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「スウェーデンのモーツァルト」:ヨーゼフ・マルティン・クラウス

北欧の音楽に興味があり、学生時代からフィンランドのシベリウスの音楽を好んで聴いてきました。

そのためか、同じ北欧ノルウェイの作曲家エドワール・グリーグ(1843-1907) には全く親近感を抱きません。超俗なシベリウスの後期作品に慣れ親しみすぎたためなのか、わたしの耳にはグリーグの親しみやすいけれども深みの乏しい音楽は、あまりに俗っぽく響きます。

大衆受けしない20世紀デンマークのカール・ニールセン(1865-1931) の音楽は、逆に余りに乾いた作風に辟易します。

でも世界にはいろんな音楽があることに意味があります。時にはグリーグもニールセンも素晴らしいものです。気分次第でいろんな音楽にインターネットを通じて親しめる21世紀は素晴らしいですね。

ノルウェイとフィンランドの間には強国スウェーデンが位置しますが、こういう先進国的な大国は芸術家を生み出すよりも、海の向こうの経済大国イギリス同様に、自前の作曲家を育てるよりも、芸術の消費地として発達する傾向があるようです。

音楽消費地スウェーデン

音楽史を繙くと、世界的に名の知られた作曲家は、スウェーデンにはほぼ皆無です。

日本ではなじみ深くはないですが、19世紀の終わりから20世紀前半に活躍するヒューゴ・アルヴェーン (1872-1960) は、彼の地ではよく知られています。

後期ロマン派的なアルヴェーンの代表作は、「夏至の徹夜祭」という副題を持つ「スウェーデン狂詩曲第一番 」(1903) 。

なんとなくNHK今日の料理のテーマそっくりのメロディで始まりますが、中間部には深い情感が溢れます。この部分は本当に美しい。白夜の薄明りの中での夜を徹してのお祭りを描写した音楽です。神秘的な白夜の明るさも夜を通じて変化して行くのでしょうね。

アルヴェーン以前のスウェーデンの音楽家と言えば、メンデルスゾーンに師事した19世紀初頭のヨーロッパの歌劇場で広く知られた歌姫ジェニー・リンドが思い浮かびます。


メンデルスゾーンは、晩年の傑作オラトリオ「エリヤ」第二部冒頭の素晴らしいアリアを、名ソプラノであるジェニー・リンドのためにあて書きしました。

失恋し続けた生涯を送り、結婚を誰よりも望みながらも叶わなかったデンマークの童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンの、人生最後の片思いの相手であったことでも知られています。

アンデルセンの名作童話「ナイチンゲール」は彼女との失恋から生まれたものでした。

この本は、大作曲家メンデルスゾーンと童話作家アンデルセンと歌姫リンド嬢をめぐる物語。

スウェーデンのモーツァルト

さて、スウェーデンの作曲家としては、「スウェーデンのモーツァルト」の二つ名で知られる、南ドイツ生まれのヨーゼフ・マルティン・クラウス (1756-1792) を筆頭にあげたい。

モーツァルトと同年の1756年に生を享けて、モーツァルトの死の翌年1792年に死去した、モーツァルトとの全くの同世代人。

クラウスは21歳でスウェーデン宮廷に作曲家として雇われますが、啓蒙専制君主グスタフ三世の覚えめでたく、王は若いクラウスを中欧の劇場事情を視察させるためにグランドツアーの送り出すのです。

「ベルサイユのばら」にも登場する、フランス王妃マリー・アントワネットの恋人であるハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵 (1755-1810) は、王の片腕として知られていました。フランス大使フェルゼンを通じて、フランス大革命前のフランス王国の政情をスパイさせて、国王一家国外脱出未遂のヴァレンヌ事件を裏から手引きしたのはスウェーデン王でした。

グスタフ三世 (1746-1792)

当時最高の作曲家の一人であるクリストフ・ヴィリバルト・グルック (1714- 1787) にクラウスはパリで出会い、また1782年にはハンガリーのエステルハージ侯爵の夏の離宮エステルハーザに出向き、交響曲の父ヨーゼフ・ハイドン (1732-1809) のもとを訪れています。

同い年のモーツァルトと逢うことがなかったことは大変に残念ですが、ハイドンに評価されたクラウスの代表作である交響曲群は傑作ぞろい。

なぜ逢わなかったのかに関しては、結婚したばかりで故郷ザルツブルグと帝都ウィーンを行ったり来たりしていたモーツァルトは当時多忙であったという説と、出世作「後宮からの誘拐」K.384 を書き上げる前の新進作曲家モーツァルトにはクラウスは興味を示さなかったという説があります。

「後宮」は1982年に完成されていて、モーツァルトのオペラ作曲家としての名声が高まるのは、クラウスのグランドツアーの後のことでした。

クラウスの作品で、特に嬰ハ短調という特異な調性で書かれた交響曲は、18世紀音楽の枠組みを超えたロマン派的な作品。こうした作品を数多く生み出したクラウスにハイドンは注目しました。

クラウス訪問時に、ハイドンの率いるエステルハーザ宮の管弦楽団によって、クラウス作の交響曲が演奏されたという記録があり、ハイドンは手放しでクラウスの才能を絶賛しています。どの曲であったのかは特定されていないようです。

「ヨーゼフ・マルティン・クラウスはわたしが逢った初めての天才である」とハイドンは書き遺しています。

ハイドンがモーツァルトに出会うのは、ハンガリーを離れることができないハイドンが休暇をとることのできた1783年のクリスマスであるとされています。ウィーンでのクリスマス期間の演奏会であるとされています。そして二人は親友となるのです。

クラウスとモーツァルト、ハイドンの三人が一堂に逢うようなことがあれば、大先輩ハイドンは才能あふれる若い後輩二人をどのように評したことでしょうか。

5年ほどにも及んだグランドツアーの後、クラウスはスウェーデンの首都ストックホルムに帰還。芸術振興に力を入れた、ロココの王様グスタフ三世のために宮廷歌劇などの作曲に力を入れます。

しかしながら、フランス革命勃発後の不安な政情の中で、グスタフ三世はある仮面舞踏会の最中に殺害されるのです。

この事件を基にしたのが、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901) 作曲の歌劇「仮面舞踏会」(1859)。

歌劇の主人公ボストン総督リッカルドのモデルは、グスタフ三世その人(国王暗殺事件を直接取り扱うことは、当時の独立前のイタリアの政情において許されなかったゆえに、事件をアメリカのボストンに舞台を置き換えることでヴェルディのオペラは上演を許されたのでした)。

木管楽器の哀しげな動機から壮大な悲劇が幕揚げるヴェルディの「仮面舞踏会」は、作曲家の最も抒情的な歌劇の一つです。わたしにはヴェルディ最美の歌劇作品です。

事件の後、クラウスは、王追悼のための作品を作曲。深い悲愴美に包まれたハ短調の交響曲です。

続けて追悼カンタータも作曲しますが、肺結核に罹患して、作曲家もまた息を引き取ります。未完となるレクイエムを書きながら死んでいったモーツァルトを思わせる死のありさまゆえに、まさに「スウェーデンのモーツァルト」なのです。

モーツァルトがハプスブルク家の啓蒙専制君主ヨーゼフ二世 (1741-1790) の寵愛を受けたことにも、どこか通じるところもあります。

同時代人のロココの二人の作曲家の人生は、どこか重なり合うのです。

クラウスはスウェーデンの作曲家としてストックホルムにおいて死去。
ウィーンのモーツァルト同様のたった36年の生涯でした。

ヨーゼフ・マルティン・クラウスの作品

クラウスの作風は、対位法に優れ、また色彩感覚豊かな大胆な転調が聴きどころ。

青年時代には疾風怒濤文学(ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」が最も知られた代表作)に肩入れしたクラウスの音楽は、やはり疾風怒濤 Strum und Drank 。

ハイドン中期の傑作短調作品と比べても(代表作は告別交響曲)決して遜色のない傑作ばかり。モーツァルトの新しい短調作品の隠れた傑作を聴くような趣があります。

ハイドンとの違いは、素材(メロディや音楽動機)の発展の要素に乏しいこと。主題動機という簡潔な主題から壮大な音楽伽藍へと変貌させる手腕はやはりハイドン音楽の真骨頂。そこが早世したクラウスの限界でしょうか。

オペラ作家は、乏しい音楽素材を発展させることよりも、美しいメロディをどんどんつなぎ合わせて作曲するので、やはりクラウスはモーツァルト的。スウェーデンのモーツァルトと呼ばれるゆえんです。モーツァルト同様に、クラウスは美しいメロディを書く天賦の才を備えていた稀有の作曲家でした。

交響曲以外では、失われた歌劇の数々や、ピアノ曲や歌曲があります。室外楽のフルート五重奏曲は名作として知られています。

ピアノ曲もモーツァルトの最良の音楽を思わせるものです。

スウェーデンのグスタフ三世の王宮で活躍したクラウスはもっと聴かれるべき18世紀後半の優れた作曲家です。

ハイドンやモーツァルトの交響曲が大好きと言われる方には真っ先に聞いていただきたいです。


ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。