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【読書感想文】『さよなら、野口健』は、現代の『山月記』だった

 雑誌の書籍紹介で『さよなら、野口健』というタイトルを目にしたとき、正直、暴露本の類かと思った。
 
ルポルタージュである本著は、野口健事務所に長年出入りした元マネージャーが、縁切り神社で「野口健との縁が切れますように」と祈ろうとする場面から始まる。
 
1ページ目を読んだときには、アルピニストとして名をはせながらも、近年はネット上で炎上しがちな野口氏のヤバめな素顔がつづられていくんだろう、と予想した。
 
同じく登山家が主題の『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(2020年)のように、書き手の主観と客観をごちゃまぜにしながら「登山家としては3.5流」と揶揄される理由をセンセーショナルに詳らかにしていくんだろうと予想した。
 
読み終えた今、そんな自分に2時間ほど説教したい。

 
一言で言えば、本著は現代の『山月記』(1942年・中島敦 著)だった。
 
高校の教科書で読んだことがある方もいると思うが、『山月記』の主人公、李徴(りちょう)は「郷党の鬼才」と呼ばれた有能な役人。しかし、妻子を残して突如、姿を消す。
 
じつは彼は、人知れず猛獣の虎になっていたのだ。
 
ある日、虎の姿となった李徴が旧友の前に姿を現し、これまでの人生について語る。
 
李徴は「詩人になりたい」という昔からの夢をくすぶらせ、思い切って詩人を目指したものの、書いても書いても鳴かず飛ばず。おれは俗物ではない。おれには才能がある。この才能を認められたい。でも本気で創作して発表しても認められなかったら恥ずかしい。
 
……そんなふうに「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を飼い太らせて、自分は猛獣となってしまった、と振り返る。
 
究極の状況に立たされてもなお、妻や子への思いより「詩で世間に認められたい」という思いが先立つことに自責の念を抱える。創作者の悲しき性だ。
 

■かつて小説家を目指していた『さよなら、野口健』の著者


『さよなら、野口健』の著者は、かつて村上龍のもとで働いた経歴を持ち、小説家になるべく挑戦を続けたものの、書いても書いても世に認められずに挫折した過去がある。
 
創作欲をくすぶらせている頃、「野口健」という、周囲の人を竜巻のように巻き込んでいくエネルギッシュな人物と出会う。
 
以降、成功者の強烈な光をダイレクトに浴びながら、彼のエネルギーにほれぼれと見とれたり、“心のケガ”をしたり、避難したりしながら、長い期間を過ごしてきた。
 
著者は、年月がたってもかつて夢見た「小説を書きたい」という思いを捨てることができなかった。自分の身の丈を嫌と言うほど突きつけられ、何者にもなれない羞恥心におぼれていく描写は、壮絶だ。
 
結局、著者は自分の人生に大きな影響を与えた野口健をテーマに、さまざまな人に取材をし、ルポルタージュを執筆するに至る。なんだか『山月記』の李徴がトラの姿で残した詩と重なってしまう。
 
自尊心を傷つけられ、羞恥心にさいなまれ、改稿を重ねて書き上げられた『さよなら、野口健』の最終章で、私は心が震えた。
 
誰もが、心の中に自尊心と羞恥心という「虎」を飼っている。
 


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