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映画「モンスター (怪物)」に学ぶ、あなたに潜む事実ではない真実

「ファクトだけ切り取って、真実を見ようとしていない。」こんな言葉を耳にする機会が最近多い気がする。

すっかり日本語化した『ファクト』とは直訳すれば「事実」という意味だが、やたら横文字を使うことで、インテリぶったようなこの言い方に、まだ少し違和感を感じている。

「事実と真実は違う」と言ったほうが、しっくりくるし、伝わりやすくはないか?そんな風に思うからだ。

しかし、日本語ので「ファクト」を使うとき、動かしようのない「事実」ではなく、見方によって捉え方が違うといった意味合いをすでに含んでいるようにも感じるようになってきた。

「モンスター(怪物)」と「ファクト(怪物)」

昨年カンヌ国際映画賞で、脚本賞を受賞した脚本坂本裕二、監督是枝裕和、の「モンスター(怪物)」はまさに、ファクトは、見方によって変わるということを体現した名作だろう。

ある小学校で起きたいじめ事件を、親の目線、教師の目線、子供たちの目線で描くとによって、ファクトは一つなのだが、真実は人によって違うのだということが見事に描かれている。物語の前盤、中盤、後盤で、肩入れする人物と、否定したくなる人物がコロコロ変わる。

「いじめ」の事実は、ファクトと表現したほうがしっくりくる感じがするのだ。この映画のタイトルはモンスターではあるが、「ファクト(怪物)」でも良いのではないかと感じるほどであった。

ラストシーンは、モンスターの正体は一体なんなのか?主人公の子供たちが抱えていたモンスターとは?彼らはどうなったのか?解釈は鑑賞者それぞれに委ねられる形で終わる。

銭湯に潜むモンスターたち

「事実」と「真実」の違いは、人それぞれに正義感の違いからくる。この正義感の違いがモンスターを生み出す。

些細な争いは正義感の違いからくる。僕が携わっていた温浴事業のクレームから考えてみよう。具体例は日常の至る所で勃発する

僕らが、子供の頃は、お風呂の中で名調子で詩吟を唸るおじさんや、おばさんがいた。それを迷惑だという人はそれほどいなかったはずだ。思えば、むしろ、そんな空間が微笑ましくも感じる。

今は、詩吟を嗜む人自体が少ないのだろうが、湯船で鼻歌や詩吟を唸る者がいれば、必ず注意をしてくれとクレームを言ってくる人が出る。こちらとしては、詩吟を唸るような化石のような、おじさんや、おばさんは、ギャラを支払ってでも来てほしいくらいなのにどうにも調子が狂う。

浴室で走り回る子供がいれば、雷を落とすおとながいたもんだが、逆に親が食ってかかるなんてこともある。

30人くらい入れるサウナは、平日の日中ならガラガラでだが。そんなとき、寝転がってサウナを楽しむ人も出てくる。それを許せないという人が、注意をしてくれとクレームがつく。仕方がないので、お願いモードでやめてもらうのだが、譲り合う気持ちは大切だとは思うが、本音はそれくらいは大目で良いと思っている。

サウナから水風呂や湯船入に入る時は、掛水、かけ湯、をするのはマナーである。ここは譲れない決まりだ!大量の汗のまま湯船に浸かられるのは気持ちがわるい。しかし、厳密なことを言えば、お湯に浸かっている時に、人は大量の汗を掻いている。これはファクトなのだ・・・

多様性はファクトの捉え方を認め合うこと

些細なことで争いは起こる。根本的には、戦争とは譲れないそれぞれの正義を主張であり、人間の本能とも言える。ここで、ボタンを掛け違うことで、モンスターが生まれるのだ。

多様性を認め合う社会というのは、それぞれの正義にお互いが寛容になることなのだろう。そう言った意味で、とても重要なことだと思う。

「ファクト」「ファクト」なんて、何でも横文字にするな、「事実」と日本語でいいじゃないか!

などと、わざわざ文章にすること自体が、多様性を認めたくない、60年間生きた僕の正義なのかも知れない。だとしたら、そんな僕の主張はとても小さなことだ。これがファクトである。


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