援助者がみようとするもの
瀬尾まいこさんの「そして、バトンは渡された」を読んだ。
血がつながらない親たちが娘を育てていく話である。
主人公の女子高生森宮優子は、母を幼くして亡くし、実の父、育ての親が3人いる。
実の父から離れ、家を転々とし、次々と育ての親が変わり・・・。
という環境をケース記録として読むと、「大変な環境で苦労し、つらい思いをしている子」というクライエント像が浮かび上がる。
学校の先生方もそういった印象を持ち、いわゆるカウンセリングで言われそうな、「つらかったね。無理しないで、溜め込まないで気持ちを話していいよ」というような言葉を吐いてきたらしい。
しかし、高校3年のときの担任向井先生は違っていた。もちろん、そういったアプローチもありながら、環境に惑わされなかったのだ。
実の両親が揃っていて、裕福で、食事も衣類も教育も、何もかも与えられていて、愛情もありながらも、つらい子はいる。
逆もあるのだ。
強がって、「大丈夫です。血が繋がっていなくてもいい親なんです」と言っている場合ももちろんあるだろうし、
本当にそうである場合もあるのだ。
これが対人援助の奥深いところである。
向井先生は、よくみて、よく感じて、よくきいている。
言葉や環境に惑わされない力がある。
テレパシーも千里眼もないただの人間は、少しでも「理解」という域に近づくために、曇りなきまなこを開き、みみを澄まし、声にならない声をきこうとする必要がある。
わかった気にならないことである(自分への戒めだ)。
「そして、バトンを渡された」を読んだ翌日、テレビで映画「シンデレラ」を観た。
こうして「継母」への偏見が作られるのだな。
多くの愛ある「継父」「継母」が存在しているだろうに。
そして、血のつながりのあるなしにかかわらず、確かに虐待する親たちも存在する。
にこやかに、ちゃんとした佇まいで。
我々対人援助職者の敵は、「偏見」「思い込み」「決めつけ」なのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?