映画『チョコレートドーナツ』を観て。

今更ながらチョコレートドーナツを観ました。

以前レンタル新作の頃に見かけて気になってたやつ。
アマプラで観れたから。
ところどころネタバレっちゃネタバレになるのかもしれないので、一切の事前情報を見たくないという人はここで回れ右をお願いします。


僕は障害者でLGBTQだ。

僕は自分が障害者ってのは、この薄汚れた世界に適応できなかった見返りや、家庭を守るために必死だった子供時代の対価だと思うことにしてる。
今は、ベーシックインカムだと思いながらなる早で自分なりに最大級の社会貢献を出来るためのありがてぇ手段として前借りしてるような気分でもある。

ボランティアに行った施設や、自分が通ってたし勤めてた場所でも、自分以外の障害者にたくさん出会った。
ダウン症の子ももちろんね。

LGBTQの体験もそうだ。

だから、たくさん感情が揺さぶられた。

皆、誰かの笑顔や幸せなんかよりも自分の常識を守ることが大好きだ。
そこにあっても見たくないものには蓋をして、見なくて良いものは見えないフリをする。

どこか遠い場所の出来事だと思えるものは、それが傍にあるものだなんて誰も言わないし目の前にない前提で話をする。

被災も、貧困も、無国籍も、DVも、体験していない人たちが見えないフリをしてる様々はこの国の中で起こっているのにね。

マルコが泣いたシーン、きっと彼が何故泣いたのか分からない人もいるだろうと思いながら見ていた。
きっと玩具をたくさんもらえて嬉しいということをダウン症だからオーバーに泣いているんだろうと思う人もいるだろうと思いながら見ていた。

違うよ。

とてもシンプルだ。

愛された。

自分を見てくれた。

感情が、愛情が自分に向けられた体験に感動している。

たったそれだけのシンプルなこと。

僕はそう思う。

憶測だが、あのうす汚れた人形はきっと母のものだろう。
年齢にしては古く汚れた人形だもの。

彼のものがたったあれだけだったのは、本当にあれだけだったんだろう。
人形は、彼が「忘れ物だ」と渡してくれたから、その瞬間に大切なものになったのだろう。

僕はそう思う。

パートナーにネクタイをしてあげるシーンで僕はたまらず一度止めて、自分を整理した。

何をどう願っても僕は可愛い子の背後からちょっと見下ろしてネクタイをしてあげるなんてことは出来ない。

僕は女で、その中でも比較的チビだからね。

コミュニティに馴染もうとするのも苦手だけれど、僕はそもそも若い頃にセクマイのコミュニティには馴染めなかったし時には排除もされた。
手負いの者たちの安全な場所を侵したのは僕なのだから、噛みつかれて追い出されたってきっと文句は言えないんだと思ってる。

ゲイストリップを観に行ったことがあるが、女性も見れるショーだったために少しガッカリした。
とても素敵で、皆とても美しくてセクシーだったのは確かだけど。
本意気のゲイストリップも、ゲイバーも、僕は体験出来ないことを思い知らされたような気がした。

この映画にも、僕はあの人たちにはなれないことを突きつけられた。

そして、自分が肉体性を受け入れることや肉体性のフリをすることをやってきてる間に、僕は僕自身のココロを置き去りにしてきたのだと知った。

彼らのようになれないこと、自分の体験の中で悔しかったこと、それらはまだ何一つ片付いちゃいなくて。

自分のココロから目を背けてきた人生ではあったけど、こんなにも、こんなことからも目を背けて置き去りにしてきていたのかと知った。

たくさん泣いて、シンプルに涙活もできた。

とても良い夜を過ごせた日だ。

ここのところ、断捨離と朝晩のルーティン作りをしていて、明日もそれをする。

また明日も自分らしくこの課題に取り組めそうだ。

ほなまた。

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