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優しさを決めるのは動機か、印象か

むかし地元関西に、「厳しさが優しさ」と銘打っている学習塾があった。今ならちょっと問題になるキャッチコピーかもしれないが、子供のためを思って厳しくするのは、子供のためを思わず優しくするよりいいじゃないかという主張が含まれている。実際のところ、動機は優しさを決める要素の1つではあるだろう。

しかし私はもう1つ、忘れてはならない要素があると思っている。パワハラが、それを行った側ではなく行われた側によって認定されるのと同じように、優しさもまた受け取る側の気持ち次第ということである。

小学生の頃の不思議な思い出がある。国語の授業で、何か児童とのやりとりで困ったことがあったのか、若い先生がオロオロしていた。それを私は見かねて、結果的にフォローするようなことを言ったところ、後から先生は私に対し「あんたには敵わないわ」と言われたのだが、その意味が当時の私にはよく分からなかった。

なぜなら私は別に先生を助けたいと思ってフォローしたわけではなく、単に「見かねた」つまり「不愉快だった」ので、それを解消しようと思っただけだからである。先生は何を言いたかったのだろう・・・という疑問がずっと残っていた。

もちろん今思えば簡単なことで、先生は私に優しさを感じたのだ。しかしこの優しさには問題がある。それは、優しい人間は相手の痛みを自分の痛みと同様に避けてしまうということ。上記の例では悪い結果になっていないが、相手の痛みを受け止めなければいけない場面では通用しない。

例えば友人に愚痴を言われたとして、小学生の私と同レベルの優しさを発揮するとどうなるか。友人が経験した嫌なことを、嫌なこととして認めてしまうと自分も嫌になるから、回避するか否定するか解決策を提示するか分からないが、共感しようとする自分を抑え込もうとするだろう(形だけは共感するのかもしれないが)。すると問題は自分事にならず、解決策を出すにしても薄っぺらなものになってしまう。

優しい反応をしやすい人間、少なくとも私と同じタイプの人は、相手の痛みを感じやすいために共感を避ける心的反応も出やすい。つまり本当に優しい人間でいるためには、共感感受性を適度に下げる技術が必要だと思う。
そうして適度に嫌なことを自分事として受け止めた上で、理性によって嫌さのレベルをアンプリファイ(拡大)する。自分が受け止めた嫌さより相手が感じている嫌さが大きいとすればどうするかを考える、ということである。

現在の私は、小学生の私より多少はそういうことが上手になった。しかし私は思う、現在の私は小学生の私より、優しい人間には見えないだろうなと。相手が私のことを優しい人間だと感じてくれなければ、私の言葉に耳を貸してもらいにくい。私は先生が褒めてくれた私であるべきなのか、中等度の共感感受性とアンプ(理性により共感の不足分や動機を補完する機構)を備え、優しいフリでコーティングしたような私であるべきなのか。

小学生の私は、先生にとって優しい人間である一方で、先生のためにフォローをするという動機に欠けていた。しかしだからこそ打算がないと言うこともできる。現在の私はフリ程度の優しさしか感じさせない人間である一方で、すぐ助けるということに拘らず、長期的目線で相手のためになることは何かを考えることができる。と同時に、相手に気に入られたい等の打算も持ち得る。

どちらのタイプの優しさを身につけるべきかという疑問に対する、現時点での私の答えは次のようなものである。私たちは年齢を重ねるにつれて人との接点が多くなり、優しさを発揮しなければならない対象が増える。そうした場合にいちいち最大限の共感をしていたら身がもたないので、相手との距離感や、共感した場合に受けるダメージの大きさによって共感の程度を変えるのが良いのではないかということだ。

愛情からくる優しさも、その愛情を有り難いものとして相手に理解されなければ意味がない。優しい人だと思われても、事なかれ主義の人と混同されるのでは意味がない。だから優しさとは一概に動機でもなく印象でもないのであって、共感を厚くしたらアンプを薄くし、共感を薄くしたらアンプを厚くすることによって、両者の掛け算を常に高いレベルに保とうと努力することである。

「厳しさが優しさ」というキャッチコピーは、愛情が相手に理解される前提に立ってしまっているところが問題なのだ(愛情の説明を省くメリットは何だろう?)。理解されない厳しさなど、モチベーションを下げるだけ。同様に、パートナーに冷静に優しくしてキレられる私のような人間は印象を厚くしたほうが良いらしい。しかし小学生の私は帰ってこない。だから未だに、当時の思い出が色褪せないのかなと思っている。

ではでは。

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