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季節行事の農的暮らしと文化 7月 七夕とそうめん

<季節行事の農的暮らしと文化 7月 七夕とそうめん>

お中元とお歳暮は共に、お世話になった方へ日頃の感謝を伝えるために贈り物をする風習で、もともとは人の罪を贖う道教の節日のことだった。旧暦の7月15日のほか正月15日の上元、10月15日の下元と合わせて三元という。
いつのまにかお盆と混同され、祖先の霊を供養するとともにお世話になって人に物を贈る風習になった。関東ではお中元は7月上旬から15日かけて贈るのが正式とされているが、関西では8月ごろに贈る、など地域性がある。

お中元に贈る品で大人気なのが、そうめんだろう。そうめんが出回る季節になると七夕を思い出す人もいるかもしれない。実は七夕行事に食べるものといえば、そうめんなのだ。

そうめんが天の川に見えなくもないが、そうめんのルーツである索餅(さくべい)が魔除けのおまじないとして7月7日に食べられていたことに由来する。またうどんのイメージが強い香川県では半夏生に泥落としの際にうどんを食べる習慣がある。

そうめんには地域によってさまざまなカラフルな野菜が具材が合わさる。この色はたいてい五色で、それぞれ陰陽五行説に当てはめられた意味合いがある。五色は五徳に通じ、それぞれ青(緑)が礼、赤が仁、黄が義、白が智、黒が信である。よくある食材は青がキュウリ、赤がトマト、黄が卵、白が鶏肉、黒が海苔やゴマである。ときにそうめんそのものに色をつけることもある。

七夕伝説と行事が農村化してから、ウリやササゲ、アズキなどがつきものになった。それは初生りの野菜を供えて豊作を祈ることかきたらしい。畑で採れた初野菜は神へのお供えを通してから、みなで分かち合っってほしい。
こと座のヴェーガのすぐ下にある四つの星は瓜畑と呼ぶ地域もあり、七夕の日には1日畑に入ってはいけないという風習が残るところもある。

七夕で飾る鶴は長寿祈願、網飾りは豊作豊漁の象徴、五色の糸は乞巧奠(きこうでん)で供えられたもの。乞巧奠とは裁縫や手芸の上達を願う行事で、織姫が機織りを生業としていたことからあやかっている。
七夕で飾った笹などはかつては川や海に流していた。願い事が天の川まで届くように祈る七夕送りと呼ばれる風習だった。

もともと中国の伝説である七夕。
織姫は中国では織女(しょくじょ)、つまり機織り女。
彦星は中国では牽牛(けんぎゅう)、つまり牛使い。

奈良時代より以前に唐より伝来し、万葉集にも出てくる。
天神の娘織女には棚機を織る女を当てて「棚機つ女」、ときに「織姫」といい、牽牛には当てる名がないので、男の敬称より彦星と名付けた、という。こと座のヴェーガとわし座のアルタイルの二つの一等星で、天の川を隔てて瞬き交わす印象が中国で七夕伝説を生んだ。

日本では古事記に登場する神様を迎えるために織る乙女・棚機女(たなばたつめ)の神話が混ざり合って、七夕の風習が生まれた。
もともと宮中の行事だったが、民衆化が進むと農村では在来からの田の神祭りと合体して、豊作に対する信仰を伴うようになった。タナバタの語源を「田の端」と解く研究者もいる。

本来は七夕はお盆の準備期間として考えられていたため、お墓まわりの掃除や身を清めるために水浴びなどをした。水で清める風習は他の行事や神事にも見られる。
お盆はもともと旧暦7月の話である。七夕は新暦でも7月に、お盆は8月に移った。
日本に新暦が導入されると7月は農家にとって繁忙期であるため、先祖を丁寧に迎えることが難しくなり、次第に旧暦7月の新暦8月にお盆が行われるようになった。季節の行事は暮らしと深く関わっている証だろう。

京都の下鴨神社では7月の後半に、北野天満宮では旧暦の七夕に御手洗祭が行われる。この季節の湧き水はとても冷たく、火照った身体を冷やすのにもってこいだ。

地域によっては七夕に紙で作った形代を川に流す風習が残っている。
人形で自分の身体を撫で、息を吹きかけて罪や穢れを移す。それを神社に納めて清めていただくことで、自身の罪や穢れも祓われる。禊とはケガレた「身を削ぐ」や「水に削ぐ」などを語源としている節があり、日本人が罪を「水に流す」のもこの神事と通じる。

青森のねぶた・ねぷた祭りは七夕に行なっていた悪霊祓いの灯籠流しと夏の農作業の邪魔をする眠気を誘う「眠り流し」が合わさった祭りだ。秋田の竿燈祭りも同様の起源。

新暦の7月は残念ながら梅雨の真っ最中なので、なかなか晴れずに星を眺めることが難しいが、仙台の七夕祭りは旧暦の7月つまり8月に開催される。そのため、天気は良いことが多いが、屋根付きのアーケードに七夕は飾られている。山口の七夕提灯祭りや北海道の帯広七夕祭りなども八月に開催。旧暦と新暦の季節感のズレから月遅れの七夕という。

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