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自分とかないから。教養としての東洋哲学 しんめいPさんの本

この本を書店で見つけたのは、4日前のことだった。

東洋哲学については、
篠原信さんの「世界をアップデートする方法」
という書籍で読んだのをきっかけに前々から関心があった。

手に取ってみると、「はじめに」の冒頭から
「虚無!32歳。無職になり、離婚して実家のふとんに一生入ってる。」
と書いてある。

どことなくシンパシーを感じた僕は、
内容も面白いそうだったので、すぐに購入し、
あっという間に読破してしまった。

簡単にではあるが、僕が感じたことを記録しておく。

1章 無我 自分なんてない ブッダの哲学

僕の方でさらに要約すると、

ブッダさんは自分の探しの旅に出て、
とてつもない修行をするのだが、
結局、自分なんてものは見つからず。

そこから、ひょんなきっかけで悟りを開き、
観察の末、「無我」という考えに至る。

書籍の中では、
自分が食べた物(自分以外の物)で
自分の体が出来ていることに
触れられており、

その食べ物(鳥、虫、草)なども
太陽や水から出来ている
という例が分かりやすかった。

一見、食物連鎖の話かと思うが、
そもそもビッグバンが起きた
宇宙の起こりを想像すると
原子レベルでも
元は皆同じ(無我)だったと考えられる。

また、我々は思考の起こりが
自分だと思っているが、
カレーの写真を見せられて
「カレー食べたい」と
思考するという例を挙げられていて、

僕もこの本を読んだから、
この Note にまとめているのだなと
とても納得した。

思考というのも、
もはや無我なのかもしれない。
そうであるならば、
我々は何かしら
外部からの影響を受けながら思考し、
そして、外部に対しても
影響を与えていると思われる。

少々飛躍するが、
このような循環で世界が回っているならば、
地球規模では、人間に都合の良いことばかりを優先させると、
地球が滅び、人間も滅びる。

身近な視点では、負の感情は自分で堰き止め、
周りに正の感情(影響)を与えるよう
個人ができる限り努める。
そういうことが世の中を良くするには
大切なのだろうかと思った。

ただ、「自分」が登場している時点で
無我ではなくなっている気が...
難しい。

2章 空 この世はフィクション 龍樹の哲学

この章は長めなので、ざっくりと感想を書く。
以下、本の内容を抜粋。


家族、会社、社長、国、モノ、まち...すべてフィクション。

これらすべて「言葉の魔法」にかかっている。

すべてはつながっている = 縁起という関係性


我々は、ことばによって思考する。
だからこそ、ことばの定義で
物事の関係性を捉えて、
当然視してしまうが、
実体をよくよく観察すると
それはフィクションであるということ。

すべては縁起の関係性というのは、
ブッダの無我に繋がる考えだと感じた。

本の中で「兄」と「弟」はどちらが最初に生まれた?という問いがあるが、
兄は弟が生まれないと兄になれないので、
「両者の関係性」は、同時が答えとなる。

「言葉の綾」という表現があるくらいなので、
我々はことばによって
思考を洗練することもできるが、
騙されることもあるのだと腑に落ちた。

6章 密教 欲があってもよし 空海の哲学

3章〜5章は省略したが、もちろん面白かった。
ただ、僕的には6章が一番響いた。
ここもざっくり要約すると

空海の密教では、自分とは何か?という問いに
「マンダラ」で表現しており、
中央には「大日如来」が描かれている。

この大日如来は「ブッダの究極の悟り状態」
そのもののことらしい。

空海は、自分というストーリーを捨てると
宇宙(=大日如来)になれると説く。

その大日如来になる方法とは、
「身」:同じポーズで
「口」:同じ言葉をつかい
「意」:同じ心をもつ
というもの。

「なりきる」ことのパワー

ゼレンスキー大統領が芸人だったことは知っていたが、
彼がドラマで大統領役を演じたことで
本当に大統領になったというエピソードは興味深かった。

「なりきる」こそが「自分」をつくる。
空海はそれを「大我」と呼んだらしい。

密教もブッダの流れを汲む仏教であることから、
自分がフィクションでなら、逆に、
どれだけデカい存在にもなれる。
「無我」だからこそ、「大我」になれる。

ゼレンスキー大統領の例も説得力が増し、
妙にこの部分が響いた。

ハトに餌をばら撒くおばちゃん

筆者が公園で目撃したという
ハトに餌をばら撒くおばちゃんの話。

ここの解説も響いた。

筆者はセックスの気持ちよさには
肉体的なからだの「刺激」と
精神的なこころの「融合」があると述べる。

この融合とは「自分」と「相手」という
フィクションが崩壊する境地になることだと。

つまり、おばちゃんも
「自分」と「ハト」というフィクションが
餌をやるという行動で
崩壊しているから気持ちいい
ということに違いない。

僕は、これは能動態や受動態ではない
「中動態」に近いのではないかと思った。

自分と相手の境界がなくなり、
無我の境地に到達すると気持ちよくなる。
僕的な解釈になるが、ひとりでなるほどなと思った。

感想まとめ

人生は一度きりだから、
やりたいことをやらなくちゃ勿体無い!
ということをよく聞くが、
もちろんそうだと思う。

その一方で、我々は死んだら、
火葬されれば二酸化炭素になるし、
埋葬されれば
微生物に分解されて土に還るし、
結局は皆繋がっているので、
そんなに思い詰めなくても大丈夫ではないか
という考えも本を読んで湧いた。

また、僕は無職という状態に
元々焦りがあまりなかったのだが、
やっぱり、大丈夫かもなと思った。

無職という言葉は強く、
漠然ととてつもなくやばい状態だと思われるが、
「ことばの魔法」にかかっているだけなんだと思う。

そう思う理由は、
会社を辞めたという
状況が変わっただけであり、
僕自身が何か変わったということではないからである。

とはいえ、生きてはいかないとダメなので、
貯金が果てる頃には
何とかしているのではないかと
楽観的に考えるのである。

とても勉強になった本だった。

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