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鳥の声を聴け


<鳥の声を聴け>

「天気と道のことは、鳥に聴け」

これは山小屋の師匠が俺に教えてくれた唯一の言葉にしてくれた教えである。今思い出しても、その教えは全くもって非科学的である。

登山家たちにとって天気予報と雨雲レーダー、そして地図は遭難や事故に遭わないための相棒であり、要である。

天気を読む技術と地図を読む技術は高山地帯や原生林のように過酷な環境を旅する人たちにとって命の関わる。

しかし、生まれた時から山小屋で暮らし、幾度もの遭難事故の救助で活躍した当時70歳を超える師匠は大真面目に、

「いいか。天気と道のことは鳥に聴け」と私の目をまっすぐに見つめて言った。
その目の色から私はこれは冗談ではなく、本気なのだと悟った。

それからというもの、私は意識して鳥の声を聴くようになった。山にいるときも里山で暮らすときも、彼らの声に耳を傾けて過ごした。だからといって、特別に何かを学んだことはなかったが。

アメリカのジョンミューアトレイルを旅した時の話をしよう。
標高4000メートル級の峠越えで突然の雹と雷に遭遇したとき、私は大きな岩陰に隠れて地図を広げた。
あと30分も峠方面に登っていけば、避難小屋がある。しかし、森林限界を超えたその道に雷が落ちるとすれば私しかないが歩く時間は短い。そして峠方面の雲はどっしりと重い灰色をしている。

逆に来た道を降りていけば1時間で森林地帯に入ることができる。そうすれば体力を使わずに、雷も雹もを避けることもできる。問題があるとすれば歩く時間が長いということだ。

私は大いに迷った。どちらもそれなりにリスクがあり、メリットがある。登山の定石で言えば「動かないか山を下る」だ。しかし短時間で避難小屋を目指すのも悪くない選択だ。

あなたならいったいどうするだろうか???
どんな情報を元に、どんな風に判断するだろうか。

いっこうに弱くならない雹と、目の前で轟く雷。
当たり前だがGoogle検索しても答えなど出てこない。
(むしろこのときにスマホの電源をつけるとスマホに雷が落ちるので要注意)

大きな岩陰から覗くように空を見る。雲は相変わらず暗く、雷の光音がとどく。どうしたら良いかなんて分からない。どの選択をしても事故に遭う可能性がある。だから選択したくない。それでも動かないでここで待つにしても寒すぎるし、ひとりで待つのは怖い。

そのときだった。小さな鳥が二羽、私の頭のすぐ横を通り抜けて、チュチっと鳴きながら避難小屋のある峠の方に飛んでいった。その方向からその鳥の鳴き声がかすかに聴こえる。

私は山小屋の師匠の言葉と眼をを思い出した。
「よし、峠を目指そう」とすぐに決断した。
そして、重たいバックパックを背負って、避難小屋を目指して歩き始めた。
不思議と一人で歩いている気がしなかった。誰かが隣で歩いてくれているようだった。妙な自信が足取りに現れていた。

きつい勾配の峠越えの道をゆっくり休みながら、登っていく。少し登っては顔を上げて、少しずつ近づく避難小屋を確認する。そのたびに避難小屋の背景の暗い灰色の空は、少しずつ白く青く明るさを取り戻していく。少しずつ雹は雨となり、小雨となり、気にならなくなっていく。空気は次第に緩み、レインコートを脱ぐほど暖かくなっていく。

ついに峠越えの避難小屋にたどり着く。するとそこから見えたのは雲の隙間から光が溢れ出す絶景だった。避難小屋の周辺には小鳥たちが何羽もいて、彼らも絶景を眺めながら踊るように鳴いている。それは私を祝福しているのか、絶景に祈りを捧げているのか、分からないがその姿は美しかった。

この体験からというもの、私は山に行っても畑に行っても、鳥の声で雨が降るかどうかを判断するようになった。そうすると鳥は必ず天気に合わせて鳴き声や鳴き方を変えていることが分かる。これは鳥家(鳥が好きすぎてバードウォッチングや観察を楽しむ人たちのこと)のなかでは常識中の常識だという。

個人的な表現で申し訳ないが、天気が悪くなるときはまるで注意喚起をするかのように鳴く。そして誰も鳴かなくなる静寂が訪れるとすぐに強い雨が降り出す。逆に天気が良くなるときは安心しきって優しく鳴く。

天気予報や雨雲レーダーは最先端の科学である。しかし、地球にあふれている情報をデジタル化する度に微差を省いて行ってしまうために、必ずリアルとの間に誤差が生まれる。
野生動物たちはリアルな情報をすべてまるまると受け入れて判断するから、誤差は生まれない。

それに天気予報はあなたが今いる特定の地点で行われるわけではない。山を越えた隣の集落では雨が降っているが、うちの集落は晴れているということはよくあることだ。

そうなると結局のところ、天気を判断するには「いま、ここ」にある情報を使って判断するのが一番的確となる。だから、昔から百姓たちはその土地限定の天気のことわざを持っていて、伝承してきたのだ。

百姓たちにとって空に見える山と雲は神様であり龍神様である。足元を這う虫も、軒下に巣を作る鳥も、どこからともなく現れる獣もすべてがコミュニティの仲間である。それは彼らの声を聴けば、天気のことが分かるし、それに基づいて働けは実りが多くなるからだ。

だから百姓はむやみやたらに排除したり、無駄な殺生をしなかった。それは仏教を信仰してたからではなく、その思想が先に根付いていて仏教と親和性があったからに過ぎない。

それを非科学的だからといって、排除していってしまった人類は今、科学では「予測不能」の災害に苦しんでいる。しかし、この地球で天気を予測できないのは科学を信仰している人類だけだ。「信じるものは救われるが、信じすぎると呪い」になることがよく分かる。

私の畑にはよくいろんな鳥がやってきて、食事や交友を楽しんでいるのが観察ができる。ときに私がタネを蒔いた野菜をついばんでしまうのだが、私には一抹の悔しさはあるものの、結局のところ、生物多様性のコミュニティを育んでいることに変わりはないのだから、むしろ鳥がいてくれることに安心感を覚える。それに彼らはこちらが縄張りを主張すれば、決して全ての野菜を食べ尽くしてしまうことはない。

私には天気を的確に判断できる能力は残念ながらない。だから鳥が鳴いてくれる環境を作り出して、彼らに手伝ってもらうことにしている。自分には無いものがあるからこそ、それがあるものと繋がれる。それが生物多様性の世界のつながりを生むための基本である。


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