見出し画像

一週遅れの映画評:『太陽の子』間抜けにしか生きられない。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『太陽の子』です。

画像1

※※※※※※※※※※※※※

 第二次世界大戦末期、とある研究室では新型爆弾の研究が進められていた。原子を崩壊させることで膨大なエネルギーを発生させる、これまでの兵器とは一線を画す「Atomic Bomb」つまり原子爆弾である。理論は完成しており、あとは実証実験を繰り返していく段階……だがそれはどの国でも同じこと。一日でも早く実戦投入した国が戦争に勝利するという期待、けれど戦況芳しくない日本では実験材料どころか電気の供給すら不安定。加えて招集され消えていく知人たちや家族。
 
 という背景からはじまるのがこの『太陽の子』なんですけど、まぁ毎年このくらいの時期になると第二次世界大戦ものはどっかしらでやられる感はありますがwそういったタイプでいうなら割と説教臭くない方の部類には入るかな?
 主人公が原子爆弾の開発をしている研究室の一員なんですけど理論派というよりは実際に試してトライ&エラーを積み重ねていく、というか仲間内では「それしかできない」と扱われている人なんですね。そこらへんが説教臭さを上手く回避してる要因になっていて。
 
 戦争末期だからガンガン学徒動員とかされてるわけですよ。ただその研究室は敗戦濃厚な日本における起死回生の「新型爆弾」開発に携わっている関係で、教授と軍部に強いパイプがある。だからその研究室からはほとんど招集されないように手回ししている。
 で、やっぱ当時のムードは「お国のため、輩(ともがら)のため、命をかけて戦うのが大和魂である」なので、研究室内でも意見が割れるんですね。完成するかどうかもわからない爆弾の研究をするぐらいなら自分は戦場に行くvs命を粗末にするな、自分たちの研究が日本を勝利に導くのだから研究室に残れ、って主張で。まぁどっちの言い分もそれなりに妥当性はあると思うんですけど。
 そこで意見を求められた主人公は「……実験を続けましょう」って言うだけで、それには回答しねぇの。まぁやんわりと「研究してるほうが良いとは思うよ?」って立場ではあるんだけど、どっちの主張もわかるちゃあわかるぐらいの温度ではあるわけ。
 
 その一方でよくある「科学技術を人殺しのために使うのはどうなのだ」という話もでてくる、原爆がいままでの兵器とは比べ物にならない破壊力を持つであろうことを彼らは知ってるから、そういった議論がそこいらの武器よりも当然上がりやすい。もちろんそこにも、倫理的によくないvs日本の勝利のためにvs知識は知識、技術は技術、兵器は兵器と切り離して考えるべき、みたいな思想の違いがあって。またしても主人公は「……実験を続けましょう」ってなるというwここでもやんわりと「自分は科学の発展が見たいだけだから~」みたいな空気を出すけど、明言はしないわけですよ。
 
 作品としてはね、ちょっとぬるいんですよ、やっぱり。それでもわかりやすい反戦・反核みたいな主張になりやすい第二次世界大戦モノとしてはかなり中庸を取ろうとはしていて、そこまで嫌な感じは無いから想像してたよりは良かったですね。
 
 で、まぁご存じの通りアメリカが先に核爆弾を開発・実戦投入することになるわけですが、その報が研究室にも届くわけですよ当然。それでめちゃくちゃ悔しがる仲間もいて、そこに対して主人公はやや冷淡というか。
 第一に自分たちが開発競争に負けることぐらい目に見えていたわけですよ、物資も手に入らない、実験に不可欠なウランも正規ルートからは手に入らなくて陶芸の釉薬に入ってるウラン酸ソーダをかき集めてるくらいで、そんなんでまともに開発できるわけがないし、よしんば成功したとしても実戦兵器に使えるほどのウランを日本政府が手に入れられるかも怪しい。だから「負けたっ!」とかいって悔しがる人を見て「当たり前じゃん」ぐらいの嫌な冷静さを発揮する。
 第二に一応研究室としての見解としては「科学技術と知見が重要で、原子爆弾はその副産物。あるいは研究を続けるための条件」ぐらいな空気でゆるやかにまとまってはいるんですけど、やっぱ先を越されて悔しいし、それが自分の国に撃ち込まれて国民がめちゃくちゃ死んでることに対して忸怩たる思いはある。つまりは「科学技術の発展を素直に喜べない」という矛盾が生まれてる。自分たちの理論は/目指す地点は間違ってはいなかったという思いと、それが自国に対して使われたという悔恨、その二つが混じって……それでこう、中途半端な位置にしかいられないから冷静になるしかできない感じがあらわれていて。
 
 その直後に主人公たち研究室の面々は原爆が落ちた広島に向かうんですよね。そりゃあそうですよ、人類初の核攻撃による「結果」なんて研究には絶対必要だし、もっというなら半端じゃなく興味を惹かれると思うんです。だって開発は先を越されたけど、その威力を効果を現地で綿密に調べられるのは「(言い方は悪いけど)特権」でもあるわけじゃない?
 だから広島に向かって現地調査をする、その一方で焦土となった広島に、折り重なった死骸に、やっぱりショックを受けざるえない。そいう理性と情緒のゆらぎが確かに描かれていたように思いましたね。
 
 それでね、広島長崎と原爆が投下された後に「次は京都だ」って噂が流れる。そこで主人公は比叡山に登り、市内を一望できる場所から「原爆投下の瞬間をカメラに収めよう」と計画するんですよ。自分の家族だけには京都を離れろとはいうけど、他の人には「確定情報じゃないし、京都の人全員が逃げれる場所なんか無いから教えない」って言うの。
 いやー、ねぇ、だって研究者としては見てぇじゃん。「この破壊力だとこのぐらい死ぬよ」って。わかるよ、わかる。たぶん同じ立場なら私もそうする。
 
 つっても実際に京都には原爆を落とされなくて、長崎のすぐ後にポツダム宣言があるわけだから……そういう歴史を知ってる人間からしてみたら主人公ってめちゃくちゃ間抜けではあるのよ。来もしない爆弾を待ってるんだから。
 それもある意味では「京都の町がはちゃめちゃになるところを見たい」「沢山の人が死んでも、別にいい」っていう意志を表明しちゃってるわけじゃない、それって。そういう状況で「何も起きない」「戦争が終わる」っていう間抜けさと苦さ、ままならなさ。それを隠すつもりがない描き方は割かし良かったですね。
 
 まぁある種の風物詩として見る分には、思いのほか満足できる映画でした。帰ってきてから『この世界の片隅に』を個人的に見かえしたのは口直し3:最高穂を再確認しとこうかな7ぐらいの割合ですかね。

※※※※※※※※※※※※※

 次回は『妖怪大戦争 ガーディアンズ』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの18分ぐらいからです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?