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果たして自己犠牲の精神・愛はスピリチュアル的に間違いといえるのだろうか?

近頃、いわゆるスピリチュアルの先生やセラピストの方々が、Youtubeやブログなどで「自己犠牲の精神・自己犠牲の愛はよくない。自分を犠牲にしてまで他者に貢献するのは間違っている」と教えられることを目にすることがよくあります。

それも、結構な頻度で形を変えて、様々な表現で立派な先生が教えるのを、個人的に見かけることがあります。

私は、これについてひとことエッセイとして述べたいのです。個人的な意見としてご覧いただけましたら幸いです。

『自分で喜べない自己犠牲をしてまで人を愛したり、他人を助けたりするのは間違いです。なぜなら、あなたの魂の喜びこそが一番大切だからです』という教えについて

たしかに、自分の魂が喜ぶことを大切にすることは大切です。また、人間は自由意志を持っているので、個人個人でこのような考え方をすること自体はあってもいいことかもしれません。

「あなたの魂の喜びこそが大切だからです」・・・たしかに、個人の信条の理由としては理解できます。

しかし、これは『個人個人の信条としては選択の自由としてあり』ですが、これを先生やセラピストとして『万人に向けてこれが絶対正しい真理です』かのように教えるとなれば、話は変わってきます。

もし仮に、この世の中で『自己犠牲をしてまで他人を救う人』が歴史上にいなかったら・・・と思ってみるとわかりやすい

もし、人類の歴史のなかで「他者のためにとてつもなく大きな自己犠牲してくれた人」が、存在しなかったら・・・そう仮定してみましょう。

大きな自己犠牲の精神で他者を深く愛し、救ってきた歴史上の人々

🔵 イエス・キリスト

イエス・キリストはとてつもなく大きな自己犠牲をしてまで他人を愛し、助けた人として、歴史的に代表的な人物です。

イエス・キリストが、十字架にかかったのは、イエスが当時父なる神様(創造主)からの指示によって、十字架にかかることで、人類の罪をあがない、人類を霊的に救うという使命を受け入れます。

そのとき、イエス・キリストが残した言葉が次の通りです。


■ ヨハネによる福音書 15章12節~13節

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はありません。


イエス・キリストが「愛」の究極について、ここで語っています。「自己犠牲をしてまで他者に貢献するのは間違い」という概念とは正反対といえるほどの大きな違いです。

🔵 昭和天皇

昭和天皇は、第二次世界大戦後、GHQによって裁かれようとしていました。そして、マッカーサーが天皇の元に現れると、昭和天皇は次のような内容で話されました。「戦争の責任はすべて私にあります。政治家や軍人たちは私が任命しているので、彼らには責任がありません。私の身はどうなろうと構いません。どうか国民の生活が困らぬようにお願いしたい

そのとき、マッカーサーはこの昭和天皇の姿勢に激しい感動をおぼえたといいます。マッカーサーは就寝前には聖書を読むほどの熱烈なクリスチャンだったので、そこにイエスキリストの姿を見出したようです。

これによって、昭和天皇は救われ、日本にとって天皇制が大きく助かった瞬間ともいえます。

🔵 吉田松陰

吉田松陰は、日本国の未来の繁栄を願って、常人からすれば無謀ともいえることをします。

それは、欧米列強に対抗できる強い日本国をいかにつくるかを探るために、当時の幕府による鎖国の法律を侵して、勝手に2人で軍艦に乗んでしまったという話です。そのあと、吉田松陰は幕府に報告されてしまい、有罪にされました。

国を救うためには、自分を大きく犠牲にしてまで何かを為す。この吉田松陰の姿勢は、イエス・キリストの精神に非常に近いものを感じます。

そして、吉田松陰は次のような言葉を残しました。


死して不朽の見込あればいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込あらばいつでも生くべし。

現代語訳:死ぬことで大義を果たせる見込みがあるならそうすべきである。生きて大義を果たせる見込みがあれば、いつまでも命を大切にして生きるべきである。


吉田松陰は、机の上にいて偉そうに威張っているだけの学者ではなく、国のために自ら果敢なる行動を何度も示されてきた偉大なる先生、といえるところがポイントです。

吉田松陰の門下生たちが、明治政府を作ったエピソードについては話しをするまでもないですね。

吉田松陰の「自己を犠牲にしてまで国を愛する精神のお陰」で、明治時代が実現できたわけですから、私たち日本人は彼の姿勢をないがしろにせず、尊重したいものです。

🔵 マハトマ・ガンジー

マハト・マガンジーはインド独立の父で有名ですね。

彼は、イギリスの植民地下にありながら非暴力・不服従による独立運動をしました。イギリスの植民地にありながら独立運動するというのは、自らの命をかけての抵抗運動だったようです。

ガンジーはその独立運動のために何度も投獄され、時には何年も拘留されたといいます。それでも、国のために、社会のために活動された姿は、自己犠牲の何者でもなかったといえるでしょう。

🔵 コルベ神父

コルベ神父は1894年に生まれ、1930年に布教のために長崎まで来日しており、大浦天主堂で書籍を出版するほど熱心な神父様でした。やがて、コルベ神父は数年を経てポーランドへ帰国します。

第二次世界大戦に入り、ナチスはカトリックの教えを敵対視しており、コルベ神父を捕まえてワルシャワの収容所に送ってしまいました。

ある日、そのナチスの収容所で脱走者が出てしまい、結局見つかることはありませんでした。そこで、連帯責任として無差別に10人を選び餓死刑に処すことが決まったのです。

そのとき突然、10人のなかのある1人の男がその場で泣き崩れてしまいました。「私には妻子がいるんです。なんとか助けて欲しい」と。ずっと泣き叫ぶ様子を多くの人がそこで見守っていました。

すると、そこにコルベ神父が列からはみ出て登場して、こう言いました。「私はカトリックの司祭です。この人の身代わりになりたいのです。

はじめは戸惑った所長でしたが、「よろしい。そうしよう」と答えました。そして、コルベ神父は身代わりとなって餓死監房へ送られました。やがて、コルベ神父は皆と一緒にロザリオの祈りを唱えたり、賛美歌を歌ったそうです。

やがて、コルベ神父は2週間経過して息を引き取りました。

このときの目撃者で収容所から生還した人々は「この自己犠牲に深い感動と尊敬の念を引き起こされた」と語ったそうです。

身代わりに助けられた人は、終戦後無事に解放され、コルベ神父の話を語り、この話は有名になりました。

※コルベ神父の詳しい話は、次のHPに掲載されています。

自己犠牲をしてまで人を助けたコルベ神父。まさにキリストの言葉(ヨハネによる福音書 15章12節~13節)をそのまま行動に移せた偉人といえる方です。

そして、1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世によってコルベ神父は列聖され聖人の位を受けました

自己犠牲の精神で他者を深く愛し、他者を救う人を尊重しよう

このように、自己犠牲の精神で他者を救う人は、崇高な精神で精神性が高く、人類にとって尊い存在とまでいえるでしょう。

もちろん、このブログの筆者である私は多少の自己犠牲はできますが、このような偉人のような極端な自己犠牲の愛はできません。

私にはできませんが、このような偉人の姿勢を尊重したいものです。

少なくとも、「自己犠牲をしてまで他者を愛して救うのは間違っている」というのはちょっと違うのでは?と私個人には思えるのです。

もし、自己犠牲の愛を実践できる偉人が歴史上にいなければ・・・

イエス・キリストがこの世に現れなければ、西洋社会で「神のもとで人はみな平等」の概念が形成されず、フランス革命が起きずに、地球上で議会制民主主義の社会が実現できなかったかもしれません

仮に昭和天皇がご自身が助かることを第一に願い、イエスキリストのような捨て身の覚悟を持ち合わせていなければ、どのような判決を受けていたかわかりません。日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。

鎌倉時代の武士たちの捨て身の覚悟の自己犠牲と忠義がなければ、蒙古襲来時にモンゴル軍に勝てなかったかもしれません。※日本の武士たちは捨て身の覚悟で、敵を追い払ったそうです。神風だけで勝てたわけではないそうです。

吉田松陰がいなければ、明治維新が実現できず、いまだに江戸幕府の面影があるような雰囲気・・・アニメの銀魂の世界ような状況だったかもしれません。

ガンジーがいなければ、インドは相当長い間、イギリスから独立できなかったかもしれません。なぜなら、インドはイギリスにとって利権の真っただ中だったからです。

仏教的にいえば、究極的に自己に執着せず、慈悲の心を実践する仏法に敵った利他性

仏教的にいえば、上記の偉人たちは「究極的に自己への執着を捨て、他者への慈悲の心を実践された」ともいえそうです。

いっぽうで、仏教では極端な自己犠牲を避ける「中道」「中庸」という考え方がありますので、一見すると、キリストや昭和天皇、吉田松陰の姿勢は仏教的ではないように思えそうです。

しかし・・・出家して位の高いお坊さんになるための修行は、一般人からすれば極端ともいえる自己犠牲はしますし、修行僧は悟りのために「多くの世俗」を犠牲にしています

たとえば、密教で阿闍梨になるための修行はとてつもなく多くの自己犠牲が強いられます。

そういう意味では、仏教の世界でも悟りや世の中の救いに必要とあらば、極端な自己犠牲の上で、仏様や人々へのお布施は悟りに至る道として正しいものとして認識される場合がある、といえそうです。

現世の幸せ・喜びを第一にするのであれば、自己犠牲は損でしかない。

心理学などでは「自己犠牲ばかりする人は大きく損する」と解説されることがよくあります。そしてそれは、現世的な考えだけをもってすれば、たしかに正しい答えです。

他人のために自己犠牲ばかりして尽くす人・・・それは結局この世の中で損することが多いのは事実です。とくに、信仰心のない人は結果的に自分を傷つけやすい傾向にあるでしょう。

なので、あなたがこの世の成功・幸せだけを第一にするのであれば、極端な自己犠牲や、自己犠牲のし過ぎはやめたほうがいい、ということです。

しかし、来世を含めた魂の向上を目的にするスピリチュアルを大切に生きるのであれば、現世的な側面だけで物事を判断しないほうが良いと私は思っています。

上記で挙げた偉人達は、この世的に観れば自分が救われる幸福への道を選択したといえるでしょうか? ご自身が悲惨な目にあってまで他者を救うことを目指された、菩薩道でもあるわけです。これは、心理学的にいえば、間違った姿勢です。しかし、スピリチュアル的にいえば、非常に魂の進んだ人のすることといえます。

要は、スピリチュアル的にいえば、大義を抱き、自己犠牲で社会や地球に大きく貢献することは、『来世以降で、その良き報いを受ける』ということです。


また、繰り返しいいますが、私やあなたが、個人的な信条で極端な自己犠牲を否定するのは個人の自由で十分正しいことだと思います。また、現世的な心理学者がそういうのもある程度理解できます。

しかし、スピリチュアル系の先生が「この宇宙の真理として、自己犠牲の愛は間違っている」と教えていることについて、個人的に疑問をいだきたいところです。

搾取し続けるだけの人への愛や自己犠牲は損でしかない。

なお、自己犠牲をしてまで人を救う場合、その対象を正しく見極める判断は非常に大切です。たとえば、あなたを搾取し続けるだけの人、利用するだけの人など、そのような人への自己犠牲の愛は損するだけですし、スピリチュアル的にも、あまり良いとはいえない場合もあります。

とくに、女性の方は騙して利用するだけの男性には要注意です。

一方で、社会や地球、国のために大義を為すための自己犠牲は、多くの人が救われますので、そこに宇宙的な意義が生まれます。

スピリチュアル的に極めた他者を救う偉人は、自分のことを目もくれず、多くの人の救いを願う・崇高で高い精神性

上記で挙げてきた偉人たちは、崇高な理念を抱き、究極的に精神性が高ければ、ご自身がどうのとかは二の次で、どうすれば多くの人が救われるか?ということに意識のすべてがあるようです。

そして、魂レベルが進み過ぎているので、一般の私たちには理解が及ばないだけなのです。

私には彼らのようなレベルの姿勢はとうてい無理ですが、せめて「自己犠牲で人を救う人を尊敬して高く評価できる」ようにはなりたいものです。

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