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探梅〜見つけることの喜び〜


<観察の極意と感性> 探梅~見つけることの喜び~

松尾芭蕉は梅を見つけるのではなく、探すと詠んだ。
そこにはいったいどんな想いが込められているのだろうか。

探梅という言葉は古来中国の漢詩のなかにも出てくる言葉で、まだ寒いうちから野に入り梅を探すという冬の終わりの季語である。
この季節になると農家はソワソワし始める。もうすぐ田畑を耕し、種まきが始まるからだ。少しずつその準備を始めている。

誰もが春を待っている。それは人間だけではなく土中に潜む虫や動物も、野に潜む獣たちも。
厳しく長く感じられる冬は次第に溶け始めていく。そんな中、梅を探しに行くのだ。

梅は落葉紅葉樹であり、冬の間は葉を落とす。そのため里山は少し寂しく眼に映る。
梅は他の樹木と見分けもつかない。しかし、その枝先がいつの間にか蕾がぷっくらとピンク色に膨らんでいる。少し前まで確かに間違いなくそんな可愛らしい姿は見られなかったのだ。その膨らみが冬の終わりと春の始まりを告げる。季節が混ざり合う美しい瞬間だ。

松尾芭蕉は梅を見にいったのではない。春を探しにいったのだ。
農家でもない人がなぜ、春を探しにいったのだろうか。
いったい季節の変わり目を知ることにどんな価値があったのだろう。

それはあなたも梅を探しに行けば、きっと分かるに違いない。
梅の可愛らしい蕾を見つけるとき、あなたもきっと驚きと喜びと安らぎが混ざったような複層的で表現しきれない感情を抱くだろう。
松尾芭蕉はその言葉にならない感情を俳句におさめた。

生長するとは変化することだ。進化するとは変化することだ。循環するとは変化することだ。生きるとは心の状態が変化することだ。
だから私たちは梅の蕾が膨らむ変化を見つけて、言葉では表現しきれない感情を抱くのだろう。

文化人類学者の岩田慶治は草木虫魚などに宿る精霊をカミ、その文化で役割をに立ったカミを神と分類した。神の役割とは農耕や縁結びなどである。つまり、アニミズムに通じる信仰をカミと呼んだ。アニミズムとは古代から現代にかけて主に狩猟民族の間で大切にされてきた信仰で、ほぼあらゆる場所や動植物、自然現象に意識と感情があり、ヒトと直接思いが通じ合うという信念のこと。ヒトと彼らの存在には障壁もなければ厳密なヒエラルキーもない。この世界はヒトと神の主従関係が中心となって回っているという有神論とは違い、アニムズムではあらゆる存在とヒトがカミを通じてネットワークを築いて世界を彩っている。現代ではアニミズムに代表される多神教は東アジアと世界各地に散らばる小さな先住民族の間にしか残っていない。

古くは、神はカミであったという。そのカミはありとあらゆるものに宿り、いきなり予告なしにあなたの眼の前に現れ、あなたに驚きと安らぎをもたらす事もあれば、災いや罰を通して不思議さと恐れと神秘感をもたらす事もあった。
そのとき、人々はカミを確かに感じていた。カミの受け皿は人々の方にあった。

私はこの時期に探梅をするたびに、その話を思い出す。
毎年毎年、梅を見つけるたびに同じものを見ているにも関わらず、
その美しさに驚き、その気配に心が躍り、その移り変わりに安らぎを覚えるのだ。
たかが1cm程度の小さな蕾。それはまだ咲いていない。にもかかわらず、私はこれからくる春の陽気も景色も匂いも音も感じてしまうのだ。
そして、自ずから心が穏やかに震える。

それは決して春の季節だけの話ではない。
いつの季節にも畑に、野に、山に足を運ぶとき、観察を嗜むとき
私は驚き、喜び、安らぐ。草に、木に、虫に、獣に。
枯草の隙間から萌え出る野草に、月明かりの清流に漂う蛍に、かの山の紅葉の帳に、ゆらゆら舞う風花に。
幼い頃も同じようによく探検をし、眼を丸くし輝かせたものだ。大人や友達に見せつけたもした。
子供達はそれを教える必要もなく、勝手に身につけている。
つまり、この見つけることの喜びは人間に本来備わっている感情であり能力であり性質なのだろう。
私たちはこうして幼い頃の情景を原風景として記憶にとどめていく。

それはアニミズムでいうところの精霊やカミとの出会いなのだろう。
精霊やカミが私の受け皿にビシッとはまったのだろう。
そして、彼らは不思議なことに私たちの味方をしてくれることがある。
説明がつかないからこそ、私たちはその存在を精霊とかカミとか呼ぶのだ。世界的には霊(レイやタマ)やスピリットとも呼ばれるこの存在は物質としてあるものでもないし、ないものでもない。すべてはその流動する存在を感じ取るもの、つまり自身の内側にある受け皿への扉が開いているかどうかだ。言葉にも文字にも表現できないところに、アニミズムの世界の豊かさが隠されている。

中沢新一はこういう。
「霊を見ることはできない。五感が知覚することもできない。なぜなら流動する霊は、五感のなかで、五感をとおして活動しているから、五感がそれを対象化して、とらえることができないからである。~中略~」
生命のあるところ、動き、流れ、増殖し、変化していく『なにもの』かの実在を、人間は自分の生命システムの深い階層で、はっきり知ることができる」

あなたはその受け皿への扉を今もまだ開いているだろうか?
あなたは石を、草を、木を、虫を、獣を見つけていったいどんな感情が湧いているだろうか?
古来から日本人は生命も非生命にも、同じものを感じ取っていた。現代の量子力学が原子レベルで生命にも非生命にも「振動」があることを明らかにしている点が興味深い。

生命も非生命も人間の都合で、人間たちの利益のために見ようとするのではなく
松尾芭蕉のようにただ純粋に見つけることを楽しめたら、きっと彼らの声を聴くことができるのだろう。
彼らの存在を感じながら、農に携われるのだろう。私はそんなことを考えながら、今年も梅を探し、心を穏やかに震わせる。

さぁ、春を探しに野を歩こう。

~今後のスケジュール~

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