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教科書文学のすすめ1「わたしが一番きれいだったとき(茨木のり子)」この瞬間に一番きれいな人たちへ

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残して皆去っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

『見えない配達夫』飯塚書店刊(1958)


今日は、茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」です。

正直、このご時世にあまりにもしんみりとしてしまう詩の紹介から「教科書文学のすすめ」をスタートするのはどうなのか?と迷いましたが、やっぱり紹介しようと思います。


朝の情報番組で、某国の銃を持つ美しい人の写真が取り上げられていました。

その写真の意図や真偽はさておき、私はその写真を見て「きれいな人だなあ、かなしいなあ」という気持ちになり、ふとこの詩を思い出したのです。

そして今日、この「わたしが一番きれいだったとき」を読んで、修学旅行に行けなかった高校生、リモート授業ばかりの大学生、結婚式をできない花嫁さん、そんな人達のことも思い起こされました。

(私自身は「一番きれいだったとき」をとっくにすぎているので、今「一番きれい」な人たちのことを憂うことにしたのです。)

今この瞬間に「一番きれい」なみなさんに、どうかこの詩が届きますように。

おばさんぶってるわけじゃないけれど、私は「わたしが一番きれいだったとき」は少し不幸で、今は小さな幸せに気付けるくらいには幸せです。

「できれば長生き」してみるのもいいものです

                ね

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