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虫は無視せずに、話を聴こうじゃないか


<虫は無視せずに、話を聴こうじゃないか>

面白いことに世界では日本人とポリネシア人だけが虫の鳴き声を「声」として認識しているという。虫や動物たちの声や自然音は母音に酷似していることから、日本人はその音を左脳で「言語」として認識してしまう。日本語とポリネシア語の特徴は母音を中心としている。代わって他の国の人たちは逆に右脳で音として処理し、母音をカットしてしまうために、虫の鳴き声を「雑音」として認識しているという。世界の多くの言語は子音が中心である。

つまり、日本人にとって虫は音ではなく声を出しているように聞こえ、外国人にとっては声ではなく雑音を放っているように聞こえる。海外にも動物の鳴き声を表す言葉はあるが、虫の「ミーンミン」「チンチロリン」「ブンブン」といった表現をすることはほとんどない。童謡「虫の声」にはチンチロチンチロの松虫、りんりんりんりんの鈴虫、キリキリキリキリのコオロギ、ガチャガチャのクツワムシ、チョンチョンチョンチョンスイッチョンのウマオイなど多くの虫の声が出てくる。

これはおそらくどんな生命にも魂があると考える日本仏教、すべてにカミ(八百万の神)が宿っているというアニミズムとその流れをくむ神道という森羅万象を尊ぶ自然思想が根付いているからだろう。つまり、「一寸の虫にも五分の魂」である。ヒトが死んで虫に生まれ変わるという話は日本仏教の説話の中でもよく見られるし、虫の声を聞いて危機を脱する民話も数多く存在する。

日本語の「おとずれ」とは神の「音なひ」(音、響が聞こえてくる様子や気配のこと)が原義である。つまり神様が自分の所在を知らせるためにかすかな音を立てることが「おとなひ」であり「おとずれ」だった。

「尋」の漢字は右手に祝詞を入れる箱、左手に祈りのための呪具を持っている姿で「神様はどこにいますか」と神の居場所を尋ねている姿を現している。また「訪」という漢字は四方各地に向かって神様に神意をはかることを意味している。

日本人は神様の意思を音で知ろうとした。だからこそ「虫の知らせ」は特に重要なメッセージだったのだ。また「虫」まつわる慣用句のなかには自身の体内に虫が住んでいるような表現が多い。たとえば「虫の居所が悪い」「虫酸が走る」「塞ぎの虫」「虫が好かない」「疳の虫が起こる」など。自分の身体で起きていることを虫たちが知らせてくれるかのように表現していることが面白い。

たとえ、小さな虫であっても彼らの半分の五分は魂からできている。だからこそ、私たちに人間の魂を震わせることもできるのだ。そして、魂があるからこそ鎮魂することもできる。

古来から虫の被害は災害であると考え、儀礼を通して納めようとしてきた。自身の行いが災害を呼び、恵みも呼ぶものと考えてきた。そして、日頃から虫を通じて神意を確かめ、自身の行いを反省してきたのだろう。古来の日本人にとって虫はどうすることもできないものではなく、対話できる存在だったのだ。いつの頃からか、虫はどうすることもできないもので駆除するしかないものになってしまったのは、どうしてなのだろうか。

虫を観察するコツは3つある。ひとつは彼らの目線に合わせること。つまり、しゃがむか座る。次に動かない。人が動けば益虫・害虫関係なく彼らはどこかに去っていってしまう。最後に喋らない。人間は言葉を使ってしまうと頭ばかり動いてしまって五感からの情報に注意を向けられなくなってしまう。

こう書いて見ると、現代人にはできないことばかりだ。畑に座り込み、何も作業せずに、ただじっと黙っている。そんな光景を通りすがりの人が見れば、怪しむか笑うかどちらかだろう。

しかし、多くの自然農実践者はこの時間を大切にしている。こういった時間から気づきを得て、自然界の摂理にたどり着いた話を良く聞く。「無の時間」とは無意味な時間でも無益な時間でもない。「無」だからこそたどり着くところがあるのだ。

職人たちは決して虫の鳴き声を人間の言葉に変換しているわけではない。虫がつくにはそれなりに理由がある。一般的に害虫と呼ばれる虫たちが活動しにくいように環境を整える。益虫たちが活動しやすい環境を整える。特に小さな虫は風を嫌う。そのために虫を観察し、風を観察し、周りの草木に手を入れる。だから、風の音も聴いてもらいたい。

虫がそこにやってくるには訳があり、それは人間のケアによって改善されるものだ。彼らはこちらの言葉を理解することはない。私たちが彼らに寄り添う必要がある。寄り添うとは気持ちの話ではなく気持ちのこもった行動である。

また、虫たちはいきなり一斉に現れることは少ない。少しずつ増えていく。だから、ちょっとした虫の出現に注意を向ける。そして、早め早めに対応していくのだ。ものごとは小さいうちは変化させやすい。大きくなってから変化させるには時間も労力も大きくなる必要がある。気づきが遅くなれば、対応が遅れ、回復も遅くなる。ゆっくり小さな変化による解決を心がけよう。

野菜たちは虫に翻訳してもらって、私たちにメッセージを送ることがある。ものすごく簡単にいえば「いま、心地よくない!」というメッセージだ。養分過多、水分過多、風通しの悪さ、天敵の少なさが主の要因だ。その野菜にとって最適な環境ではないことを虫に翻訳してもらっている。だから、その野菜にとって心地よくなるように手を入れて環境を整えていく。そうすれば、虫は自ずと少なくなっていく。

古来から日本人は音のなる様子で神様を知ろうとした。柏手(かしわで)もその一つであり、風鈴なども含まれていた。もちろん、音は決して虫の声だけではなく、草花や鳥、獣たちからも受け取っている。

人間だけが言葉によるコミュニケーションをしている。他に生き物の多くは音でコミュニケーションしている。音はメッセージであり、意味である。もちろん、私たち人間も音でコミュニケーションをする。日本の祭りには囃子が必ずあるし、音楽を奉納することもある。そうやって神様とコミュニケーションしてきたのだ。

現代になって、私たちの身体にはたくさんの微生物が住んでいることがわかってきた。その中には原虫類と呼ばれるごく小さな虫たちもいる。ついつい寄生虫と呼んで怖がったり、駆除したくなる。

もしかしたら、本当に彼らは私たちにメッセージを送っているのかもしれない。昆虫と同じように彼らに操られているのかもしれない。もしそうだとしたら、まずはやはり観察が必要なのかもしれない。そして、彼らからのメッセージの真意を汲み取ることができたら、もっと生きやすくなるのだろう。


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