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ただの生き物を尊重しているか? ただの草とただの虫


<ただの生き物を尊重しているか? ただの草とただの虫 >

自然農や有機栽培について勉強に励む人に限って実は多くのことを勘違いし、ドツボにはまっていく。

たとえば、害虫対策のために益虫のことをたくさん勉強し、コンパニオンプランツをたくさん混植する人がいる。残念なことにそんなことを熱心にする人に限って、害虫はいなくならない。そうやって専門的な知識を身につけていくこと自体は、間違っていない。しかし、専門性を深めると必ず視野が狭くなってしまうのだから、視野を広くして自然の摂理に戻って考える必要がある。

それはどういうことか。まず、自然農の畑のような生物多様性が完成している環境には益虫と害虫はどのくらいの割合でいるか、あなたは知っているだろうか?どこで講座を開催していても、これを正確に言い当てられる人はいない。

正解は「益虫2:害虫1」である。しかしこれでは、益虫の方が多ければすぐに害虫は絶滅するし、益虫もそれによって絶滅する。だからこそ、ここで視野を広くする必要がある。

本当の正解は「益虫2:害虫1:ただの虫7」である。自然界には野菜にとって害虫でもない益虫でもない虫がたくさん居て、益虫の餌になっているどころかせっせと雑草やその種子を食べてくれている。

農学という専門分野では人間にとって都合が良いか悪いか、つまり野菜にとって益虫か害虫かを分類し、それぞれ増やすためには、減らすためにはどうしたら良いのかという研究がされる。そのどちらでもないただの虫は研究対象にはなり得ない。こうして専門性を高めることが視野を狭くしてしまう。

私の実践と、過去に見学させてもらった畑の観察から思うのは、自然農の畑にはただの虫が多いということだ。そして、害虫忌避のコンパニオンプランツや益虫を増やす工夫は多くない。むしろ、全然していない人もいる。これはとても不思議に思える。

私の仮説はこうだ。あるフィールドに生息できる虫の総量(バイオマス)は決まっているのではないだろうか。だから、害虫を減らし、益虫を増やす工夫よりもただの虫を増やす工夫をした方が益虫も減るが害虫もそれに応じて減るというものだ。つまり害虫の被害そのものも減るし、益虫を増やす工夫も最小限で事足りる。

では、ただの虫を増やすにはどうしたら良いのか?それもまた簡単で、ただの草を増やすことだ。つまり雑草である。草と虫の関係はとても密接で、限定的だ。ある虫が食べる草、つまり食草は限られている。だから、野菜にしろハーブにしろ雑草にしろ、さままざまな科や種の植物を植えたり、生やしておく。植物の多様性はすなわち虫の多様性を生み出す。それは同時に大型の動物の多様性も生み出し、最強の雑食動物である人間も育むに違いない。

パーマカルチャーの食べられる森や食べられる庭のデメリットはこの部分にあると思う。人間の都合だけを考えてしまうと、生物多様性は制限される。人間がもし生物多様性ピラミッドの頂点に存在するのなら、下層の生物をいかに種類も総量も増やすかが、これから生き残るポイントだろう。

もっと視野を広くすれば、すべての虫は食べると同時に最高の肥料であるウンチを出す。このウンチこそが自然農の土である団粒構造の土である。だから、ただの雑草はただの虫によって最高の土に変化する。さらに、ただの雑草の種子もまたただの虫の餌となり、最高の土となる。だから雑草の種子もつけさせておく。

そればかりじゃない。植物は役目を終えた葉をわざと害虫に食べさせる。自分自身で害虫を呼び寄せるフェロモンを飛ばす。それにおびき寄せられた虫は黄色く染まった葉をめがけて飛びつく。そして、食べる。そう、これまた最高の土を大地に落としながら。植物はこの養分を追肥代わりに新しい茎葉を伸ばしていくのだ。だから、自然農の畑では害虫が全くいないわけではない。居たとしても葉が食べられていたとしても、何の問題もなく元気に恵みを分けてくれるのだ。

そもそも農業界で定義する害虫の定義もまた視野が狭すぎるばかりか、循環の自然界では一時的な役割に過ぎないのだ。自然農の先駆者・福岡正信さんが言い続けていた「無」とはまさにこのことだろう。人間の目線ではこの世の全ての生命を理解することはできない。それはどんなに西洋科学が発展したとしても、だ。

人間はいまだに理解できない生き物を「ただの生き物」と呼んでいるに過ぎない。そのただの生き物も私たちと同じ「一つの生命」として尊重し、共生することが生物多様性だということを忘れてはならない。

人間の都合である良いと悪いは、自然界では全く通用しない。そんなものは自然界にはたった一つもないのだから。人間の脳の中だけにある欺瞞なのだ。

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