【考察】いじめの存在理由とは?

 こんにちは、山本清流です。






(この記事では、いじめを、「相手を傷つけようとする意図を持って、相手を傷つけるような言動又は工作をすること」と定義しています。つまり、「制裁」と同じような意味です)








 急になんで「いじめ」の考察が始まるんだと思われるかもしれませんが、

 僕は何を隠そう、小中高といじめをコンプリートをしている身だから、死活問題です。







 いまのバイト先(休業中だけど)の同僚たちは年代が違うこともあるのか、すごく優しくしてくれて、

 僕が変なことは薄々勘付いているだろうけど、仲間外れにはしないでくれます。







 僕にとって重要な問題は、いじめをゼロにしようとかではなく、

 なんで、いじめは存在しているのか? のほうです。






 

 もともと僕は実践には興味がない人間だから、いじめを解決しようという発想はあまりないし、

 いじめられているときも、主犯格の人の家に隕石が落ちてくることを祈るしかありませんでした。








 なんで、いじめは存在するのか?

 すべての現象に理由があるのなら、いじめにも理由があるはずです。








 そこで、僕は、『ヒトは「いじめ」をやめられない』という本に手を伸ばしました。有名なやつです。

 この本を読んで、僕は、いとも簡単にいじめの存在理由を思い知らされることになりました。








 すなわち、いじめとは、「集団の結束を維持するためのシステム」、あるいは、「そのシステムの誤作動」ということです。

 僕はかなり納得してしまいました。たしかにそうだ、と。








 噛み砕いて説明すれば、いじめというのは、集団の規範から外れたヒトを叩くことで、異分子を排除したり、それをすることによって集団内に「こんな行動はするな」と思い知らせるための見せしめです。

 それはときに暴発してしまう不安定なシステムですが、社会を維持する上では必要不可欠なシステムだ、と言われれば、たしかにそうなのです。







 


 そのシステムは刑法とそっくりだと思いました。

 僕はいま刑法を勉強しているのですが、刑法というのは現代においては「各種の法益を保護するために一定の行為に対して刑罰を設定することで一定の行為を予防するもの」と捉えられています。







 殺人罪を規定した法律がなければ、おそらく、現在よりも殺人が多発します。

 それは社会にとっては良いことではないので、殺人罪を創設し、それを予防しているのです。

 この規定はおそらく効果を発揮していて、その規定がなければ殺されていただろう多くの人間の命を救っているのです。

 みなさんも、病気で死にそうになったときにお医者さんに救われたことがあるかもしれませんが、同じように、検察庁とか裁判所とかで働いている人たちの活動によって、見えないところでメチクチャ救われてるのです。







 人類は、この刑法と同じような機能を、法律を介さずに発動させることができます。

 それが、いじめです。







 いじめによって社会が改善されている、と言ったらメチャクチャ怒られそうですが、

 さんざんいじめられてきた当事者が言っているのだから、許してください。

 というか、もちろん、いじめはダメです。やめてください。僕は推奨してるわけじゃありません。やってるヒトはダメって言われても、どうせやるでしょうが、とりあえず、やめてあげて、と言っておきます。



 





 簡単な例を挙げるなら、炎上事件ほどわかりやすいものはないでしょう。

 不倫をした人を裁くような不倫罪という法律はないですが(昔はあった)、現代でも、炎上事件が同じ機能を果たしています。







 不倫をした人をみんなで袋叩きにすると、その炎上事件を見た人たちは「不倫はやめておこう。少なくとも、不倫をするときはバレないようにやろう」と思うでしょう。

 すると、不倫が減ります(これを法律用語では、一般予防と言います)。不倫をされて傷つく人が減り、結果的に社会にとってプラスになります。








 炎上事件がいいと言っているわけじゃありません。

 みんなで誰かをいじめることは、一方的にデメリットしかないということではなく、メリットもある、ということです。実際、刑法はその役割を、国会の指揮に基づいて実行しています。







 『ヒトは「いじめ」をやめられない』にも書いてありましたが、

 いじめをする人は、ほとんど向社会的なのだそうです。サイコパスは自分にとって利益のない無駄なことはやりません。

 社会のことを優先しているような特性を持った人こそ、いじめをやりやすいのです。(向社会的な人というのは、優しい人という意味ではなく、その場の雰囲気を崩さないように空気を読むような人のことです)









 だから、ちょっと残酷なことではあるのだけど、

 いじめをなくすことはできないし、ある意味必要なのであって(誤解しないで)、

 いじめが完全になくなれば、かえって、やりたい放題な人がたくさん出てくる社会になると思います。潜在的におかしな人たちは、いじめが存在することによって、それを顕在化させないでいてくれるのです。

 

 




 

 



 しかし、僕はここに希望を見出しました。

 いじめはなくならないけど、救いはあるのです。

 以上の話でショックを受けてしまった人などがいましたら、ぜひ、ここから、耳を傾けてください。








 救いというのは、つまり、「いじめというのは、便宜上のものだ」ということです。

 いじめられると、いろいろな嫌なことを言われます。すると、病んでしまいますね。

 自分って、気持ち悪いのだろうか、とか、死んだほうがいいのだろうか、とか、邪魔者なのだろうか、とか。

 僕もそう感じて、死のうとしたこともあったし、いまでも苦しくなることがあります。

 もしかしたら、同じような境遇の人もいるかもしれません。







 しかし、自分を責める必要は一切ありません。

 自分を責めることで改善するなら、もう改善しているでしょう。

 改善しないなら、もう、それは無理なのです。できないと諦めましょう。

 そして、できないということは、非難可能性が存在しない、ということです。









 これは法律上で心神喪失と呼ばれるものに類似しています。

 法律はできないことを求めません。たとえば、精神の錯乱状態で人を殺したとき、理性を働かせて人を殺さずにいようとすることは、できなかったはずです。

 できないことを要求して刑罰を科しても予防にとって意味がないので、心神喪失は無罪となります。(原因において自由な行為、という例外は存在する)








 非難できないことを非難しても、社会にとって意味がありません。

 それは、上述した炎上事件の例のように、社会にとってプラスに働く余地がないのです。だって、できないんだから。

 不倫はダメだって言われても、不倫をしないと死んでしまうなら、不倫するしかないでしょう。その人に対して、不倫をしてはいけないと非難することは、死んでくださいと言っているのと同じです。








 
 いじめというのは、社会のために行われているボランティア活動みたいなもので、

 それ自体には、いじめられている人を評価する機能はありません。








 そう思うと、なんだか、可愛らしく見えてきませんか? 

 ああ、この人、社会のために頑張って怒ってるなぁ〜、でも、残念だけど、僕は的外れなんですよ、できないんだから、みたいな。








 こんなことを言うと、僕に対して、「できないっていうのは甘えだ」と言いたくなる人もいるでしょう。実際、同じようなことを言われたこともあります。

 しかし、いまの僕には、それさえ可愛らしく見えてきます。








 ああ、この人、できないっていう甘えを許したら、社会の人たちがみんな甘えてしまうから、そうならないように、社会を良くするために、わざわざ一生懸命にボランティア活動してるんだなあ、でも、僕に対しては的外れなんだよなあ、と。

 そう思ったら、みんな、可愛い。日本人のこと、好きになってきた。日本人って、けっこう、社会のこと考えてるんだなあ、と。







 ということで、いじめというのは便宜上のものだから、

 もしも、いじめてきた人たちが主張していることが間違っていたり、自分にはできないことだったりしたら、耳を傾ける必要はないでしょう。

 もちろん、自分にできることなら、従ったほうが早いし、そのほうが自分にとってもプラスになると思います。

 でも、できないこと(たとえば、気持ち悪い、と言われても、気持ち悪くないようにはなれない。これはできないこと)を要求されているのなら、それはその人たちの無意味かつ有害なボランティア活動なのであって、従う必要はないです。







 おそらく、こんことを言われても、現にいじめられている人にとってはなんの救いにもなりませんが、

 僕にとっては救いになりました。ありがとうございます、中野信子さん。