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害虫がやってきたらどうするのか


<害虫がやってきたらどうするのか>農薬を撒くのではなく、環境を整える。

梅雨時になると友達から連絡がよくくる。
「トマトにカメムシがついているんだけど、どうしたら良い?」とか
「かぼちゃの葉がウリハムシに食べられて亡くなっちゃったー」とか
「無農薬でどうやって害虫対策をするのですか?』とも。

無農薬栽培の害虫忌避といえばコンパニオンプランツが有名だが、ただハーブなどを混植すればいいというわけではない。適切な配置に、適切なケアがなければ、メインとなる野菜の成長を邪魔し、弱らせてしまう。そうなれば害虫にとって最高の標的となる。

また、自然農薬という手もある。食品や植物を混ぜてスプレーにして葉面散布する。基本的には害虫忌避が多いが殺虫成分が含まれていることもある。なので一時的な効果は確かにあるが、雨が一度降れば元通りだ。どんな農薬もたった1種の生物だけを標的にすることができないため、生物多様性のバランスを崩してしまう。

どちらにしても根本的な解決にはならない。
表面的な症状を消すことはできても、依存する人はやはりどんどん悪化していってしまう対処療法と変わらない。なぜなら、害虫を呼んでいるのは紛れもなく野菜自身であり、環境そのものだからだ。コンパニオンプランツの香りも自然農薬の効果もそれを紛らわしているだけに過ぎない。

たとえば、虫はトマトの葉とキュウリの葉を見た目で判別することができない。虫はどこからともなく現れるが、まず野菜が出す香りを元に近づいてくる。あなたが道端でカレーの匂いに気がつくような感覚で、におい成分は風に乗って遠くまで運ばれる。

そして、緑の葉に混ざって目立つ黄色い葉に向かって飛びつき、食べられたら食べる。それが無くなれば、近くの緑の葉にも移って弱っているところを探し出し、食べ始める。あなたが家について冷蔵庫を探って食べられるものを見つけ出すのと似ている。間違えても冷蔵庫自身に噛み付くことはないだろう。

自然界では古くなって役目を終えた黄色い葉は虫が食べることで、最高の肥料(ウンチ)となり、いわゆる追肥効果を生み出し、植物はますます成長していく。だから、あえて害虫を呼び寄せて、古くなった葉を食べさせることがある。古くなった不要なものはそれ自身にとってはゴミだが、他の誰かにとっては宝物。それが自然界の循環の秘密である。

また、植物自身が健康ならば害虫に葉を食べさせると同時に毒素を作り出し、まだ健康な緑の葉に送り込んで二次被害を防ぐことができる。
ときに植物は害虫の体内に特別な化学物質を送り込み、その化学物質の香りを元に寄生蜂を呼び寄せ、害虫の体内に卵を産み付ける手伝いをする。こうして害虫が増えすぎないように対策を自主的に講じているのだ。
また、益虫や益鳥を呼び寄せるにおいも同様に自分自身で出すことができるし、菌根菌ネットワークを通じて他の植物たちへメッセージを送ることもできる。

人間と同じように植物にも免疫力と自然治癒力が備わっている。それを引き出してあげるのが自然農の技である。彼らの生きる力を理解して、尊重し、信じよう。

しかし、コンパニオンプランツや自然農薬に頼って、その野菜にとって最適な環境を用意しなかったり、ストレスを除いてあげなかったり、
健康な苗作りを怠ることで、野菜は害虫対策を講じる体力がなくなり、あっという間に虫に食べられてしまう。

つまり、自然農は小手先の道具に頼る対処療法ではなく、野菜の健康を維持する予防医学であり、ストレスを減らし免疫力を高める自然療法であり、そもそもストレスに負けない身体を作る根本療法である。

東洋の医術ではさまざまな手法を用いて「寒熱虚実」の4つの状態に見極め、アプローチする。ものすごく簡単に説明すると、
「寒」は冷えている。
「熱」は熱がある。
「虚」は元気がない。
「実」は過剰にある。
それはそのまま植物にも当てはまる。

「寒」は低温障害。
「熱」は高温障害。
「虚」は要素が足りない(光・風・水、養分)
「実」は要素が多すぎる(上に同じく)

人間は自身の身体のバランスの乱れを症状を出すことで整えようとする。治療者はそのお手伝いをする。患者の免疫力を高め、自然治癒力を引き出す。

代わって植物は浄化を虫や菌にお願いをする。自然農法家は害虫や病原菌を完全に排除するわけではなく、彼らからメッセージを受け取り、植物の免疫力と自然治癒力を引き出すために、少しばかり手を入れる。

何をするのかと言うと例えば、太陽光が当たるように草を刈る、マルチを薄くする。風が通るように草を刈る。水を蓄えるようにマルチを厚くする、土を寄せる。水はけが良くなるように畝間に空気を入れる、穴を掘って水の流れを促す。畝肩に空気を入れる。雑草に余分な養分を吸わせる。

初心者からすれば、何をしているのかがイマイチ分からないばかりか、説明されないと何もしていないように見える。しかし、職人たちはこのような技を使って、野菜に直接手を入れるのではなく、周りの環境に手を入れて環境を整える。虫をコントロールしようとするのではなく、環境を整える。農薬を撒くのではなく、環境を整える。だからこそ、自然農では常に全体を見る必要がある。分断された個ではなく、融合した全体として。

まるで東洋医学が患部に直接手を加えるのではなく、患部から離れたところに手を入れて身体全体のバランスを整えるように。つまり、東洋科学の中庸である。西洋科学的に言えばバランスであり、最適化である。
川口由一さんが自然農を畑で実践していく上でたどり着いた境地こそ、この中庸なのだ。

だから、各野菜に応じて手の入れ方が変わるし、毎年その年の天候に応じて変わる。もちろん、畑の環境や気候、土質によって変わる。
手入れした後に野菜たちからのフィードバックに耳を傾ける。そして、また手を入れたり入れなかったりする。その繰り返しこそ、自然との対話である。

東洋医学でもまた人によって薬の種類も量も変わるし、その後の症状を見て臨機応変に対処が変わっていく。江戸時代の農書「農稼肥培論」(大蔵永常著)には「老農のやっていることは、百穀を診断する医師の仕事である。・・・医師は人の生命を預かる大切な職業であり、農家は万民の生命の元である五穀の生命を預かるこれまた大切な役目を負っている。」また「農業余話」(小西篤好著)には「自分の体をいつくしむように草木を育んでやれば、病虫害にかかることなく豊かな実りとなる。」「よく土地に心を尽くして相応の肥料と手入れを施せば、十分の実りがある。これは農家の薬と言うのがふさわしいが、それは農法が医術に似ているからである。」と記されているのは興味深い。

自然農ではスケジュール通りにマニュアル通りにすることはあり得ない。いつだって目の前の自然を観察し、対話し、変わりゆくなかで中庸を維持するのだ。東洋医学において健康とは個性であるように、職人たちは同じ野菜でもひとつひとつに手の入れ方を変える。

昔から職人たちは野菜を一塊りの物質として見るのではなく、ひとつひとつの生命として見舞う考え方を培ってきたのである。何もせずにほったらかしのままではなく、すべてに同じ作業をするわけでもない。彼らひとつひとつの力を十分に引き出すために、各々に手を入れていく。

そのためには決して植物の力だけではなく、人間の力も必要なのだ。自力100%であり、また同時に他力100%である。この境地に達したとき、人間と自然は元通り統合され、調和した生き方になる。だからこそ、自然と調和した暮らしとは人間が豊かになればなるほど、自然が豊かになるのである。調和には対話が必要不可欠である。対話には観察とフィードバックが必要不可欠である。

あなたは彼らと対話をしているだろうか?
あなたは彼らの暮らしを観察をしているだろうか?
あなたは彼らからフィードバックを受け取っているだろうか?

自然農の畑では虫が全くつかないことを目指すのではない。生物多様性の環境には必ず害虫が存在する。もし害虫が全くいなかったらそれはバランスが崩れている証しである。益虫ばかり増やそうとするとバランスが崩れるように。だから、害虫がいても収穫を得ることを目指すのだ。

自然農の原則「虫を敵とない」とは虫を無視せずに、話を聴くことだ。
話を聴かずには、対話などできやしないのだから。話を聴くためにはまず彼らの目線に合わせて観察すること。彼らを理解すること、尊重すること。つまり、野菜を観察するのと同じである。

自然農では毎年害虫の被害が発生することはあっても全滅したことは一度もない。テントウムシダマシもカメムシもウリハムシもアブラムシもカイガラムシもナメクジもあれもこれも見かけることはあっても、野菜を全滅させてしまうことは絶対にない。対話は時間がかかることはあれども、必ず調和に向かう。それを毎年実感する。


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