聖書のイエスの教えとキリスト教の教えには大きな乖離があった。新約聖書マタイ福音書に答えが・・・。
この記事の内容は、神道・仏教・キリスト教・その他様々な新興宗教に触れてきた筆者が、個人的な見解としてキリスト教について書かせていただきます。
イエスキリストの教えとキリスト教の教えは、もちろん大筋のところは一緒です。しかし、教会が作り出す雰囲気と、聖書でイエスキリストが説かれた内容とに乖離があることも事実です。そこについて、これから深堀してゆきます。
①ミサ第一主義(カトリックの場合)
困っている人のことよりミサや自分を優先してしまう一部のクリスチャン(一部のクリスチャンです)
たとえば、生きるか死ぬかの瀬戸際の人が自力で立てずに、代わりに食事買って欲しいと頼んでいるのに「ミサを理由」に断ったり、あるいは、声が出せないときに、身内が救急車で運ばれて、代わりに電話して欲しいと頼んだら平気で「できません」と断ったりなど、平気で困っている人をないがしろにしたりするケースがあります。
しかし、このお二人ともに熱烈なクリスチャンで、年中イエスキリストに祈りを捧げ、祈りの集いまで開き、神を中心に生きていると自認されています。
しかし、それは教会が人を助けることより「何よりミサにあずかることが1番大切です」「何よりイエス様に祈ることが大切です」的な、直接そうは教えてないけどそのような雰囲気を自然に作り出してしまっていることも、要因のひとつのように思います。
聖書でイエス・キリストは「他人を自分のように愛しなさい」「困っている人を助けなさい」と繰り返し、数多く説いています。しかし、教会が作り出す雰囲気は、「何よりミサが大切です」「何よりイエス様への信仰が大切です」「何より祈りが大切です」という雰囲気を作ってしまっています。
本当に困っている隣人を助けることより、祈りやミサを優先させて、そちらのほうに熱心というのは、イエスキリストの説かれた本来の教えと乖離すると思うのは私だけでしょうか・・・。
自分でできることを他人に頼むのは、ただのわがままです。しかし、自力でできないことで他人に救いを求めるのは間違いではなく、そのような人に手を差し伸べるのが、本来のイエスキリストの教えではないでしょうか?
②他宗教への寛容さについて。イエス・キリスト「私に逆らわない者は味方である」「たとえサマリア人(異教徒)でも良い人は隣人のように愛しなさい」と言っているのに・・・
イエス・キリストは「私に逆らわない者は、私の味方である」「サマリア人(異教徒)でも人を救う愛のある人は隣人(仲間)です」と説かれています。しかし、教会はキリスト教徒とそれ以外で大きく区別して、他を「異教徒」のように扱って、歴史は動いてきました。
イエス・キリストの話をよく読むと、サマリア人のたとえ話(ルカによる福音書10章25節~37節)のところに異教徒への姿勢についてヒントが隠されています。
要約すると次のとおり・・・。
イエス様「強盗に襲われた人が、服をはぎ取られてひどい状態で見つかったとき、それを無視する同胞(※同じ宗教)の冷たい人いた。」
同じ宗教なのに助けないで見捨てるというのは・・・
イエス様「しかし、その後で強盗に襲われた人を『助ける』異教徒のサマリア人が現れた。」
宗教の敵?そこに異教徒が現れて救ってくれた・・・。
イエス様「いったいどっちがあなたの隣人なのか? サマリア人(※異教徒)のほうがはるかに隣人(仲間)でないのか? あなたもそのようにしなさい」と教えています。
極論をいうならば、異教徒であろうと、困っている人を助ける人は神の御心に近い、仲間なのだ、とイエスキリストは説いているのです。
仏教徒であろうと、困っている人を救う人は、イエスキリストの仲間なはずなのです。
このように困っている人を見捨てる人というのは、たとえ同胞であろうとイエス・キリストにとって仲間ではなく、たとえ異教徒であろうと、困っている人を慈悲深く救う人というのは隣人(仲間)なのだ、と教えられています。これがイエス本来の教えです。
また、カナン人の女(マタイによる福音書15章21節~28)の「子犬と女」のエピソードでも似たようなことを語っています。
新約聖書の中で、イエス・キリストはカナン人という異教徒の女に向かって、「子供からパンを取り上げて子犬に上げるのはよくない」と説かれました。
これはどういう意味かというと・・・「子供(ユダヤの同胞)からパン(神のお恵み)を取ってまで子犬(異教徒)を救うことはいけない。」という意味です。
そこで、カナン人の女性は「主よ、おっしゃるとおりです。ただ、小犬(異教徒)でも主人(ユダヤの民)の食卓から落ちるパンくず(神のお恵み)はいただきます。」と答えました。
これに、イエスキリストは「あなたの信仰は立派だ」と褒めました。
このように、たとえ異教徒でも、善人であったり、謙虚だったりする人に対して、イエスキリストは意外に柔軟に受け入れているのです。
しかし、キリスト教、そして教会の姿勢はどうでしょうか? 大航海時代・植民地時代は、「キリスト教徒の信者名簿に載っている人」と「異教徒」を大きく区別していました。
「キリスト教に入信すれば天国に入れる」というイメージで多くの信者を獲得してきた時代があります。それは、イエスの教えとだいぶ乖離していますね。イエスの教えによれば、『団体への加入』ではなく、『人生で他者を救う徳を天に積んだのか?』が隣人・仲間なはずです。
今ではだいぶキリスト教という団体の意識が緩和されてきたとはいえ、いまだに「私たちキリスト教徒は天国に入れる正しい人」という、『所属する団体』で自分たちの正しさを証明しようとする人が少なくありません。
イエス・キリストご自身は、『所属する団体で、洗礼を受けるか受けないかで、救われるかどうかが決まる』と直接聖書で言及されたことがあるでしょうか? キリスト教の信者でなければ救われない、と説いたことがあるでしょうか?
むしろ、所属団体ではなく「困っている人を慈悲深く助けたか?」を基準に救われるかどうかを判断されているのです。
このようなイエスの言葉を見ると、イエス本来の教えは仏教・神道などの他宗教に寛容なことがわかります。
イエスの本質的な教えは、仏陀の教えとほとんど変わらないと私には思えるのです。
③救われる人について。教会では「キリスト教に改宗すれば天国に入れる」と教えるが・・・
キリスト教会では「キリスト教に改宗して信者になれば天国に入れる」という風潮を作っています。そして「洗礼を受ければ救われる」と教えられることもあります。また、教会に通う人でそう思う人も少なくないでしょう。
たしかに、神を知らない人が改宗してイエスの言葉を知ることは、死後天国に入れる第一歩かもしれません。しかし、「キリスト教に改宗してクリスチャンになれば、それだけで自動的に天国に入れる」というムード作りは、イエス・キリストの本来の教えとはだいぶ乖離してしまっています。
その辺はイエスの教えというより、ローマ人への手紙に書かれた人間パウロの教えによるところが多いと見受けます。
パウロは「イエスが主であると告白し、神がイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」「主の御名を呼び求める者は全て救われる」とローマ人への手紙で説いています。これは新約聖書におさめられています。
しかし、パウロは神様ではなく、人間(聖人)なはずです。この話を信じるのはイエス・キリスト教ではなく、パウロ教ではないでしょうか?
パウロの「イエスが主であり、よみがえりを信じるだけで救われる」「主の御名を呼び求めるだけで救われる」という教えは、イエスキリストの教えと矛盾しています。
おそらく、イエス様は次のように思うでしょう。
「いやいや、そんな極論私は教えたはずないのだが・・・『他者を自分のように愛して救う人』が救われると教えたはずだが・・」
天国に入れる条件は果たして「キリスト教徒」として教会に所属することなのか?
マタイの福音書25章にはイエスが天国に入れる人の『たとえ話』をされていて、次の内容が書かれています。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物を恵み、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
この後、イエスはこの話の結論として「このようにして、正しい者は永遠の生命に入るであろう」と説いています。
この上の文章が、イエス・キリストの説く天国に入れる条件なのです。
キリスト教徒の人には、イエス教とキリスト教に乖離があることに気づいて欲しいと思っています。
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