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一週遅れの映画評:『オッペンハイマー』人の英知が生み出したものなら、

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『オッペンハイマー』です。

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 いや、長げぇって、長いわバカ。上映時間が長すぎてなんか集中力もたないから、焦点がボヤけるんですよ。見る前は「まぁ核兵器開発前から戦後、そして現在に至るまでの社会的受容とオッペンハイマーの変遷を描くならこれぐらいはいるかなぁ~」とか思ってたんだけど、戦後パートからめっちゃ駆け足で(ちょいちょい時系列シャッフル的に戦後の情報アクセス権?の審査パートが入ってくるけど)「あ、そういうのでも無いのね……」って感じだったので、やっぱこの長さが良くないのは言い訳できないッスよ。
 
 それでね確か3年前に邦画で『太陽の子』って作品があって。これが第二次世界大戦末期、日本の物理科学をやってる研究室の話でして、要は新型爆弾(アトミックボム)開発競争を”日本も含めた”各国がやっている中で、結局はそれを打ち込まれた側の研究者視点って物語で。

これがね、まぁ研究レベルとしては資材とかの問題もあって全然勝ち目なかったんだけど「それでも自分たちがこれを使っていたかもしれない」というのと「研究者として被害地域を確認したい」って欲望がどうしてもあるよね、みたいな内容で。正直作品の出来としては良くないんだけどw描いているもの/描こうとしているもの自体は『オッペンハイマー』よりも良いって思ったんですよね。

 これを「あなたが日本人だからじゃない?」って問われたら、間違いなくそうなんだろうけど。そこも含めて個人的には『オッペンハイマー』より『太陽の子』が面白かったな、と言わざるを得ない。
いやね、アカデミー賞……何部門だっけ? 7? 8? 部門取ってる作品に何を言っとるんだという感じはあるんだけど。でもさアカデミー賞ってなんだかんだ言って「アメリカ」の映画賞なわけですよ。つまり私が「日本人だからでしょ?」って問われるのと同じレベルで、「アカデミー賞がアメリカ映画の賞だからじゃない?」って問いをぶつける余地はあるわけ。
いま私は「すぱんくtheはにー」と「アカデミー賞」を同列に並べるっていう恐ろしいことをしてしまったことに、自分でちょっとゾッとなってんだけどさw
でもそういった意味ではアメリカっていう世界で唯一「核兵器を実際に使用した国」として、こういう映画を評価しないわけにはいかないし、映像も良いし役者も良いし脚本も面白いから、そういうブースト込みでアカデミー賞を取るのは当然だと思うのよ。そして何より「取らせないわけにはいかない」、アメリカを代表する「映画」ってコンテンツでそういう意志を見せなくてはいけない。そういう感覚が働いてる部分は絶対にあると思うの。
 これがねクソ映画だったら「いい加減にしろよテメー」って突っぱねればいいだんだけど(似た名前の日本アカデミー賞で2020年に3冠取ったアレとかみたいにな!)、なんだかんだで「3時間とか長すぎだバカ」って文句言いながらも面白く見れたんだからいいんですけどね。
 
 ただこういう「映画」ってものが政治に絡めとられてしまうことが、あくまで物理科学の成果だったものが政治的な構造に組み込まれてしまう様子を描いている本作の内容と重なっているので、そういった点において『オッペンハイマー』はアカデミー賞を獲得したという結果も込みでひとつの作品として捉えるのが正解なのかもしれない。
実際作中でもオッペンハイマーが大統領から「新型爆弾が落とされた怨みを向けられるのはお前じゃない、私だ」って言われるシーンがあって。私はそこが一番グッときてるのも事実なんですよね、あそこの場面は「科学者風情が調子乗んなよ」って空気がめちゃくちゃ出てる。だけどそれは同時にオッペンハイマーの抱える責任と罪悪感を引き取ろうとしているわけでもあって、つまりは観客にも「あなたにもその責任の一端はあるよね?」って問いかけてるわけですから。

 個人的には、最初に挙げた『太陽の子』の話でもあるけど、核爆弾を先に日本が開発成功してたら絶対使っていたわけですよ。だからこんなのは順番の問題でしかねぇよ。って立場なんですけど、やっぱ映像の力というのは良くも悪くも凄くて。
『オッペンハイマー』の中でウランを使った核爆弾の実験が行われるんですけど、そこで発される光の凄まじさが問答無用で「これはいくらなんでもやりすぎ」って思わされるし、「これをあいつらは私の国に打ち込んだのか!」というほとんど反射的とも言えるレベルで腹が立ったので、やっぱどっかしら「この国」で育ったことによって刷り込まれてる核兵器への反感があるんだろうなぁ。
 たぶん教育とかじゃなくて、心のエイサップ・鈴木が「リトルボーイは駄目だぁぁ!」って叫んだり、心のディアナ・ソレルが「夜中の夜明けなど、あってはならない歪みです」って喋りだしたから、たぶん日常として触れているコンテンツから(いやどっちも富野だけどさw)受け取っているんだろうね。
 
 それでね、作中で「この新型爆弾は戦争の在り方を変えてしまう」みたいな話がされてるときに思い出していたのが『バービー』で。あの「バーベンハイマー」という賛否あるムーブメントとは別に、『バービー』では「バービー人形」というものが『2001年宇宙の旅』に登場したモノリスぐらい人々の意識を変えてしまった、と表現されていたわけで。

そういった意味において「核兵器というものが、どれだけ世界を変えてしまったか」という『オッペンハイマー』で描かれていたことと、ある程度の接続を持って語ることはできると思うんですよね。
 『バービー』では、バービー人形の出現によって世界は変わった。だけど人形である”私”はそこから何も変わることができない、って問題を扱っていて。そこから人間になることで「死を受け入れても、変わることができる可能性」を選択する結論を出している。
一方で『オッペンハイマー』は「世界を変えてしまうことは、否応なしに死をふりまく」という、科学の発展と変化における負の側面。それをひとりの人間が長い時間をかけてどう折り合いをつけていくか? って話なわけだから、お互いにクロスする部分はありつつ、対極な作品として並べて批評するのってちゃんと価値あるものになると感じましたね。
 まぁこれはいつかどっかでちゃんと書くかもしれない。そのときには「人の英知が作ったものなら、人を救ってみせろ」と、兵器だけじゃなくて作品に対しても言えるような批評にしたいと思っています。

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 次回は『アイアンクロー』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの16分ぐらいからです。


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