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一週遅れの映画評:『バービー』標準バービーは生理痛の夢を見るか?

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『バービー』です。

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 これが色んな人が、色んな方向から怒るのは当たり前の話なんですよね。だって全方位に石ブン投げてるわけですから、目につくもんに片っ端から殴りかかってる作品で。そして根っこがパンクでアナーキストの私は思うわけです、「オイオイオイ! 最高じゃねぇか!」って。
 
 そもそも冒頭の赤ちゃん人形粉砕シーンからしてめちゃくちゃ良くて。

あれは「バービー人形がどれほどのインパクトだったか?」という説明シーンなわけですよ。赤ちゃんを育てる”母親”に女の子はなりたがっている、というステレオタイプをブッ壊してセクシーな大人の女という像が憧れの対象になった。そのイコンとしてバービーというのを描いている。
 あそこで赤ちゃん人形を地面に叩きつけることは確かにめちゃくちゃショッキングな映像なんですけど、それは「当時の保守的な人間にとって、バービー人形(が代表する意識の変化)はそのくらいの衝撃があった」というエモーションを伝えるためのショッキングさで。だからあのシーンを「ひどい」って批判はすっげぇ頭悪いっていうか、「ひどいって印象を与えるためのものを作ってるんだから、ひどいのは当たり前でしょ」って感じなのでアイツらの言ってることはほぼ「無」ですね、「無」。
 
 そのあとも「バービー人形はスレンダーな体型だったり、整った顔立ちが良いと刷り込む悪しき文化!」という発言をこまっしゃくれた中学生に言わせることで、そういうよくある言説ってまぁローティーンがドヤ顔で話すレベルよね。って切り捨てているし。
 かと思えばバービー人形発売元のマテル社に対しても商品CMパロディで「鬱病バービー人形発売! 神経症バービーもあるよ!」とか言い出し、経営陣に男性しかいないことを揶揄する。その流れから「人間の世界は男が優位なんだ!」とバービーの”おまけ”としてしか扱われてこなかったケンを変な方向に目覚めさせてしまう。
 
 それでバービーランドに戻ったケンは社会を男性優位のものに変えてしまう。まぁそれがとことんホモソーシャルな男たちの関係を悪意丸出しで描きながら、そこにあるのは全部がどこかで見たようなものばっかり……例えばわざわざ小さな冷蔵庫から瓶入りのビールを出してきて、それを飲みながら仲間同士でスポーツ観戦するとか。男らしさを誇張しながらも、ギターを取り出してきて女性に向けて歌うのが「情けない僕でもいいかい?」みたいな「強い俺だけど、おまえの前だけでは甘えるんだぜ」という意味の歌詞だったり。極めつけはステディな関係になる相手を「彼女」じゃなくて「長い付き合いで煮え切らない関係の彼女」ってわざわざ言ったりする。
これって要はドラマとかのメディアが作り上げた「男性像」で、そういった男性優位の世界を維持したり、ホモソーシャルな関係を肯定する働きをフィクションが助長してたんじゃないの? って言ってるわけですよ。

 一方で、一気に感化されてしまったバービーランドのケンたちは「スペイン風邪みたいなもの。いままで知らなかったから抗体が無いのよ」と評されてしまう。バービーランドはずっと女性優位の社会で、ケンたちは軽んじられてきた。それが「支配層の性別が逆転してもいいんだ!」という考えを手に入れた途端、天秤を真逆に傾けてしまう。
これはこれでフェミニズムをネタにしてる。本来は性別関係なく平等な社会を作るためのものが、なぜだか「じゃあ女性が男を支配してもいいんだな!」と吹きあがってしまう人たちがいるのを「抗体が無いからね」って評しているのと同じことになるじゃない?
 その上で男性優位社会に適応してしまったバービーたちを目覚めさせるのが、一言二言のアジテーションで。それもまた「強い女性、自立した女性」を標榜するメディアから借りてきたような言葉ばっかり。ここでもさっきのケンたちで描かれたのと同じく、そこにあるのは思想じゃなくてムーブメントだけなんじゃないの? って語りかけている。
 
 それで、こうやって手当たり次第に石をブン投げてるように見えて、そこには共通しているものが実はある。それが『バービー』って作品自体が何を良しとしてるか? ってことでもあるわけですよ。
ものすごく前半にそれはあらわれていて、人間の世界に来たバービーがバス停のベンチに座ったとき、隣にひとりの老婆がいるんですけど、バービーは彼女に「あなたは美しいわ」って言う。これ「年をとっても女性は美しい」って話では”無い”んですよ。だって最後バービーは人間になることを選ぶときに、「それは終わりがくることを受け入れる必要がある」みたいなことを言われる。だから老化とか死自体はネガティブなものとして扱われている。
 じゃあ何が「美しい」かって言うと「変化すること」なんですよね。ひとつの場所や時間にとどまらずに、変わり続けることを肯定しようとしている。変わり続けた結果として「老い」が発生するから、老化自体はネガティブなものだけど歳を取ることによって変化していく身体や精神のことは良しとしている。
 
 作中で人間の世界から来た母親が最初に大統領バービーを目覚めさせた言葉は、さっき話した借りてきたようなものじゃなかった。そこで語られるのは「相反するものが求められるのに、どっちかに偏り過ぎると否定される」という、社会が個人に対して要請している立場の困難さなんですよ。
それへの返答が「変わること」で、その場所や周囲の状況、あるいは時代。そして何よりも自分のために「最善を求めて、変わり続ける」だと示している。そうやっておばあちゃんになるまでの長い時間を強かに生きることが「美しい」わけです
 で、それはまさに「バービー人形」の話でもあるんですよ。登場から64年の間に社会はめちゃくちゃ変わって、当然オモチャに求められるものも変化していく。それこそ作中で中学生ぐらいがいいそうなことが、大真面目にバービー人形の問題点として語られたこともあるぐらいに。
 だから「バービー人形」は様々なバリエーション展開をして、社会の変化のなかでバービー人形たちも「変わり続けてきた」わけですよ。そしてそれはひとつの成功として肯定されている。
 
 だけどここで問題が残る、バリエーションの多様化で社会の要請に応えてきたけど、じゃあ「標準のバービー人形」はどうなったか? っていうと、標準なのだから当然そのままですよね。
ここに不均等がある。社会の側から見ればバービー人形はバリエーションの違いで多様性を獲得したけど、バービー人形側から見れば「私は永遠に”この”バービーのまま」なのはずっと変わらない。言い換えるなら「選ばれる側」として多様な選択肢のひとつだけど、「選ぶ側」には決してなれない
それを解消するために、”標準”のバービーは人間になることを選ぶ。さっき言った人間の世界から来た母親の言葉は「常に自分の行動に対して選択を迫られ、それがジャッジされることの生きづらさ」をあらわしたものだけど、それは「選ぶことができる。変わることができる」ことの裏返しでもあるわけですよ。だからバービーはそういった面倒さや、変化すること=老化=死をも受け入れて人間になることを選んだ。

 そして人間になったバービーは婦人科に行くんですよ。これたぶん低用量ピルの処方が目的だとは思うんだけど、どっちにしろ人形だったときは「股間がつるぺた」だった肉体から、マンコのある(それは生理もあるし、場合によっては性病とか妊娠とかもある)肉体になった、ということで。人間になって生きることはそういった面倒ごとが増える、そうやって日々変化していく体と付き合っていくことになった。そういう話じゃあないですか。
 
 と、いうところで冒頭のシーンに戻ると。最初は「バービー人形の登場がどれだけエポックメイキングだったか」を示すシーンだよって言ったけど、ここでもういっこ意味が乗ってくる
あそこの元ネタである『2001年宇宙の旅』では、猿が進化をもたらすモノリスと出会ったシーンで、つまりはここから猿たちが進化/変化していくことをあらわす場面なわけですよ。
そして『バービー』では「変化すること」の肯定が最終的に描かれた。つまりこの作品は「バービー人形とモノリスが出会う」作品であると、そういう変化/進化/変容が中心にある作品ですよ。っていうのをこのパロディで明示しているんですね。

 個人的には「不可逆な一回性の生しか送れない現実より、複数の生を生きるフィクションのキャラクターが正しい」って立場なので、バービーが人間になるラストにはそれほど感動できないのですが。それでも「変化すること」を尊ぶテーマは、あらゆる既存のものに殴りかかる攻撃性含めて(すぱんくはパンクだからね!)大変良かったと思いました。

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 次回は『SAND LAND』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの13分ぐらいからです。


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