見出し画像

ウクライナのモーツァルト

音楽史上には数多くの作曲家が存在しますが、後世の我々が耳にするのは、僅かばかりの幸運に恵まれた、限られた成功者らの作品ばかり。

18世紀のモーツァルトは、掛け値無しに人類史上最良の音楽家の一人でした。だからこそモーツァルトの名前と関連づけて、まだ知られぬ音楽家を世に送り出し、忘れ去られた音楽家たちを記憶しようとすることがあります。

先日は「スウェーデンのモーツァルト」ヨーゼフ・マルティン・クラウスを紹介いたしました。

二十歳で夭折したバスク出身の大天才、ホアン・クリソストモ・アリアーガ (1806-1826)は「スペインのモーツァルト」として知られています。彼の代表作である弦楽四重奏曲は世紀の名作です。

モーツァルトの同時代人である、カリブ出身のメスチーソ、ジョゼフ・サン=ジョルジュ (1745-1799) は褐色の肌ゆえに「黒いモーツァルト」として知られています。モーツァルトのパリ滞在時に邂逅していたかもしれない、協奏交響曲というジャンルの創始者。

まだ他にもモーツァルトの再来として知られた人物はたくさん存在しますが、それでは「ウクライナのモーツァルト」はいかがでしょうか?

モーツァルト二世: フランツ・クサヴァー・モーツァルト

ウクライナという言葉をどこかで見かけると過敏に反応してしまいます。連日、ロシアやウクライナという言葉は新聞やニュースで頻繁に目にするわけですが、モーツァルト未亡人のコンスタンツェの文献を読み漁っていて、モーツァルトがウクライナを訪れたことがあるという記述を目にしたことがありました。

しかしながら、モーツァルトはモーツァルトでも、モーツァルト二世であるヴォルフガングの次男フランツ・クサヴァー (1791-1844) のことでした。

モーツァルトの死の時に生まれたフランツ・クサヴァーは、父親の顔を知リません。兄のカール・トーマスよりも、偉大な父親の才能をより受け継いだフランツは、長じて音楽家となり、ヴォルフガング・アマデウス二世を名乗ります。しかしながら、それはとても気の毒なことでした。そうさせたのは母親のコンスタンツェ。

偉大な一代目の跡を継いだ、二世音楽家の悲哀の全てを味わい尽くしたような人生を送った人物がフランツ・クサヴァーでした。

ウクライナにて

モーツァルト二世は、ポーランド国境に近いウクライナ西方の文化都市リヴィウで25年も暮らしたと記録されています。

当時のリヴィウ (当時はレンベルク) は巨大なハプスブルク帝国の西の果ての街でした。音楽家となった若いフランツ・クサヴァーは、経済的な理由から,
1809年にオーストリアからはとても遠いレンベルクに住むポーランド貴族の娘に音楽を教えることとなり、別の街へと移り住んだりもしながらも、最終的には1813年にレンベルクに音楽教師として定住したのです。

1838年に終の住処とするウィーンに移り住むまで、フランツ・クサヴァーは、彼の人生の大半の25年もの年月をウクライナで過ごしたのです。

1844年、ウィーンにて病没。53年の生涯。

兄カール・トーマス同様に、生涯独身。二人の兄弟の死後には大作曲家モーツァルトの家系は絶えてしまいますが、後年のフランツ・クサヴァーの行った、以下の行いはわたしの心を暖かくします。

叔母マリア・アンナ・モーツァルト(1751-1829)

モーツァルト未亡人のフランツ・クサヴァーとカール・トーマスの母であるコンスタンツェ (のちにモーツァルト伝記作家となるデンマーク人ニッセンと再婚) は、夫モーツァルトの姉であるマリア・アンナ (愛称はナンネルル)と不仲でした。父親同様に、弟とコンスタンツェとの結婚に猛反対したからです。

しかしながら、30歳を過ぎて、あまり条件の良くない、妻を亡くした別の街の子持ちの貴族と結婚したマリア・アンナも、1801年には夫を失い、故郷ザルツブルクに帰ります。

マリア・アンナが弟ヴォルフガングの伝記の後半に全く登場しないのは、弟の嫁を嫌い、挙句には最愛の弟と音信不通になったことと、マリア・アンナは結婚して出産と子育てに追われていたからでした。

マリア・アンナとヴォルフガングはとても仲の良い姉弟でした。二人の間に交わされた、残された冗談だらけの書簡から二人の関係が窺えます。

その後、弟ヴォルフガングと同等の才能があると言われた、名ピアニストであるマリア・アンナは、ピアノ教師として生きてゆきます。

20年後の1821年、老いたマリア・アンナのもとに、思いもかけぬ訪問客が現れます。もちろん甥の30歳のフランツ・クサヴァーです。

亡父の記念式典において父の遺作のレクイエムを指揮するためにザルツブルクを訪れたフランツ・クサヴァーは、まだ逢ったことのない叔母の家にわざわざ立ち寄ったのでした。マリア・アンナは亡き弟の忘れ形見を自宅に招き入れて、実の叔母としてフランツを可愛がるのでした。

弟ヴォルフガングと

やがて、マリア・アンナは甥を通じて、かつてはあれほど憎んだ義理の妹コンスタンツェと和解するのです。

二人の絆のかすがいだったヴォルフガングの死後、三十年ものちの1824年に起こった奇跡でしょうか。

二人が最後に会ったのは、ヴォルフガングが無理やりザルツブルグの父親と姉のもとにコンスタンツェを連れていった、1783年のことだったのです。ヴォルフガングの唯一の家族である父親と姉が、ウィーンの聖シュテファン大聖堂での結婚式には出席しなかったことはつとに知られています。

弟の死後に伝記作者にマリア・アンナは生前のモーツァルトの子供時代のエピソードの数々を語りますが、コンスタンツェに対しては辛辣な言葉を語っていた彼女が和解を実現させたことは本当に素晴らしい。

コンスタンツェ悪妻伝説は、マリア・アンナがコンスタンツェとの和解以前に伝記作家ニーメチェクに対して語った悪口も一因なのですから。

モーツァルトの伝記には、作曲家生前の物語しか普通は記されてはいないのです。41年ぶりの再会は友好的なものだったそうです。

長生きしているといろいろなことがあるものです。

その後もお墓の問題など、いろいろ紆余曲折はありますが、コンスタンツェは、最晩年に全盲となった、経済的に貧窮していた(資料によるとそうではなかったという説もあります)マリア・アンナを息子フランツ・クサヴァーを通じて経済的に援助さえもして、彼女の最晩年を支えたのでした。

マリア・アンナは1829年に故郷ザルツブルクで死去。七十八歳の天寿を全うしたのでした。

母親に対して頭の上がらぬ気の弱い人物だったと伝えられる、フランツ・クサヴァーに関する美しい家族愛のエピソードです。

音楽家としてのモーツァルト二世

ほとんどの方がフランツ・クサヴァー・モーツァルトの存在を知らないという事実からわかるように、モーツァルト二世の作曲家としての業績は、父には遠く及びません。

時には管弦楽団を指揮したり、ピアノ協奏曲の独奏を受け持つなど、亡父の作品を精力的に演奏しましたが、偉大すぎる父親の名前に押しつぶされた寂しい人生を送った人なのだとわたしには思えます。

人生のほとんどを音楽教師として過ごした彼が、作曲家として後世に遺した作品は極めて少なく、わたしが個人的に知っているのは以下の二曲だけです。

フルートとピアノのためのロンド・ホ短調

フルート奏者が時々取り上げる小品。楽譜も普通に出版されていて、広く知られています。フルートらしさがよく分かる佳品と言えるでしょう。短調なのがとても良いですね。

ディアベリの主題によるワルツ

1819年、作曲家であり、出版業にも手を染めたアントン・ディアベリ (1781-1858)はある作曲プロジェクトを立ち上げます。50人もの作曲家に自作のワルツの主題に基づいた変奏曲を一曲ずつ作曲させるという企画でした。

装飾音が冒頭の音に付けられていることで、曲に小気味よい推進力が付けられていて、リズムにも工夫が凝らされているワルツ。

ディアベリによる変奏曲の冒頭主題。

ベートーヴェン作のディアベリ変奏曲

ウィーン在住の音楽家を中心に、50人もの作曲家に依頼するのですからなかなか大したものです。

50人の中にはフランツ・クサヴァーも含まれますが、かのルードヴィヒ・ベートーヴェン (1770-1827) も作曲を依頼されます。

しかし大作曲家ベートーヴェンは一筋縄では行きません。依頼を受けても、主題が面白くないと当初は断ってはみたものの、1822年になって前言撤回、なんと33曲にも及ぶ変奏曲をたった一人で書き上げたのでした。非常にベートーヴェンらしいエピソード。完成したのは1824年。

この長大な変奏曲は、ピアノ音楽の大家ベートーヴェンのピアノ音楽の集大成。この曲を聴いて、そして奏でると、ベートーヴェンという作曲家のピアノ音楽の全てが分かるようです。ベートーヴェン最後のピアノ音楽とは後期三大ソナタ作品109,110,111ではないのです。

リズムやアクセントの位置をずらして、曲の性格を一変させる、性格変奏と呼ばれるベートーヴェンらしい変奏展開が曲を支配しています。後述の普通の装飾変奏するシューベルトやフランツ・クサヴァーの曲とは別世界の音楽。

ベートーヴェン研究家の平野昭氏はこう書かれています。

古典派までの変奏曲は、…主題と和声の構造や骨格を維持しながら主題旋律を細かい装飾、音価の細分、伴奏系のパターン変化などで進展させるもので、多くの変奏を重ねても主題との相似や親近関係ははっきりとみとめられるものであり、いわゆる「装飾変奏」と呼ばれる類型のものであった。しかし、ベートーヴェンの《ディアベリ変奏曲》は、それらとは原理的に全く異なるもので、主題の一部を特徴的音形、特徴的リズム、和声進行といった構成要素のいずれか一つ、あるいは同時に二つ以上を変装後世の要素として取り出し、それを維持しながら変奏を繰り返すものであり、主題の旋律線はほとんど原型をとどめないまでに変形される。「性格変奏」という新しい変奏技法とスタイルが確立されている。
246-247頁より

第一変奏曲は、三拍子のワルツが、なんと四拍子の行進曲に姿を変えるのです。こんな調子で延々と33曲も続きますが、どう変化するかに着目して聴くならば、こんなに楽しい変奏曲は他にありません。それぞれの変奏は短くて聴きやすいものばかり。

第七番変奏は、ジャズのスイングそっくりだとされるベートーヴェン最後のソナタ第32番アリエッタの付点のリズムが再登場します。

ディアベリ変奏曲の魅力はリズムの多彩さです。内田光子の演奏は余りジャズ的ではないのですが。ジャズも演奏した往年のフリードリヒ・グルダの演奏はもっとジャズ的です。

曲中で最も楽しいのは、第二十二番変奏。

大モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」をご存知ならば吹いてしまうところです。何度聞いてもこの部分には心躍ります。

変奏曲全曲の終結部近くの第29番から第31番まで、非常に内省的な深い音楽が展開します。アダージョからラルゴへ。

作曲家最晩年の弦楽四重奏曲の緩徐楽章にも匹敵する、慈愛溢れる第三十一番ラルゴをお聴きください。内田光子さんの最新録音 (2022年4月販売)は心優しさに溢れた素晴らしい録音です。

モーツァルト作のディアベリ変奏曲

ディアベリが作曲を依頼した音楽家には、ベートーヴェンのような大家から新人作曲家まで広く選ばれています。

練習曲集で有名なベートーヴェンの直弟子カール・チェルニー、まだ十一歳の少年フランツ・リスト(これが出版処女作)、歌曲王フランツ・シューベルトなど。

ワルツなどの舞曲作曲に長けているシューベルトは、ハ長調の主題を並行短調のハ短調にして変奏しています。小品ながらもシューベルトらしい味わい深い曲です。

ウクライナのモーツァルトにも白羽の矢が立ち、次のような作品を書き残しています。

普通の装飾変奏曲ですが、ベートーヴェンやシューベルトと比較しない限り、悪い曲ではありません。これが後世に残る音楽か、そうでないかの違いなのでしょう。

弟子である女流作曲家ヴェべナウ

フランツ・クサヴァーは音楽教師として、ローベルト・シューマンと深い関わり合いを持つ女流作曲家ジュリア・フォン・ヴェべナウ Julia von Webenau (1813-1887) を教えたことでも知られます。

ジュリアの母親はフランツ・クサヴァーと愛人関係にあり、のちに母親はフランツ・クサヴァーの死後には、遺産相続人にさえ任命されています。だからでしょうか、フランツ・クサヴァーが生涯独身だったのは。

ヴェべナウ嬢は、のちに若き日のドイツのローベルト・シューマンと交流を持ちます。1839年にはシューマンの名作ピアノ曲集「フモレスケ」作品20が彼女に献呈されています。有名な「アラベスク」作品18も、本来はジュリアに献呈される予定だったのだとか。

シューマンの深い影響を感じさせる、次のピアノ曲が彼女の作品として知られてます。この曲は「フモレスケ」の返礼として、ロベルト・シューマンに献呈されています。

ウクライナのモーツァルトであるモーツァルト二世を思い出したことは、2022年現在のウクライナ戦争ゆえのこと。

こうしたことが起こらなければ、このように彼を取り上げることもなかったのかも。

モーツァルト二世からベートーヴェンへと連想して、またそこからシューマンへとつながりました。世界とは不思議なつながりを持つものですね。

わたしはまだ今のところは戦火を免れているらしい、ウクライナ西方の街に想いを馳せています。ポーランドへ逃れた難民は、異郷になじめず、続々と故郷へと舞い戻っているのだそうです。そこでもまた数多くの悲劇と奇跡が起きているのではと、世界のつながりの不思議を想わざるを得ません。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。