霊能力者への偏見による差別
霊能力がある方なら誰もが体験する苦痛を、世の中の人に知ってもらいたく、ここで公開させていただきます。
想像してみてください。
亡くなったご家族からのメッセージをご遺族に伝えてくれる人がいました。
あなたはその人の話の内容を聞く前に腹が立ちますか?
その話の内容は絶対に嘘だと言い切れますか?
そんな嘘をつくその人は何か企んでいるに決まっていると、あなたは思いますか?
私は葬儀に参列しますと、故人の動揺や困惑に遭遇することが多いです。
その実例を挙げましょう。
故人が望んだ副葬品「手作りの巾着袋」
ある葬儀では、
「おばあちゃんが大切にしていた高価な着物をいっしょにお棺に入れて火葬にしましょう。おばあちゃんがあの世で着れるようにね」
とご遺族が話し合っていたところ故人が、
「なんてことするの!? もったいない!」
と叫んでいたため、私は居たたまれず口をはさみそうになりましたが、ご遺族からの部外者への怒りを恐れて、私は口をつぐみました。
私の霊能力を知る者からの助け船で、ご遺族から無言の視線を受け、
「本人はもったいないと言っています。着物よりも……巾着、このくらいの大きさの、生前、本人が大切にしていた巾着袋がありませんか。それをお棺に入れてほしいそうです」
と恐る恐る伝えました。
遠い親戚で親しい交流がないご遺族に、部外者である私が故人の生前のことを語ることはいぶかしがられても当然です。
「生前に大切にしていた巾着袋」の存在を問われたご遺族は心当たりがなく、唯一、孫娘だけが見覚えがあり、故人宅へ探しに行ってくれました。
この段階では葬儀会場の祭壇前にいる誰もが半信半疑です。
数十分後に孫娘が戻ってくると、パッチワークで手作りされた小さな巾着袋を手に持っていました。
「おばあちゃんが通帳や印鑑を入れていた袋です。いつも持って歩いていました」
それでもご遺族は無言です。今、思えば「通帳と印鑑をいっしょに燃やすわけにはいかない」と困惑していたのかもしれません。
私はインスピレーションで無意識に付け加えました。
「中身は抜いてもいいので、その巾着袋だけでもいっしょに入れてあげてください。本人はそれでいいそうです」
ご遺族は無言のまま、副葬品として巾着袋を入れることに決まり、唐突に起きた見知らぬ人間による小さな奇跡に困惑しているようです。
孫娘には感謝の言葉をかけられましたが、なんとも言えない表情をしていました。
故人が望んだ副葬品「男の子用のおもちゃ」
別のある葬儀では、
「お母さんのお棺に何を入れてあげたらいいか知りたいのです」
と正式に問い合わせてくださいました。
有料の霊視鑑定をいたしますと「男児」「青」「おもちゃ」の感覚が私の心の中に感じられました。
しかし、私は戸惑いました。
そのご家庭では長女と次女しかおらず、男児は生まれていないのです。
「サンリオの新幹線のおもちゃのようなかわいらしい物が感じられるのですが、お子さんに女の子しかいないのに変ですね。何か青い男の子用のおもちゃはありますか? 何でもいいので探してみて教えていただけますか?」
私はどう解釈したらいいか結論が出ませんでした。
女の子しかいない家で、はたして男の子用のおもちゃはあるのでしょうか。
もし、あったとして、なぜ男児のおもちゃがあり、なぜそれを副葬品にしたいのでしょうか。
水子がいたとしても、男児だとわかっているとすると、死産ということになってしまいます。そのような兄弟はいないそうでした。
数日後、謎が解明されました。
「ひとつだけ青いミニカーがありました」
「なぜお母様はそのミニカーを大切にしていたかわかりましたか?」
「お父さんに訊くと、お父さんが初めて買った車がブルーバードだったそうです。それと同じミニカーを見つけたお母さんは気に入って購入し、大切にしていたそうです」
「では、お父様への愛の証だったのでしょうね。火葬場によっては金属製のミニカーはいっしょに燃やせないと言われるかもしれませんので確認してみてください」
後日、
「火葬場から許可が下りて副葬品として無事に入れることができました」
と、ご連絡いただきました。
なぜ「青い新幹線」が「青いミニカー」だったのかを説明いたしますと、お母様はそのミニカーを「お父さんの車をそのまま小さくしたかわいいおもちゃ」という認識だったところ、私には「ミニカーにかわいいというイメージがない」ために、「かわいいおもちゃ」という感情をキャッチした私が「サンリオの新幹線のキャラクターくらいかわいい」というイメージでキャッチしてしまったからだと思われます。そのモヤモヤ感から娘さんに向かっては「何か青い男の子用のおもちゃはありますか? 何でもいいので探してみてください」という言葉で言い直しています。インスピレーションのため、すべて無意識で感じ取り、言い直す場合も無意識で意味があるため、一語一句無駄な表現がないというところに注意が必要です。
故人が望んだ副葬品「娘が着た高級な着物」
義理の母が亡くなったときは、兄弟姉妹で副葬品を何にするかについての会議が始まりました。
近しい関係のために血縁者からは霊能力を素直に信じてもらえないことが多く、「またいつものが始まった」「本当なの?」「外れた時もあるじゃない」と遠慮なく敬遠されがちなのですが、母親の死に際し、
「お母さんはなんと言っているの?」
と真剣に聞いてくれました。
私はお義母さんが見せてくれる映像に集中しました。
「あのテレビに映っているようなきれいな蛍光色のグリーンの色の、くしゃくしゃっとした生地の着物……くしゃくしゃっ、なんて言ったらいいのだろう……こう、くしゃくしゃっていう感じ……」
「あっ! あれかな!?」
「それっ! その考えているもの!」
「絞りのだよね?」
「絞りって言うの? よくわからないけど、それだと思う」
私は妻が考えたものが何かわからないまま、その考えているものが正解だと感じました。お義母さんが「そうだ」と言っているからでしょう。
私はそんなことを言いながらも「着物にそんな蛍光色のような緑色のものなんてあるのかな。和風の色って中間色が多いから、原色みたいなものは見たことないけどな」と不安でした。
「お姉ちゃん、覚えていない? 成人式で着たやつ。お母さんが自分で買った着物」
姉妹は桐たんすの引き出しから何枚も着物を引っ張り出し、たとう紙を次々広げて探します。
「お姉ちゃんが成人式で着た時はピンクだったけど、あとでお母さんが緑に染め直したのよ。総絞りの。お母さん、気に入っていたから」
案の定、その鮮やかな蛍光色の、まさにグリーンと表現してもいいほど美しい着物が出てきて、私が想像していたとおりのくしゃっとした生地である「総絞り」でした。
ご遺体にかけると、
「いい色でしょ。これは誰にも渡さないわ」
と霊体のお義母さんに言われました。
その光景を見ていちばん目を丸くして驚いていたのは、霊現象を信じていない姉の夫でした。
亡くなったご家族からのメッセージと隠れた真実
「霊現象を信じない」
「霊能力者を信じない」
「宗教を信じない」
それは人それぞれの自由です。
信じなくてもいいですし、信じるように強制しているものでもありません。
しかし、
「もし、誰も知りえない真実が、霊現象により明かされたのなら……」
「もし、亡くなった愛する人の気持ちを考えたなら……」
そして何より、
「もし、ご遺族の気遣いが故人にとって意に反するものだったなら……」
頭ごなしに否定することは、百害あって一利なしでしょう。
さらに厄介なのは、
「霊能力を語る者への一方的な怒り」
です。
まだ実害がなく、信頼できる人物かどうかわからないうちに、否応なく信じられるかどうかといえば信じられないのも致し方ありません。
信じられないだけなら何も問題ないのですが、
「ペテン師だ」
「何かを企んでいる」
「金目当てか」
「だまされないぞ」
といった決めつけた怒りは、だますつもりがなく、お金を求めてもおらず、故人の気持ちに心を痛め、ご厚意で故人のメッセージを伝えようと、勇気をもって語ってくれた人物であった場合に、その人の心を傷つけ、踏みにじるものです。
疑って当然か、それとも疑ってはいけないのか
「霊能力者はそう疑われて当然のことだと知っていてしているのだから仕方がない」
と言う人もいます。
そのことについて、はっきりと申し上げます。
「そのように考える人が怒りを表すことは、霊能力が真実であった場合にその恩恵を得られる資格は自分にはないと認める行為」なのです。
たとえ話をいたします。
ある無名の料理人がおりました。
彼の料理は美味しいと認める人がいましたが、店が繁盛しているわけではなく、有名な師匠がいるわけでもありません。
ある客が彼の料理に満足できないばかりか、他の大切な客の前で彼の腕を信用できないとまで言い切りました。
やがて、料理人の彼は名が知られるようになり、少しずつ店が繁盛するようになりました。
ついには著名人が訪れるようになり、彼は社会的に認められる料理人になりました。
彼の腕を信用できないと言い切った客は、彼の成功を目にして態度を変え、再び食べに来ました。
彼はその客にはっきりと言いました。
「あなたに食べていただく料理はございません」
このたとえ話では、誰が問題だと思いますか。
過去に無礼なことをした客ですか。
それとも、心の狭い料理人ですか。
来店した客を拒絶して追い返すのは違法でしょうか。
さまざまなご意見の方がいらっしゃるでしょうが、人道的にも合法的にも、
「個人の尊厳(基本的人権の尊重)」
という観点から、お店の経営方針を侵害する行為は許されず、料理人である彼の意思が尊重されます。
救済が必要で求めている場合を除き、求めている側よりも与える側の権利が優先されるのです。
災害や犯罪被害などによる救済以外では、客の意思が尊重される法律はないばかりでなく、双方の意思を尊重するという意味では、拒絶も正当な権利なのです。
当然ですよね。お小遣いであっても、与えるかどうかは与える側が決めることであり、受け取る側が「お小遣いよこせ!」と言って強要することは恐喝になります。
人道に限っていえば「先に拒絶したのは客だった」ということです。
やっぱりほしいというのは「虫がよすぎる」ということになります。
霊能力者の霊能力を頭ごなしに疑った者は、その霊能力が真実であっても、その恩恵を受ける権利をみずから放棄したことになります。
神仏の使いなら無礼な者を許すべきか?
宗教心がある方には次のような疑問が湧くかもしれません。
「人間は憐れなものであり、そのような無礼を平気で働いてしまう。神仏ならそのような人間を大きな愛で許すはずだ」
と。
これは多くの宗教家、多くの哲学者、多くのスピリチュアリストが解決できていない問題です。
結論が出ないままに、悪意ある無礼な人々に傷つきながら笑顔で接しているか、つい怒ってしまった自分の未熟さを呪って生きるかのどちらかでしょう。
その問題について、私が答えを出すことが、今回の記事の本旨です。
原点に戻ってください。
「神仏の使いなら、人を許すはずだ」
「神仏の使いなら、人を救うはずだ」
そう思うあなたが、直接、神仏から救われないのはなぜですか?
間接的に霊能力者から救われるはずだとして、その霊能力者を振り回すことは、本当に神仏が許すのでしょうか。
そもそも「救う」「許す」ということを、救われる側、許される側が考えることでしょうか。
これを学校でたとえましょう。
小学生がふたりいます。
あきら君は勉強しています。まもる君は勉強していません。
まもる君は「勉強がつまらない」「勉強してなんになるのか」と不平不満を漏らします。
あるときテストであきら君は80点を取り、まもる君は40点でした。
まもる君はあきら君に向かって言いました。
「友だちだろう? いい方法を教えてくれよ。どうやって勉強してるんだ?」
あきら君は一生懸命勉強していたので、教える時間がありませんでした。
「ごめん。オレ、自分の勉強だけで精一杯なんだ」
「お前、ひどいやつだな。どうせズルしてるんだろ!」
突き放された気分になったまもる君は憎まれ口を叩いて、相談しなくなりました。
さて、まもる君に協力しなかったあきら君を、先生は叱るでしょうか?
これが答えです。
霊能力者だからといって、協力を強要されることは正当な理由にはなりません。
むしろ、友情なり、真心なりを示せば、協力を厭わないでしょう。
それが信頼関係です。
信頼関係のないところで「助けてくれ」「許してくれ」はあり得ないのです。
神仏が存在するなら、そこを見ているといえます。
人間の苦しみは本人の未熟さによる試練であり、神仏からの救済は、信頼関係構築こそ試練が減る基準なのです。
霊能力者も同じ人間としての立場に立つ
ひとりの人間に対し、
「信頼できないから罵っていい」
ではなく、
「信頼関係ができてから恩恵を得られる」
ということです。
信頼関係を構築する前に罵った方は、その人間からもう恩恵を得られないということを覚悟しないといけません。
「信頼できなかったから罵ったが、あとで信頼できるとわかったから、もう罵らないし、罵ったことは当時の理由として当然で謝る必要はない」
という考え方は通らないのです。
人間関係はいわば「児童同士」「生徒同士」の関係であり、霊能力者も含まれます。
神仏は「先生」的立場です。
霊能力があるからといって、「先生」の仕事を強要されることはありませんので、同じ児童の立場、生徒の立場で、霊能力者とそうではない人がともに成長し合う信頼関係こそ、先生である神仏が求めていることと知っていただけたらと思います。もちろん、霊能力を信じず、その恩恵はまったくいらない方は、そもそも友だちでもないので、ともに成長する必要はございません。
同じ人間として、信頼できるかどうかを見るのはかまわないとしても、無礼を冒していいということにはなりませんので、偏見と差別はやめましょう。
特殊な能力を持つ人間にクレームをつけることは人権侵害であり、嫌われる行為ということです。
「霊能力がある人は人を救うべきだ」という偏見と、「霊能力があるなんて嘘に決まっているから、きっと悪意があるにちがいない」という偏見と差別は、人権侵害であり、信頼関係構築拒否にあたるということですね。
霊能力があって、人の偏見や差別に困っている人は、出典元を書き添えてくだされば、この記事を承諾なしに引用してかまいませんので、どうぞご活用ください。