見出し画像

シュリーマンと将来の夢と本が教えてくれた、未来は自分で作れる話

私の育った環境
幼少期から本が大好きだった。というよりも、鼻が意識せず空気を求めるように、目が活字を求めていた感じだろうか。
両親が読書する姿をみたことが無い。だから子供に本を買い与えることも無かった。近所の幼馴染の家に遊びに行くたびに世界童話全集や日本の昔話を読み、小学校では図書館で毎回上限の冊数まで借りては読み、借りては読みを繰り返していた。

小学校時代のバイブルはドリトル先生で、何度借りて読んだだろう、将来、自分もドリトル先生のように旅に出る!と思っていた。ちなみ、あこがれの人はムーミンに出てくる自由人のスナフキンだった(笑

無論、一般的に児童書と言われる若草物語や赤毛のアン、メアリーポピンズや筒井康隆や星新一などの日本人作家の児童書も色いろ読んだが、ドリトル先生の次に好きなシリーズは伝記だった。
キリストやエジソン、キューリ夫人、織田信長や野口英世などの世界の偉人のシリーズがお気に入りだった。縁側に十姉妹の鳥籠を出していると裏山から降りてきたイタチに襲われるような九州の田舎で育ち、歪な家庭環境と子供心にも世間の目という無言の同調圧力のようなモノを感じて育つ中で、本の中には自由な世界があり、伝記の中の偉人達には強い意志と行動力があって魅力的だった。

幼少期から母の実家に預けられることが多かった私は、大人の中で育ったことが影響しているのか、冷めた目で大人の世界を眺めることがあった。幼稚園の頃5才にしてこんな子供と遊べない、と思い登園拒否をする子供だったし、理屈っぽいマセた子供だった。

大人達の社会に対する愚痴を聞いていると、なぜ自分で行動を起こして解決しようとしないんだろう、と思っていたし愚痴ばかり言っている大人、特に両親に対しては批判的な眼差しを向けていた。

父は大変感情的な人で、自分の価値観に添わないモノに対して強力なモラルハラスメントを発揮し家庭内弾圧(DV)をする人だった。病弱な母は起きている間中、私に愚痴を言い続けた。
父は特に私の行動がイラつく事が多かったようで、いつも父と衝突した。
家の中でずっと本を読んでいると、父は本ばかり読んで勉強しないないなら要らないだろう、と教科書を庭に投げ捨て、私は雨あがりで湿った庭土が付いた教科書を泣きながら拾った。子供の頃から複数本を同時に読む癖がある私は、子供部屋と居間では違う本を読み、居間に読みかけの図書館から借りてきた本を置いていると、破られそうになったこともある。また縁側で本を読んでいる私が気に入らなかったのか、父に左足にたばこの吸い殻を押し付けられた、それも2度だ。今なら児童相談所が出てきてもおかしくない話だろう。。

 私は父に服従する子供では無かった。
何でこんなことをするのか、と父に食ってかかり、決して泣いて部屋に引きこもることなどしない、戦う子供だった。
そんな父と私の戦いが日常茶飯事に起こり、父が不在の時は父に対する愚痴ばかり言い募る母は、戦いが起こる度に、あんたのせいで、家の中が揉める、と私を詰った。母はそういう人だった。

 父の感情的な言動は、2022年の今なら子供を保護の対象にするようなレベルだと思う。一方、母は自分が愚痴を聞かせ続けることが子供に精神的な苦痛を与えているか振り返ることが無い、身勝手な側面を持つ人だった。
そんな母の状況に対して、解決方法は父と母が離婚することだ、と考えた私が、母に離婚を勧めたのは9才の時だった。
しかし母の答えは、この家をでてどうやって生きていくの、だった。

離婚しなかった母は、その後も父への愚痴と病弱で不幸な自分の境遇を私に繰り返し話し続けた。
父は出勤時には母に足を突き出し、靴下をはかせて貰わなければ気が済まない。日常生活で他者に感謝する姿を見たことが無い。祖母たちにも横柄な態度を振り撒き、モラルハラスメント・DVを家の中で繰り返し、外で起こったうっぷんを晴らす内弁慶男だった。しかし母が愚痴を言い続けても父が変わることは無い、私が疲弊するだけだ、しかし母はそこに気づかない。

母に離婚を勧めた数年後、母の病状が悪化していた。しかし母は昼間寝ていても父が帰宅する時間になると布団を畳んだ。寝てればいいのに、と私が言うと母は決まって、お父さんの機嫌が悪くなるから、という。事実だった。
10才の時、母が長期入院をした。その時の入院が子宮癌だったことを聞いたのは、母が亡くなり私が成人した後だった。母は子宮を全摘出したことでホルモンバランスを崩して相当に辛かった、とその時知った。

高校に入った頃、母にこの家を出て一緒に死のう、と言われたことがある。妹はどうするの?と尋ねると、あの子はお父さんと上手くやれるから、と母は答えた。
確かに、妹には早く帰って、あんたが虐待されてあと自分に回まってくるのが嫌だから部活すると私に言ってのける立ち回りの良さがあった。
父は怒りに任せて、熱い急須を投げつけたりたばこを押しつけることは妹にはせず、母も始終愚痴を妹に聞かせることはしなかった。二人の行為は全て私に向けられていた。
振り返って、母は妹のような立ち回りの良さと愚痴を全部引受けることを私に求めていたのだろうが、私は立ち回りの良さとは無縁な思考の持ち主だった。もし母の要望を分かったとしても、要望には応えなかっただろう。

死にたいなら一人で死んで、私は嫌。と母に答えた。母は家を出なかった。

それから、母が自殺していたらどうしよう、と毎日家に帰るが憂鬱だった。母と心中するのは嫌だし、自殺死体の第一発見者になるもの嫌だった。
母にとって私の命ってなんだろう、とも考えた。
答えはでない。ただ母をそこまで追込んだのは、感情の抑制が出来ず、強烈なモラルハラスメントでDVを繰り返す父、という事実だけがあった。

だから、当時の私は母と心中するのは嫌だけど、父と刺し違えてもお互い死んだ方が良いんじゃないか、と毎日考えていた。そう1万回くらい考えた。
そうすれば、父の保険金と貯金で母と妹は穏やかに生きていけるハズ。。

家を離れてから、何度も当時の状況を振り返った。
現在でも日本には女はこうあるべき的価値観が根強いけど、当時の九州の田舎の価値観の中で、病弱な母は出戻りで実家に戻ることも子供を抱えて自活することも考えられなかった、そして生活保護は恥ずかしい、という人。
私にとっては居心地の良い母の実家であっても、母は何もしてくれない、と常々祖母を詰り私だけでは無く、母の友人達にも愚痴っていた。
冷めた目で、自分の人生を切り開く意思を持たない哀れな母、と思っていた。この頃から自分の将来は自分で切り開く、とうっすら意思を持った。

まあ、今では父と母はある種の共依存だった、と理解しているんだけど。

将来の夢
一方で、女性が置かれている環境が子供をも犠牲にする、と感じていた私は小学校三年生の9才の頃政治家になろう、と思った。女性と子供が置かれている環境を変えるには政治しか無い、と考えたのだ。だから、政治家になると決めた日から、社会のことを知るために新聞の記事は全ページ・全文字読もうと決めた。毎日、隅から隅まで新聞を読んだ。
1年ほど続けた時、国会中継を見た。驚いた、エリートのはずのいい年したオジサン達が、ヤジを飛ばし続け詰りあっていた。
なんて下品な、、。と子供心に思った、で、あっさり政治家の夢を捨てた。

独立した当時、時間はたっぷりあるがクライアントがいない状況で、2つの政策学校に通った。9才の頃の思いがちょっと疼いた感じで。

政治の世界を垣間見る機会は勉強になったが、長いものに巻かれる能力が欠けサラリーマンの能力が無い、ことに気づき独立を選んだ私には、政治の世界は長いもの巻かれなきゃ生きていけない世界で、自分に一番向いていない職業だと学んだ。

次の夢は10才の小学校四年生。小説家になろう、と思った。
ペンは剣より強し』というし、小説や文章を書き続け発信すれば、世の中が変わるかも知れない、と考えたのだ。
振り返っても、小学生ながら革新を求めたのは、叔父の本棚の本の影響かも知れない。
小学生なりにノートに短編の物語を書き続けた。
家や放課後の時間に、病気になったバレリーナの物語など、思いつくままに書いた。16才の時にはペンネームも考えた。
スナフキンやドリトル先生のように旅をして、小説やエッセイを書く生活がしたい、と思った。
この夢はまだ諦めていない、経営者としての役目を果たした後には、と未だに心の底に夢は眠っている(笑

そして次の夢は12才小学校六年生の時。考古学者になろう、と思った。
シュリーマン物語を読んで感動したのだ。少年時代トロイの物語を読んだシュリーマンが人生の全てを賭けて発掘の夢を実現する。
わくわくドキドキした!!
古代人が生活した歴史と何らかの叡智が眠っているかも知れない遺跡の発掘。考えるだけでわくわくした。
考古学者なら旅にでて、人類の歴史とロマンを感じ、小説やエッセーに書くこともできる職業じゃないか、これまでの夢が全部叶う。

しかし考古学の道に進むことはなく、知っている人が殆どいないニッチな店舗開発という職種を経営コンサルとして育てる、という超絶ブルーオーシャンに飛び込み、右往左往しながら足掻く道を選んだ。

会社員として最後の会社の退職を決めた時、暫くは旅にでるとこはできないだろう、と思った。異国で異文化の空気や風を肌を感じることは自分のアイデンティティを再確認するために欠かせないけど、独立後の事業の足固めができるまでは、旅は封印するしかないなあ、と。だから退職を機に会社員卒業旅行に行こうと思った。

行先はトルコ、シュリーマンが辿り着いた世界を見に行くことにした。
そして初めて、ツアー形式の旅行に参加した。

四半期90日で75日出張するような会社員生活を送ってきた私は、国内外の旅の殆どが一人旅だった。LA在住の友人の家を拠点に1人でグランドキャニオンやメキシコへ旅した時には、友人にその語学力でその行動力はある意味スゴイ、と驚かれた。
大切なのは好奇心!と事前情報収集、危ない場所は避ける!それが旅の信条

退職を前にトルコの情報を収集していた時、大学時代バックパッカーで世界を回っていた友人が、トルコの移動は長距離バスが主流で電車は無いし、世界遺産同士は離れてるし、英語も通じないところが多いから、初めて行くならツアーを使った方が良いと思う、とアドバイスしてくれた。

 超絶方向音痴な私が間違って違う長距離バスに乗ってしまったら、と想像すると心が冷たくなった。。
で、4つの世界遺産を回る8日間ツアーに参加することにした。
初めてついでに、トルコ旅行を話したら興味を持った会社の同僚も一緒に参加した。ツアーの一人部屋は割増し料金が高額だから、トルコ旅を実現できた同僚とWINWINだった(笑

友人のアドバイスは本当に正解だった。
ツアー移動は修行かと思うほど過酷だったのだ。ランチ時に移動の過酷さに日本人ってこんなツアー作るから真面目よね、って参加者同士で語るほどに。世界遺産から次の世界遺産に移動が、朝5時起きで仙台から大阪まで移動するくらいの距離を移動する日もあった。
1人旅なら絶対諦める移動距離だった。。
過酷な移動を乗り越えた8日間のツアーの最終日、ツアーの1人が、みんな頑張りましたね!って言うと、そこにいた全員が頷き、妙な連帯感さえできていた。

ツアーの行程は過酷だったけど、行ってよかった。
期待値の高かったトロイの馬については、語るまい(笑
パムッカレでは温泉を愉しみ、野外劇場は一瞬息を呑む素晴らしさ。
イスタンブールの街並みは遺跡と混然一体としてエキゾチックであり、宮殿は美しい。イスタンブールの街はいつか再訪して、ゆっくり街を味わいたい。
カッパドキアでは独特な地下文化と景観を愉しみ、オプションで気球から朝焼けを鑑賞する体験もわくわくな思い出になった。

カッパドキアで写真を撮っていたら、現地ガイドさんが『写真に人物を入れると思い出になり、人物を入れず景観だけの写真は芸術になる』という素敵な話をしてくれた。
現地ガイドさんは、トルコの首都アンカラにある大学の先生だという。日本に留学経験があり、バスの移動中に寝ている人がいると『白河夜船ですね』と話すほどの日本語力、スゴイ!
で、大学の先生がツアーのガイドをしているというのも驚きだった。当時の日本円は強かったのね。

あの日のカッパドキアから、ずっと芸術になるべく写真を撮りつけている。vita brevis, ars vero longa  この先芸術の域に辿り着くのか分からないけど、未だ精進中だ。いつか、芸術に近づく写真を撮りたい。

未来は作れると信じている
私の幼少期から高校時代の生育環境や両親のことをカウンセラーの友人達に話すと、よくグレなかったね、と言われたことが幾度となくある。正直、トラウマ克服には随分時間が掛かった。

田舎では進学校と呼ばれる高校に通っていたけど、教師と教育制度に疑問を持っていて足が向かず、朝、家をでると行き場を探して通学途中にある古墳や貝塚のある田んぼの小川なんかでボーっ、として過ごした。
2学期の遅刻の回数が100回を超えたけど欠席はしなかった。
出席数が足りなくて追試や卒業できないのは面倒だし、グレても将来の自分にデメリットになるだけ、という自覚があって、点数はどうあれ試験はちゃんと受けたし、同じように親子問題で悩んで万引きを繰り返してグレかかっている同級生の仲間には誘われても入らなかった。

振り返って、何がセイフティガードになったんだろう、と何度か考えた。
ひとつは本があったからだと思う。
本は、私が置かれている環境が普通ではなく、自分が求めれば世の中にはもっと違う世界があることを教えてくれていた。
父が不在の時にはさんざん悪口を言う一方で、私が父を批判すると手の平を返し父を批判しちゃダメ、と手のひらを反す大人を信用していない子供だったけど、本は裏切らなかった。

そして、家庭環境には救いが見えなかったけど、母の実家では、曾祖母たちが無条件で受入れてくれた。私にとって唯一の安全基地があった
10代で母が他界したあと、あなたのお母さんが生まれた場所だからいつでも帰ってきなさい、と言ってくれたのは祖父母だった。

今回のコロナ期間と新規事業の準備で本棚に入りらない本たちがリビングの床に積まれ獣道ができた。そのリビングで、この note を書けることが幸せだと思う、今家庭環境で悩んでいる人がいたら大丈夫、未来は自分で作れると伝えたい







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?