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1億円かけて世界一周した文豪「徳冨蘆花」

京王線芦花公園駅、世田谷区立芦花小学校、世田谷区立芦花中学校は、明治〜大正時代の文豪・徳冨蘆花が東京都世田谷区粕谷で晩年を過ごした住居を妻・愛子が東京市(現・東京都)に寄付し、都立公園となった蘆花恒春園に由来します。

蘆花恒春園には徳冨蘆花の旧宅、墓、蘆花記念館があります。蘆花記念館には、蘆花の作品はかつては教科書によく使われていたこと、代表作『不如帰』が日清戦争を題材にしたものであること、日露戦争後にパレスチナ巡礼とロシアのトルストイの訪問の際にスリランカも経由していること、トルストイから農村で暮らすことを勧められて粕谷に移住したことなどが分かります。

スリランカはただの経由地であり、特筆することはありませんが、スリランカ在住者の身で久しぶりに地元に帰って、地元の公園を歩いていて、この事実を知ったので、投稿することにしましたが、徳冨蘆花の一生には歴史上の人物が多く出てきますので、幕末・明治・大正の流れを見ながら、徳冨蘆花について見ていきます。

坂本龍馬にも会った父・一敬

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徳冨蘆花の父は、横井小楠の第一の門弟と言われ、勝海舟のつかいで坂本龍馬が横井小楠を訪ねた際も同席している儒学者の徳富一敬です。

徳冨蘆花の兄は、東京新聞の前身の一つとなる國民新聞を創刊して初めて天気図を掲載したことや、全100巻の大著『近世日本国民史』を著したこと、同志社の新島襄を支援したことでも知られる徳富蘇峰です。

徳冨蘆花の初恋の相手は、同志社を設立した新島襄の姪で、新島八重の兄・同志社副校長の山本覚馬の娘山本久栄。婚約までしたそうですが、新島襄にも兄の徳富蘇峰にも反対されて破談しています。

水俣、逗子、原宿、世田谷、旭川、伊香保温泉の記念碑・施設

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徳冨蘆花が足跡を残した各地には記念碑や記念施設が建てられています。

徳冨蘆花は水俣市生まれ。水俣市には兄の名前を冠する水俣市立蘇峰記念館が設立され、生家は熊本県内最古の町家建築として水俣市の文化財に指定されています。

熊本市大江には、兄の蘇峰が開いた大江義塾が残されています。

蘆花が4年間滞在して、代表作「不如帰」を書き上げた逗子市には、蘆花や国木田独歩の住んだ柳家跡地に「蘆花独歩ゆかりの地」碑があります。

原宿には、住居跡地に住居跡碑が建っています。

蘆花が晩年を過ごした粕谷(東京都世田谷区)には都立蘆花恒春園があり、それに由来して、京王電鉄京王線芦花公園駅や、世田谷区立芦花小学校・世田谷区立芦花中学校があります。

蘆花の小説「寄生木」の舞台となった旭川市では春光台公園に「蘆花寄生木ゆかりの地」の碑が建てられています。

蘆花がしばしば逗留し、終焉の地ともなった伊香保温泉には「徳冨蘆花記念文学館」が設立され、関連資料が展示されています。

ちなみに、原田愛子と結婚した年に住んだのは、赤坂氷川町の勝海舟邸内の借家だそうですが、赤坂氷川町には勝海舟邸跡地の碑が建っています。

日清戦争を題材にした代表作『不如帰』

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1897年に逗子に転居し、兄・徳富蘇峰が創刊した國民新聞に小説「不如帰」を連載します。不如帰は劇団でも公演され、旅芝居や映画にもなり、1909年には100版を重ね、刊行後30年で185万部を売り上げるベストセラーとなっています。

不如帰は「陸の大山、海の東郷」とも言われた元帥陸軍大将になった大山巌の長女・信子をモデルにしています。

小説では夫が日清戦争に行っている間に信子のモデルとされる主人公は結核になり、幸せの結婚生活を姑に引き裂かれ、実家に戻ると継母から冷淡な扱いを受けて生涯を閉じるという内容です。これを間に受けた読者が、大山巌の再婚相手で実際の継母にあたる大山捨松を批判し、捨松は風評被害に悩まされます。

ところが、実際は信子が結核になった際に夫とその母が離縁状を突きつけ、その仕打ちに大山捨松、津田梅子が抗議し、大山捨松は信子の看病をしたと言われています。

徳冨蘆花がこの件について捨松に謝罪したのは、捨松が死ぬ直前だったと言われています。

ちなみに、不如帰の書き出しは伊香保温泉の一室から始まっていますが、伊香保温泉には、徳富蘆花記念文学館があります。

兄・蘇峰と絶縁

国家主義的傾向を強める兄・蘇峰と次第に不仲となり、1903年に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となります。

日露戦争後にロシア、エルサレムに行く

日露戦争が終戦した翌年の1906年(明治39年)、非暴力主義者として知られるロシアの文豪トルストイに会いに、トルストイの屋敷「ヤースナヤ・ポリャーナ(現在は記念博物館)」に行くことを最終目的に、ヨーロッパ旅行、エルサレムへの巡礼を合わせて、横浜から出向しています。

その際、上海、香港、コロンボを経由しています。

トルストイの勧めから粕谷に移住

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ロシアでトルストイに会った際に、別れ際に「徳富、君は農業で生活することはできないかね?」と訊ねられ、蘆花は移住先を探します。

そして、40歳になった1907年に当時は26戸しかなかったという東京府北多摩郡千歳村大字粕谷(現・東京都世田谷区粕谷)に移住し、半農生活を始めます。

西郷隆盛の書道の師「鮫島白鶴」の書を掲げる梅花書屋

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1909年に松沢町代沢(現・世田谷区)の売家を取得し、自宅敷地内に移築し、梅花書屋と名付けます。
名は西郷隆盛の書道の師「鮫島白鶴」の書に由来しています。

幸徳事件で幸徳秋水らの助命を嘆願、秋水書院を建てる

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1911年、社会主義者や無政府主義者を弾圧する幸徳事件の際、幸徳秋水らが死刑を宣告されたことを受けて、冤罪であるとして、兄・蘇峰を通じて首相の桂太郎へ嘆願、さらに明治天皇宛の嘆願書を『朝日新聞』に送るも、幸徳秋水らが処刑されてしまいます。

蘆花恒春園内には「秋水書院」がありますが、これは蘆花が烏山にあった古屋を買い取り移築したもので、建前を行ったのは1911年1月24日は奇しくも、幸徳秋水らの処刑日だったそうです。

1億円をかけた世界一周

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1918年、粕谷の自宅を「恒春園」と命名。
由来は台湾の南端の恒春半島にある恒春という地名に由来。
恒春に蘆花の農園があると聞いて、頼み事をしてきた人がいて、縁起が良いということで、「永久に若い」という意味を込めて、その名をつけたそうです。

その年に夫婦でエルサレム巡礼と世界一周の旅行に出かけますが、かかった費用は現在の価値に換算すると1億円ほどだそうです。

死去とその後

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1927年に心臓発作で倒れ、伊香保温泉で療養します。
電報を受けて訪れた兄・蘇峰と死の直後に和解し、他界。

粕谷の自宅は妻・愛子が東京市に寄付して、現在に至ります。

参照

徳冨蘆花
横井小楠
徳富一敬
大江義塾
新島襄
山本覚馬
蘆花記念公園
「蘆花・独歩ゆかりの地」碑
浪子不動
逗子の文学碑
不如帰 (小説)
大山捨松
トルストイ
戦争と平和
ヤースナヤ・ポリャーナ
蘆花恒春園
国木田独歩
鮫島白鶴
大逆事件
幸徳事件
幸徳秋水
恒春鎮
徳冨蘆花記念文学館

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