった時点で、Beastの出現が期待されるのです。
ここから竜の正体をめぐる物語へと転じて行きますが、登場したアンチヒーローは竜と呼ばれていても、見た目は美女と野獣のBeastそのもの (英語版ではthe Dragonではなく、the Beastそのままです)。
竜は誰でも入れるわけではないメタバースの郊外に隠された孤城に潜んでいるのです。美女と野獣らしい薔薇の花もたくさん飾られている巨大な城。付き人らしい妖精たちもいたりする。
ここから視聴者は、「竜」とは誰なのかという思いをめぐらします。
鈴の幼馴染の同級生だろうかとか。ここからベルが野獣を愛して、愛の力で呪いが解けるのならば、本当におとぎ話そのまま。
でも、この物語が本当に意味深くなるのはここから。
物語の核心部。
なぜ人はメタバースで自分以外のペルソナを演じたがるのか。
竜はメタバースでは非常に格闘に秀でている存在として一目置かれていますが、人とは交わらないし、排他的で攻撃的。
人がSNSしたり、メタバースで遊んだりするのには、人それぞれの理由があるのだろうけれども、わたしの場合は好きなことを語りたい。そして一緒に語れる仲間がいるとなお素晴らしい。
人は好きなことを語っている時、一番幸せなのだから。
共通の趣味や興味を持つ人と出会える空間は、現代では第一にネット空間。恋人も結婚相手もここで見つけられるかもしれない。そしてここ以外では見つからないのかもしれないとも言える。ネットを通じないと自分の会いたい誰かには出会えない。
心を通じ合える似た仲間を見つけるところ。
それが仮想空間なのかも。
だから心に傷を抱えたような人は、極度にフラストレーションを抱えていて、憂さ晴らしをして他人に迷惑かけるけれども、本当は理解し合える同じような仲間を探している。
異形の竜は、美形だけれどもソバカスだらけの異形のBelleと惹かれ合う。
SNS。怖いところです。
本音を語りすぎて炎上したりする。実生活の延長でネットを使う人もいれば、ネットこそが全ての世界そのものだったりもする。
チャットだけでは本当のことはわからない。伝わらない。文は人也、なんて言葉があり、書いた文章、書き方、返事の仕方で、その書き手の人となりは伝わってくる。
でも文章はシルエットのようなあなたを相手を伝えるばかり。
こうして私の文章を読んでくださっているあなたも、本当の私を、私の書いた文章からだけではわからないはず。ある程度の人となりは伝わったとしても。
きっと書く言葉は、その人の最も本質的な部分が現れるものだけれども、その人のとる行動、攻撃的対応や執拗な付きまといは、その人の精神的欲求の表れだったりもする。社会的に大人しい人がネットで豹変した人格を演じていたりすることはよくあることです。
ネットで出会う知らない人の優しい言葉やトゲのある言葉も、その人の人格の全てではないのです。
孤独な竜は、歌うばかりで他人とつながらないベルに近づいてゆく。彼だけがベルのペルソナに親近感を抱いたと言える。
美女と野獣ならば、ベルが心を閉ざした野獣の凍りついた心を暖めて溶かしてゆくけれども、仮想世界の竜の正体は罪ゆえに魔法で姿を変えられた王子ではなく、現実世界から逃避してきた、児童虐待を受けていた子供たちだった。
そして現実世界のベルは子供たちの居場所を割り出して、彼らに会いにゆく。
ベルにとっては彼らに会うことが自分自身の殻から抜け出て、別の自分になるきっかけとなる。
物語の整合性という意味では、50億の人格の飛び交う仮想世界で誰も本当の自分を見つけてもらえなかった児童虐待されていた子どもたちは、どこかに自分をわかってくれる人がいることを知り、心の平穏を得る。
でもその後の彼らの境遇の変化については映画の中では語られない。ネットのアンチな意見はこの部分の欠落に不満を述べ立てる。
主人公の転換
美女と野獣では、呪われて野獣と化した王子が主人公で、救済者ベルの人格は映画を通じて変化しない。
野獣は人を愛する心を見つける。この童話は野獣が人として成長する物語。教訓を盛り込むことを特徴とする童話では、野獣が愛することを学んで救われることが大切。でもベルは最初から最後まで同じ人格のまま。
「竜とそばかすの姫」のベル=鈴は、最期には現実世界における人前で歌えるようになる。歌を通じて、こうして彼女は変わる。
歌の力を知る人は、この物語に共感できるかもしれない。
劇中にこういう歌がある。この作品で最も大切な歌。
映画を見た時、ピンと来なくて、後で日本語版で聴いて、初めていいなと思えました。
英語版がいまいちなのは、「う・た・よ」という感じで、日本語では三音節で優しく歌いかける部分が、
となります。Gales of Songは確かに三音節。
/geilz əv sˈɔːŋ/なのですが、直訳すると、「歌の突風」とか「吹き荒れる歌」という意味で、Galesを無理やり引っ付けたことに違和感があります。
あくまで、「う・た・よ」は、メロディとハーモニーとリズムから作られている「音楽の歌の存在そのもの」に対して呼び替えている。Galeではないなあ。
このGaleという言葉、わたしは天気予想でよく聞きます。そういう言葉。
「みちびいて」は日本語で五音節。だから短く語れる英語はThrough the stromを無理矢理付け加えて、Guide me through the stormという具合に、語音節に合わせています。
明らかに英語版と日本語版では訳文が異なる。
英語版は余計な言葉を足しすぎている。
英語版にはがっかりです。Winds of loveの方がロマンチックかもとも思えますが、わたしがどんなに英語に堪能でも、自分の母語は日本語なので日本語により共感するという理由があるにせよ、日本語の「歌よ」とGales of Songは違いすぎる。
ここで求められているのは、素朴な「うた」。
英語は少ない単語で多くの意味を伝えることができる便利な言葉だけれども、日本語の少ない言葉の歌を翻訳すると、伝える内容を別の言葉で具体的に補わないといけない。
英語は語りすぎてて、日本語の詩の素朴さが失われている。
このシンプルな歌が伝えるのは、歌の力
先日別投稿で書いた「歌の翼に」に通じる歌詞ですが、歌をGaleに喩えるのは、自分には納得行かないし、言葉の数が多すぎる。日本語よりも、英語版の方が雄弁な歌詩なのです。日本語版と英語版は歌詞の順序も違いすぎる。つまり別の曲になっている、同じメロディなのに。
下の動画は英語版歌手によるピアノ弾き語り。彼女は喋りまくっている。日本語版の歌詞は短いのに。
この映画は世界に配信されることを意図されて、日本語と英語でタイトルが違う。
英語版ではBelleがメインタイトルで、その下に副題が日本語そのままの「竜とそばかすの姫」という文字が英語に訳されずに添えられている。
英語版: 「Belle:竜とそばかすの姫」
日本語版: 「竜とそばかすの姫」
このバイリンガルタイトルがわたしには興味深い。
英語では、Belleという仮想世界の存在により焦点を当てられていて、鑑賞者に与える印象も随分変わってしまうように思えます。
もしかしたら、最初からBeauty and the Beastの、BeautyであるBelle視点の物語?ならば、日本語版のタイトルに含まれている「竜」に意味はあるのか?
仮想世界のスーパースターBelleに現実の鈴になる物語なのか、現実の鈴がもうBelleを演じなくてもいいという物語なのか、どういう見方をするかで作品は変わってしまうように思えます。
英語と日本語のタイトルの違いは想像以上に大きく深い。わたしはそう思います。
歌は世界を変える。世界とは彼女自身。
なんていう、歌や音楽の価値を過小評価する人には理解できない世界かもしれないけれども、人は感情と気持ちを、詩や歌や音楽や絵画やイラストにして、自己表現することで、世界とようやく仲良くなることができる。
お喋るすることでそうできる人もいる。スポーツしたりダンスしたりすることで、自分らしさを見つける人もいる。
とにかく人はあるがままの自分を自分自身で認めることで、ようやく自分自身を愛せるようになる。自己存在を認めさせる何かが誰にでも必要。
自分は音楽する人間なので、人前で歌えるようになって、彼女が成長したという事実に共感する。
でも作品としての問題は、「美女と野獣」のもう一人の主人公の「野獣」、作中の実の父親に虐待されていた兄弟の存在が希薄なこと。
実際に彼らのその後は作品の中では一切語られない。だから作品の賛否両論の「否」の人たちはここに不満を持つ。
でも鈴=Belleのお話だとすれば、鈴はBelleというペルソナを捨てて、あるがままの自分自身を受け入れて、新しい道を歩んで行ける。
もうUで遊ぶ必要もなくなるのかも。Uには歌姫Belleを指示したり誹謗中傷した50億人のユーザーが今もそのままそこにいる。ネット世界の観客は、表層でしか物事を見ない。
わたしは、この後の鈴には、もはやUは必要ないのだと思うけれども、Uを続けるならば、きっとBelleはもっと明るい肯定的な歌を歌うようになる、と思う。
傷ついて、心に空洞を抱えているからこそ、満たされたいという想いでたっぷりなBelleの歌。
だからまだ発展途上である若者は共感する。
また、他人の痛みに敏感な人は特にきっとこの映画が好き。あなたもきっとこんな風なプロセスを通じて、他人を理解できる人になったはずだから。
もっとポジティブな歌をBelleが歌うようになれば、多くのユーザーは去ってゆく。でもそのとき、本当の彼女を好きでいてくれる人が彼女を支持してくれるだろうか。
その後を語ってもらえない竜(被虐待児たち)は最後に置いてけぼりで、その点は少し不満だけど、世界はきっとそんな風。彼らは鈴に見つけてもらえたので、これから強くなる。これから変わってゆけるのかも。
大切なのは希望を持つことなのだから。希望を持てると思えるようになると変われるのだから。
希望の無い世界に希望を与えてくれるのは、歌。
苦しみを歌う歌を歌って、歌て歌いまくって、そうするときっと歓びの歌を歌えるようになる。
音楽ってそんなものなのだと思います。
まとめと蛇足
賛否両論の「そばかすの姫」。
竜をタイトルから外して「そばかすの姫」という題名の映画だとすれば、この作品は名作ですよ。彼女の成長物語なのですから。
蛇足ですが、歌は世界を変えるという内容から、文字通りにUniverseを変えるという1984年のアニメ「超時空要塞マクロス・愛覚えていますか」を思い起こしました。
こちらの歌姫、リン・ミンメイはメタバースなASではない、等身大のあるがままの少女。
歌の力で世界を変えたいミンメイ18歳。彼女は恋を諦めて、歌に仕える、真のアイドルになる。
そんなミンメイの歌には、Belleの歌う赤裸々な、精神不安定な自己表現の歌はないけれども、歌の力を信じる想いが精一杯に込められた名作アニメ映画です。
歌は誰かを幸せにできる。
1984年にまだ生まれていなかったような若い方に見比べていただきたいです。もしかしたら、Belleはミンメイのパロディ、またはミンメイへのオマージュなのかも。
わたしが日本の中学生だった、昭和時代の終わりに大好きだった映画です(笑)。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。