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それって本当に問題なの?



畑の哲学<それって本当に問題なの?>

畑をしているとイノシシやアナグマなどがやってくることは多い。そして、その獣害についての相談も年々増えてきているように思える。イノシシやアナグマは強靭な鼻を使って土の表面を掘り起こしていく。せっかく綺麗に整地した畝が荒らされていってしまう。

以前、初めて畝を立てたエリアにアナグマが毎日のようにやってきた。彼は私の目を盗んでは畝の上を探っていく。私はせっかくキレイに整えた畝が荒らされることでざわつく心を落ち着かせながら、観察することにした。

彼はおそらく耕すことで土表面に出てきたコガネムシの幼虫やミミズを探っているようだった。彼が去った後の畝の上を見て驚いた。なぜなら、定植したばかりの野菜やハーブには全く見向きもせずに、荒らしもせずに、もちろん食べてもいなかったのだ。

だから私はその凸凹を整地することもなく、ただそっとその上に草マルチを敷いて様子を見ることにした。すると野菜やハーブはどんどん大きく成長していった。さらに彼らが凸凹にしたところに雑草はまるで生えてこなかったのだ。梅雨時に湿気が強くなるそのエリアはこまめに草刈りと中打ちが必要だったにも関わらず、その年は一度もすることなく、無事に収穫期を迎えた。まるで彼らは私の動きに合わせて、手伝いに来たのではないかと思うほどに完璧な野良仕事だった。

他の生き物と違って現代人は畑を自分の所有物だと考える。だから、他の生き物が入ってくることを拒む。「荒らされた」と受動的な表現をする。大地を切り刻んで所有することも売買することもこの数百年の先進国の人々だけがしてきたことであって、多くの先住民族はそういったことをしない。大地はヒトが所有するものでもなかれば、ヒト以外の生き物には「所有」の概念そのものすらない。

私たちはよくクマやイノシシなどの大きな動物に対して「本来臆病で平和的な生き物」というような表現をする。しかし、私の知っている限りこの地球に生息するほぼすべての生物が「臆病で平和的」である。悲しいことに現代人つまりホモ・サピエンスの一部だけがその逆であるように思える。

病原菌、害虫、害獣とレッテルを貼り、徹底的に排除し、殺戮する。他の生き物はときに戦い、ときに捕食するがそれは必要最低限であり、命に変えるための捕殺である。イノシシは江戸時代にも狩猟対象であり、排除対象でもあった。壱岐島では島民総出で駆除し、ついには絶滅に成功している。

それはヒト以外との生き物の間だけではなく、ヒト同士の争いにおいても、源には所有の概念がある。現代人は物事の本質から目をそらし、すぐに宗教や資源の話にするが、実際のところ頭の中にある概念が排除や争いの本源である。

自然界においてのテリトリーつまり縄張りはあるようでなく、ないようである。常に縄張りは動的であり、可変的であり、身体的なものだ。だから彼らは常にテリトリーに気を配り、臭いを残し、徘徊する。

私はヒトにおいての縄張りは「足が運べる、手が届く、心が配れる範囲」だと説明する。その範囲は決して線で区切れるものでもなく、一度決まったら変化しないものでもない。それは他の生物においての縄張りと同じで動的であり、変化し続けるものであり、常に「いま、ここ」でしか通用しない。

もし、他の生物との間に縄張りを主張するなら、ヒトのルールではなく、彼らのルールに合わせる必要がある。つまり、あなたは自分の縄張りを主張するために「足を運び、手を入れ、心を配っていく」必要がある。そうやって彼らとコミュニケーションをするのだ。ヒトの痕跡が彼らとのコミュニケーションツールである。

彼らには所有の概念の象徴である地図も法律も道徳も通用しない。そんな当たり前のことを忘れて、電気柵や罠を用意している。

イノシシやシカなどの害獣が現れて騒ぐ人たちに「それって本当に問題なの?」と聞くと彼らは口ごもる。彼らの頭の中では野生動物たちはどこからともなくやってきて、無条件で人間の邪魔をする世界観が占めている。それはまるで害虫と同じように。ファイナルファンタジーなどのゲームや西洋映画のモンスターの世界観だ。

現代人は問題に直面するとすぐに解決しようとして、小手先の技術に頼る。するとその技術は新しい問題を生み、そしてまた違う小手先の技術に頼る。この悪循環の繰り返しが現代社会である。ハブにマングース、野ネズミに殺鼠剤、病原菌に抗生物質などなど。

特にビジネスの世界でよく見られる。だからビジネスは、口では「ビジネスは問題を解決する」と強く宣言するものの、実際には問題が問題を生み続けて、経済規模は大きくなる一方だ。そしてもちろん現代人はお金がないと生きていけなくなってしまった。それがいちばんの問題だろう。

現代人は問題に直面するとその苦しみから早く抜け出そうとして、安っぽい信仰にすがる。すると見て見ぬ振りが上手くなり、いっときの安心感が訪れる。しかし残念ながら問題の本質はそのままだから、形を変えてあなたの目の前に現れる。宗教家は「あなたの信仰心が足りないからだ」と諭し、新しい修行とさらなる献金を求めて、宗教団体はその規模を膨らませていく。そしてもちろん現代人も宗教団体も、問題の本質が解決されないことがそれ自身のアイデンティティーの確立に必要不可欠な条件となってしまった。

パーマカルチャーを実践する人々の間で「Problem is solution」つまり「解決は問題そのものの中から見つかる」という言葉がよく使われる。

問題そのものを注意深く、継続的に観察し、小さな働きかけから相互作用を促し、その観察対象の背後にあるシステムに気がつくと同時に自身の内面との対話を続けるとき、解決のアイデアは自ずと生まれるも。

私たちとその問題は決して各々独立して存在しているわけではない。お互いが深く繋がりあった存在として関わるとき、お互いの変容が同時に起きる。自然界において、鏡の法則とはそういうことである。鏡がなくては自分自身を観察することができないように、鏡に映った自分を変えるには自分自身を変えるしかない。

問題はコミュニケーションの一過程であり、それだけ切り取ってみれば悪いものに見えるかもしれない。しかし、生ゴミがコンポストによって堆肥化され、キュウリに変わるように、それは長い目で見れば善の源でもある。さらにキュウリを食べずにそのまま置いておけば、腐って悪臭を放つが、やはり時間が経てば微生物が分解しきって土となり、新しい生命の糧になる。つまり問題は解決の源であって、解決は問題の源である。

誰もが問題だと思うと「どうしたら良い?どうやったら成功する?」って質問をする。みんな「How to」ばかり追いかけている。

なぜこうなったのかという「Why」に目を向けない。今、ここで起きていることには必ず理由がある。それはあなたにとって都合の良いことでも、悪いことでも同じだ。理由は一つとは限らない。複数の理由が複雑に絡み合っているときもあるし、シンプルなこともある。

今、ここで起きていることに対して評価・レッテル貼りをして、手段に固執している限り、いつまで経っても評価に惑わされ、手段に縛られる。

同じところをぐるぐる回ったり、同じようなトラブルに何度も遭遇する。それは目の前の現象からあなたへのメッセージ(ギフト)を受け取っていないからだ。

今、ここで起きている現象の根っこにあるシステムに気がつくには観察しかない。だけども、観察しているつもりでも解釈や調査している。テレビやインターネットに流れてくる情報は商品を売るための広告に過ぎない。起きる現象は問題でなくては商品を売ることはできない。広告では決して「すべては調和に向かう」「すべてうまくいく」とは教えてくれない。

あなたが問題だと思う現象は決して、解決するために起こっているわけではない。それは必ず何者かとのつながりを深めてくれる。排除しようとするのではなく観察から始めてほしい。

観察のポイントは頭(思考)をせずに、ただ五感をフル活動することだ。さて、あなたはこの話を聞いて、何の話に聞こえただろうか?

これはコミュニケーションの話でもあるし、畑の話にも聞こえるし、人生の歩み方としても当てはまる。


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