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シェイクスピアと音楽(14):新王のための史劇を悲劇へと変えたマクベス夫人

悲劇「マクベス」はシェイクスピア四大悲劇の最後の作品。

シェイクスピアを贔屓して可愛がった処女王と呼ばれたエリザベス女王の死後、当然ながら子のいない女王の後継者は、女王の血を受け継ぐものではありませんでした。

イングランドの王位はなんと、エリザベスのライヴァルとしてイングランドの王位を争い、最後には政争に敗れて悲劇的な最期を迎えたスコットランド女王メアリー・スチュアートの息子スコットランド王ジェームズに渡ったのです。スコットランド王ジェームズ六世はイングランド王ジェームズ一世となりました。

スコットランドからロンドンへと移り住むようになったジェームズ一世は、シェイクスピア所属の劇団のパトロンとなり、以後はシェイクスピアは国王座の劇作家となります。

ジェームズ一世は母親が非業の死を遂げるなど、複雑な環境に育ち、いろいろ複雑な人格でした。黒魔術に傾倒し、Demonogy悪魔学という著書を自身で著したほど。魔女裁判などもいまだに行われていたりした時代。悪霊を召喚するとか錬金術などもまだ廃れていなかった時代のことです。

悲劇「マクベス」が三人の魔女の場面から始まるのは、オカルト好きな新国王への露骨な追従というわけです。ギリシア神話のゴルゴン三姉妹を思わせる三人の魔女は、スコットランド由来なのです。

魔女と出会う、マクベスとバンクォー
フランスのテオドール・シャセリオー(1819-1856) 
1855年

さらにはこの物語、スコットランド王家の歴史を記した年代記を元ネタとしていて、武将マクベスに王位を予言した魔女の話さえ年代記には記されているそうです。

Macbeth, Macduff, Macdonwaldなど、Macの付く名前がたくさん出てくるのは、スコットランドの物語だから。

スコットランドやアイルランドの言葉で、MacやMcはSon(息子)という意味。

マクドナルドはドナルドの息子、マクダウエルはダウエルの息子、マッカーサーはアーサーの息子、マッカットニーはアートニーの息子というわけです。

歴史的人物であるマクベスは、シェイクスピアの新パトロン、ジェームズ一世の先祖である劇の中のバンクォーに敵対したスコットランド王。ですのでマクベスは悪人として描かれている。

史実ではバンクォーはマクベスと共謀して先王ダンカンを共に攻め滅ぼしたことになっているのですが、シェイクスピアはジェームズ一世を喜ばせるために、史実を曲げて、劇中ではその手を血で汚さなかった善人として書かれています。逆に史実ではマクベスは当時には珍しい良い王様だったそうです。

こういう背景を知ると、シェイクスピア悲劇最高傑作とも呼ばれる「マクベス」にガッカリされる方もいらっしゃるかもしれませんが、シェイクスピア史劇はNHK大河ドラマみたいなもので、史実に必ずしも忠実ではないのです。

NHK大河ドラマで本能寺の変が出てくると、信長は毎回違った殺され方をします。そのようなものです。

ですが「マクベス」は、シェイクスピア歴史劇とは分類されず、「悲劇の中の悲劇」と呼ばれるのは、ひとえにシェイクスピアの文才ゆえ。

史実にはマクベス夫人の大活躍は描かれていないし、トゥモロー・スピーチと英語では単独で呼ばれるマクベスの有名な言葉や魔女たちの「綺麗は汚い、汚いは綺麗」などは、シェイクスピアのオリジナルな創作。

「マクベス」が王を殺して王位を奪った物語ならば、シェイクスピア初期の大傑作「リチャード三世」のように史劇として分類されてもいいはず。

「マクベス」は悲劇として分類されるのは、わたしの個人的な見方では、悲劇「マクベス」の本当の主役はレイディ・マクベスだから。

シェイクスピアの全ての劇の中でも最も有名な彼女には実は実名がない
シェイクスピア劇の中でこんな主要人物は他にはいない。

王殺しのマクベスの夫人というだけで、これほどに世界的に知られているのは彼女だけ。

悲劇「ハムレット」の本当の主役がオフィーリアてあるように、史劇「マクベス」を悲劇「マクベス》たらしめているのはマクベス夫人の存在ゆえ。

「マクベス」は、夫に一心同体に寄り添い、夫に全てを捧げて、夫と共に生きて、夫に殺人教唆して、やがては王となって先王殺しの罪の呵責に駆られて内に篭って行くマクベスから距離を置かれて、夫との一体感を失うことで精神を病んで死んでしまうマクベス夫人の悲劇!

オフィーリアとは違い、シェイクスピアは狂ったマクベス夫人には歌を与えていません。しかしながら、西洋音楽史上最高の天才の一人である十九世紀イタリア最大の作曲家のジュゼッペ・ヴェルディがマクベス夫人のために素晴らしいオペラを作曲しています。ヴェルディのオペラの主役は「マクベス夫人」なのです。

シェイクスピアの悲劇「マクベス」とは?

「マクベス」はシェイクスピア劇の中でも最も短い作品で、通常の「ハムレット」の短縮版のQ1と同じく、上演時間は二時間ほどになり、非常に簡潔。

物語はマクベスの権力獲得から没落までという単純な筋書き。分かりやすさでもシェイクスピア随一ですね。

物語を支配するのは上述の魔女の存在。

魔女たちはマクベスに王になることを予言して、またマクベスの没落さえも予言する。聴衆はどのようにマクベスが破滅するかを最初から知っている。だから見るべきはいかにして権力を得て、また失うのかという点なのです。でもただこれだけの物語だと歴史劇でしかない。

でもシェイクスピアの「マクベス」が面白いのは、マクベスには心から愛する夫人がいること。マクベスは彼女を喜ばせるために王になることを望み、夫人は夫が王となる預言を聞いて、その言葉を実現させようとするのです。

王殺しを躊躇う夫を勇気づけて国王殺しを成功させます。

第一幕と第二幕、マクベスとマクベス夫人は一心同体に行動して、お互いの会話は英語原作で読むと、何をするにも「俺たちはWe、Us」という主語を使って夫人と会話をします。運命共同体で殺人によって結ばれた最高の夫婦なのですね。

王を殺すことを躊躇うマクベスの「失敗したらどうなる?」
は日本語では主語を訳しませんが、主語はWe、マクベスとマクベス夫人の二人。
夫人は私たちは失敗しないと断言する

トリビアですが、続く Screw your courage to the sticking placeという言葉。

「勇気を出せ」と訳されますが、the sticking placeとは最も大事な場所という意味。狩では獲物の喉の下の急所を意味します。慣用句となっている言葉。

直訳だと「この窮地に勇気をねじり締めろ」!
意訳して「勇気を振り絞れ」!

だからディズニーの「美女と野獣」に引用されたりもしている。

野獣を殺せと群衆を煽るガスタン。

悪人ガスタンの狂気はマクベス夫人譲り。

本当に第一幕、第二幕のマクベス夫人は凄い。勇気の出ない夫を自身の分身として励まして、夫を王座に登らせるのです。

マクベス夫人の有名な言葉
Unsex me!という言葉が凄い。
「マクベス」の大事な主題は、女性的であることと男性的であることの対比。
「悪霊たちよ、私から女らしさを取り払え、
そして全身を悪霊のような残忍さで満たしておくれ」

女性らしさはまた男性らしさでもあります。
魔女の言葉「綺麗は汚い、汚いは綺麗」がキーワードなマクベス。
両極端は通じ合い、ハムレットがいみじくも述べたように、善も悪も考え方次第

ですが、第三幕では、夫マクベスは、一蓮托生の運命共同体である妻から距離を置きます。

「ハニー、お前は知らなくてもいいのだよ、後で俺がしたことをお前に褒めてもらうまでは」
マクベスはこうしてバンクォーの暗殺計画を一人で行い、
夫人をもはや犯罪に加担させないでおこうとしますが、
彼女の望んでいることはそんなことではなかったのです
いつでも一緒で全ての秘密を共有していたかった。
共犯者であることで愛を確認したい彼女

彼女を独立した人格として思いやり(夫の思いやりとしてはこちらの方が普通)、殺したバンクォーの亡霊を見ても、その真実を彼女には知らせない。マクベス夫人にはバンクォーの亡霊は見えない。

もはやマクベスはWeとは言わない。最後のトゥモロー・スピーチまで。

テオドール・シャセリオー作品「バンクォーの亡霊」
1856年

それからというもの、夫人は2人で1人だったがために感じることのなかった罪の意識にようやくにして目覚めてしまいます。

オフィーリアのように精神錯乱して夢遊病に取り憑かれ、無意識に本当のことを喋り始めるのです。

夜中、物理的に汚れてもいない手を洗い、秘匿されなくてはならないバンクォー殺しの事実を医師や付き添いの召使いなどに喋り出すのです。

消えろ、なくなれ、呪われた忌まわしい染み、綺麗になって、お願いよ
一つ、二つ、ああ時間になったわ、終わらせないと
地獄は暗いのよ

この場面にシェイクスピアは歌を書いてはいませんが、舞台場でこの狂気を表現する女優には大変な演技力が問われます。前半部の強靭なマクベス夫人が変わり果てるのです。狂い方も清純でおとなしいオフィーリアとは違うやり方で凋落ぶりを見せつけないといけません。

この第五幕第一場が悲劇のクライマックス。下の動画、YouTubeサイトでCCを使うと日本語字幕が見れます。

次の場で夫人の自殺が夫マクベスに伝えられて、マクベスは、ハムレットのTo be or not to be と共に、全シェイクスピア劇中で最も有名だとも言われるTomorrow Speechを語るのです。

この言葉はマクベス夫人の死を聞いたからこそ、マクベスの呟いた言葉だとわたしは思います。

英語話者の多くはこの言葉をよく暗記していて、日本人が「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」を誦じているようなもの。

Tomorrowは古い英語では、To morrow. 
Good morningも、Good morrow。
Morrowとは朝という意味。次の朝に向かうから明日。
ドイツ語でもMorgenは朝と明日の両方を意味して、
日本語でも「朝」を「あした」と読みます。
次の言葉のように

あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり

このトゥモロースピーチの主語は、This petty pace=このつまらぬ歩み, 足取り、つまり時間のこと、明日へとゆっくりと向かう時間。tomorrow creeps inと明日が忍び寄るとも解釈は可能。掛け言葉のようなものですね。

シェイクスピアの韻文の多くは弱強五歩格。

だから言葉のアクセントのリズムを合わせるために、主語や投資の位置がしばしば入れ替わります。この文は韻を踏んでいませんが、tomorrowやoutの繰り返しが効果的。頭韻も覚えやすい。引用した画像には現代英語で失われた、fに似た文字、Long S=SSが用いられていて読みにくいですが、シェイクスピアの英語はこのようなものでした。

SubjectはFubjectのように見えますが、横線の長さが違う。
マクベスの言葉でも、Soundがそうです

この名句を現代英語の口語文風で書くと

Tommorow, and tomorrow and tomorrow,
this petty pace of our hours creeps in daily
to the last syllable of recorded time
明日へ、明日へ、明日へと
このくだらない時の歩みは
記録されてゆく時の最後の時間まで
日毎に忍び寄ってゆく

現代風にしてしまうと格調高さが一気に失われてしまいます。

and all our yesterdays have lighted fools そして俺たちの昨日は阿呆どもに
the way to dusty death 照らし出した薄汚れた死路
out, out, brief candle 消えろ、消えろ、束の間しか持たぬ、溶けて短くなったロウソクよ

our yesterdaysの俺たちとは、夫人とマクベスのことでしょうか。

ここにきて、これまでいつだって一緒だった夫人との二人三脚の日々を思い出しているのでしょう。

普通はこの言葉は一般論を語っていると解釈されますが、死地に向かうマクベスの心情を思うとマクベス夫人と彼自身のことでしょう

後半部分。
シェイクスピアお得意の「世界は舞台、誰もが役者」という意味の言葉
人生は歩んでゆく影法士、哀れな役者
舞台上で出番では大騒ぎするがすぐに聞かれなくなる馬鹿どもに語られるお話で
騒ぎ立てても、意味なんてありはしない

ヴェルディのオペラ「マクベス」

さて音楽ですが、ヴェルディ (1813-1901)のオペラはイタリア語に翻訳されたものです。ヴェルディの台本作家はフランチェスコ・ピアージェ (1810-1876)。

ヴェルディは彼以前には蔑ろにされていたオペラの台本を重んじた作曲家でした。

ヴェルディは若い頃、自分の音楽を劇的に表現するに相応しい台本を探し続けていて、初期の作品の多くの不成功は台本が自分の音楽を表現し得ないからだと、いろんな劇作家に台本を依頼してはダメ出ししたりと苦労したのでしたが、ピアージェと出会ってからはもう他の作家に見向きもしないで、彼の死まで十もの共作を行うのでした。

ピアージェとの共作には、ヴェルディ中期の人気作「ラ・トラヴィアータ」や「アイーダ」も含まれます。

長生きのヴェルディはピアージェが66歳で亡くなると、素晴らしい台本作家の死を心から悲しんだのでした。ヴェルディは筆を断ち、次の台本作家アリーゴ・ボイートに説得されるまでもはやオペラは書かなくなるのです。ボイートとの共作がシェイクスピアの「オセロー」と「フォルスタッフ」による最後のオペラです。

1847年のオペラ「マクベス」はピアージェとの共作四作目で、ヴェルディ自身は晩年まで自身の全作品中の最高傑作とみなしていました。

ヴェルディはこの作品を通じて、先輩作曲家であるベルリーニやドニゼッティの歌合戦のようなベルカントオペラのスタイルを捨てて、劇のドラマ性を追求するオペラスタイルを確立したのです。

新しいスタイルで書かれたオペラ「マクベス」は初演より不人気で、王殺しという主題に異教の魔女が登場するがために検閲を受けて、やがてこのオペラは上演されなくなり、パリ改訂版の上演された1865年以降はお蔵入りして忘れ去られた作品となります。

ヴェルディ本人は大変に高く評価した自信作だったのですが、レパートリーに残らなかった最大の原因は、主役マクベス夫人の役柄があまりに難しかったからです。

美声の普通のソプラノ歌手には歌えない、複雑な感情を歌うマクベス夫人。

作曲家は、夢遊病で夜中に彷徨い歩き、汚れていない手を洗うマクベス夫人の歌に、美しい声で歌うなというト書を書き込むほどで、美しい歌の饗宴を楽しみにしているオペラファンには受け入れ難いものでした。

マクベス夫人の狂気は並の歌手には歌えないのです。

しかし二十世紀前半にドイツでヴェルディオペラが大人気となり、「マクベス」は60年ぶりに舞台に復活します。

ドイツ語版が何度も演奏されるようになり、中期の傑作として再評価を受けますが、真に大傑作と見做されるようになったのは、二十世紀最高の伝説のマリア・カラスが出現してからでした。

マリア・カラスの「マクベス夫人」

カラスは生きた伝説となった不世出のギリシア出身のアメリカのソプラノ歌手。

戦後、カラスはイタリアオペラの巨匠セラフィンに見出されて大スターとなりますが、カラスが二十世紀の数々の大歌手たちと一線を画すのは、演技する声です。

カラスは、ライヴァルとみなされたテバルディや後輩のカヴァリエなどと比べると、くぐもった暗い声で、一般的に最も美しい声とは言い難いのですが、その陰りのある声を駆使して、思い切り表情豊かにドレミファの音階さえも感動的に歌い上げたのがカラスでした。

カラスは忘れられていたベルリーニやドニゼッティのベルカントオペラを蘇らせたことで歴史的に名を残しましたが、ヴェルディの「マクベス」こそはカラスが復活させたオペラの最高傑作の一つ。

時間に余裕のある方は聴き比べなどをされるといいですが、カラス以外のマクベス夫人の歌は美しすぎるのです。声に野心や邪悪さを感じさせるなど無理に思われるかもしれませんが、カラスを聞いていると、マクベス夫人はこんなふうに気持ちを伝えていたのだろうなというのが、遺された録音から伝わってきます。

日本語オペラ対訳さんの素晴らしい字幕付き動画でカラスのマクベス夫人をお聴きになってください。

第一の歌

最初はオペラの第一幕、シェイクスピア原作も同じ第一幕第五場、この有名なセリフの部分に当たります。夫マクベスにダンカン王を殺して王になれと唆す、もとい勇気付けるのです。上記の「勇気を振り絞れ」に該当する部分。ピアージェの歌詞はほとんどシェイクスピアとはかけ離れたものですが、蛇の言葉は含まれています。

無垢の花のように見せかけて、でもその下に潜んでいる蛇のようになりなさい
マクベス夫人の言葉

第二の歌

次はオペラ第二幕より。原作では第三幕。

王座についたマクベスに王座を脅かす存在であるバンクォーはまもなく打ち果たされると夫人は歌います。でもマクベスはこの歌の後にバンクォーの亡霊を見るのです。

第三の歌、夢遊の場「ここにまだ染みがある」

亡霊に怯えるマクベスの姿を見て、夫人は戸惑いを覚えて、精神を病みます。

原作の第五幕、オペラ第四幕。ここがオペラ全曲で最も素晴らしい歌。

ですので、オペラの序曲では、このアリアの序奏とメロディがそのまま奏でられるのです。序曲はオペラの最も大切な部分のハイライトが聞けるので、序曲と同じメロディが響く時、そこがオペラのクライマックスであると判断できます。

うねりゆく短調の調べ。クラリネットの哀愁。

わたしが最も愛するヴェルディオペラのアリアです。この歌の中で無惨に殺されたマクダフの妻子への言及がありますが、無辜の二人の死もまた、「マクベス」の悲劇の一つ。マクベスに妻子を殺されたマクダフの歌う悲しみのアリアも心を打ちます。

マリア・カラスの最高の歌の一つ。

幼な子と妻を殺されたマクダフの嘆きのアリア

戦場に向かうマクベスのアリア

マクベス夫人が狂い死んだという報を受けて、シェイクスピア原作では、上記のトゥモロー・スピーチをマクベスが語るのですが、ピアージェの台本には、この部分は含まれてはいなくて残念です。

オペラでは、夫人の死を知ったマクベスは反乱軍の軍勢を迎え撃つにあたって、アリアを歌います。

「女から生まれた者」に自分は殺せないという魔女の言葉を信じて出陣します。もちろん最後は、帝王切開から生まれたため「女から生まれなかった」と言われたマグダフにマクベスは打ち取られて幕となります。

マクベスの時代に帝王切開して赤ん坊を取り出すと、母親は助かりません。

母親が産み落とさなかったので、産道を通って生まれなかったので、「女から生まれなかった」という当時の考え方。母親の命の犠牲によって生まれ出た子だから特別です。

男とは、女とは、そんなことばかりが何度も劇中繰り返されて、女性権利論者には「マクベス」は不快な劇なのかもしれませんが、舞台となった十一世紀とはそういう時代だったことに違いなく、現代的には、魔女のこの言葉がシェイクスピアは軽薄なジェンダー論を書いているわけではないことが理解できるはずです。

マクベスとマクベス夫人というパートナーを通じて見えてくる世界が「マクベス」の魅力。

綺麗は汚い、汚いは綺麗

第一幕第三場で初登場するマクベスの第一声も

こんなにも不快で、そして美しい陽を見るのは初めてだ

劇中、何度もFoulとFairという言葉が印象的に語られます。破裂音のfが耳に鋭く響きます。

男はこういうもの、女はこういうものという言葉もまた、劇中何度も入れ替わり、王を殺せと夫を励ますマクベス夫人は男以上に男らしく、怯える勇士マクベスはまさに女々しく、そして愛を失ったと絶望して発狂するマクベス夫人は女性そのもの。

夫人は心からマクベスを愛していたから、王となった夫の愛が自分に向かわなくなったことを悲しみ、オフィーリアのように狂うのです。

マクベス夫人ほどに女性的な女性はいない。女性の強さと弱さの全てを抱えている女性。

権力に囚われて自分独りの世界に篭ってしまうマクベスほどに男性的な男もいない。男は引きこもる。マクベスも典型ですね。

でもこういう男性的、女性的という属性も、どちらかに特有というわけではない。だから綺麗は汚いで、汚いは綺麗。

マクベスは劇としては非常に短くても、その分非常に密度と純度の高い言葉の劇なのです。人生の終わりへと向かうシェイクスピア後期の大傑作。

あまりに英語原作は緊密に書かれているので、完璧すぎて、「リア王」同様に「マクベス」は音楽には向きません。

ハムレットにはユーモア溢れる年功を積んだポローニアスがいました。

リア王にはアイロニー溢れる滑稽な笑いを誘う道化が側にいました。

ですが、マクベスには愉快な笑いの場は存在しません。冗談を言い合う脇役キャラもいない。ただただ濃密なドラマに唖然とするばかり。

凝縮された言葉による、二時間ノンストップな、世界で最も劇的なドラマ。共感するしないを別にしてこれほどに引き込まれるドラマは数少ない。

ですので、悲劇「マクベス」をオペラにしてくれた、ヴェルディとピアージェのコンビには大感謝です。

マクベスが好きな方は是非ともヴェルディのオペラも機会があれば鑑賞して下さい。きっと思い出深いものになりますよ。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。