性の枠は複雑だから、結局ただの自分でしかないね。

なんだろう、僕は一人称なんてどうだっていいんじゃないかと再び思いはじめている。

黒歴史と呼ぶ学生時代を過ぎて尚、または職場で、『俺』と言うことに注意やからかいを受けることを恥じて、僕は黒歴史で手に入れた『俺』という一人称から『私』へと変える特訓をした。

それまでは、あたし・ウチ…じゃれてあちきだのなんだのと、定まりのない一人称だった気がする。

面接では男性だって『私』という。

文章では私というし、詩であれば僕という。

それは性差のない一人称。

世間のニュアンスがどうであれ、歴史も事実もそこにある。

だから、大丈夫。

納得させる言い訳を探すのは得意だった。

そうして過ごしてきた多くの時間は、様々な一人称を僕の中に定着させていった。

女らしい振る舞いも、今では自然と出てくる。

飲みの席で両手を添えてお酌をすることも、家庭や様々の経験の中で鍛錬されてきたことだ。

親父は、自分が飲み遊びたいからだけでなく、俺のこうした性の違和感を正そうともしていたのかもしれない。いや逆か、そういう言い訳を家族に説得し、通いたい店の子として働かせたのかもしれない。

まぁ、そんな真偽はもう聞けないわけだが。

FTM…日本に昔からある言葉でいえばおなべちゃんのお店に体験入店したことがある。

結果としては、残念ながら理解出来なかった。

ポテトフライを1本づつ摘んで食べたらお客さまに笑われてしまった。男たるものポテトはガッと掴んで頬張るらしい。

食い方なんぞ人それぞれで、芋をそんな風に食ったらパサパサして噎せるしなんか男らしいっつーよりガサツなだけな気がして好かなかった。

あと、油まみれになる指が増える。親指と人差し指、または箸でつまんで、急に歌えって言われたときに噎せない口の状態は維持していたいものだ。

カッコつけるのはカッコつけたいときだけでいい、常にガサツなふりをして品位を欠くのは心の根っこが嫌だと叫ぶ。

常識がない、ズレてる、アホ、馬鹿、見下した意味での障害者、不思議、電波、ガキかよ幾つだよババア、そんな言葉はまぁいい。

よかないが、まだ良い。

カッコつけるなら僕のカッコつけたいスタイルがある。

筋肉隆々の短髪野郎なんかじゃなくて、僕の大好きな美男子たちのように。

んな事言ったって、普段の自分は随分と女ってものが板についている。

女の集団心理はわからないし、感情でモノを言う理解不能で不毛なあの喧嘩は避けたい。

女同士のマウントだとかいう心理が長らくわからずにいたが、例えばゲイの男性を好きになったと妄想してその人がテキトーな男に色目を使っていたとすると苛立ったから、多分こういう心理なんだろうと思うことにした。

昔、彼女が男と遊びまくっていたときのような憤りに近い感情だ。

きっと、好いた相手が本質的な恋愛対象にあちこちと色目を使うのが嫌なのだろう。

とはいえ、僕がネットの極狭い場所の中でひっそりと遊んでいた趣味の場での振る舞いの悪列たるやはまた別の方面でしょうもねぇクソ野郎だったので、きっとお互い様なのだろう。

そのコミュニティでの僕は、曰く『人たらし』なんだそうな。

治安維持と情報と信頼が得られ相手も癒されるのならば、どこに不服があるのかは正直よくわからないのだが…しかし、きっと恨んだやつもいることだろう、裏切りだと思った者も。

匿名の場所でのそんな事をここで書く理由が僕にもわからないが、なんだか記しておかねばアンフェアな気がした。ただの自己満だ。

ヘテロセックス、とりわけこの肉体の役割をこなすことは、パートナーであろうとも年々耐え難くなっていった。

自己暗示や理性の遮断が通じなくなっていって、果ては狂ったように風呂で身体を磨き続けもした。

きっと、そういうことなんだろう。

俺はどうしようもなく女であるが、脳みそはどうしようもなく雄なのだ、多分。

メンヘラ女ではあるのだろうが、では俺を紛うことなき雌だと言うのなら、大切なものを失ったあとの男のどうしようもなさにどうして俺を重ねて説明することは拒否するのだろうか。

ここぞというときに腹の座ったのは案外妻の方であったりする。臆病で女々しくて…そんなパートナーの背中を蹴り飛ばしてでも送り出してやり、家庭や子…大切なものを守ろうとする女性の姿は本当に強く、美しく、頼もしいと思う。

僕には到底できないであろうし、そんな強さはあんまり理解できずにいるんだ。

女々しさも、弱さも、見栄っ張りも、すごく世のいう男性のようだと自分を説明しても、伝わった経験は1度たりてないのだけれど。

そんななので、僕はハッキリとはどの枠にも混ざることができない。

だから自分を、とりあえずクエッショニング(クエスチョニング)という場所に置いている。

おそらくは、それが1番自分も安定し、各コミュニティを不用意に荒らしてしまわないための、自衛心なのだろう。

今日はまとまりのない記事ですまない。

ゲイ・BL、その取りようは人それぞれなのだろう小説を読んで久しぶりにダッセー泣き方をしてしまった事が、おそらくこの記事を書かせたのだろうと思う。

体感より随分と深夜になっていて驚いている。

もう眠らねばならぬので、最後までとても雑な記事で申し訳ない。

では、おやすみ。

どうか世界のそれぞれの君が温かな夜を過ごせることを願いながら、世界中の1人でも多くが幸せな夜を過ごせることを願いながら。

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