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コスパ、タイパで生活している若い人たちへ

別にお説教じゃないけど、老人の繰り言です。読みたくなかったら、読まないで下さい。

先日、マッチングアプリの話題で、コスパ、タイパが大事だと若い人が言ってた。タイパは初めて聞く言葉だったが、だいたい意味はわかった。
恋愛は、コスパ、タイパが悪い。そりゃそうだ。1人の相手と付き合っても、それが結婚に繋がるとは限らない。繋がったとしても、デートしたり、ケンカしたり、仲直りしたり、ラブホ行ったりと、時間もお金もかかる。それで別れでもしたら、またイチから相手を探さなくてはならない。しかも、結婚した相手がハズレだったりしたら、離婚なんかしなければならなくなったりもする。
これらの一切合切を「金と時間のムダ」と考える人が結構いるそうなのだった。
だから、元カレとか元カノと過ごした時間は「ムダ」だった。‥‥そうなんだ。その発想に年寄りは素朴に驚く。
そんなことを言われると、ついつい「だったら生きてること自体ムダじゃん」とか悪態をつきたくなるが(もうついてるな)、それじゃ話が終わっちゃうので、ちょっと我慢。

で、先日も書いたけど、こういうコスパ、タイパはわりと最近の話だけど、その源流となった「マニュアル世代」の歴史は結構古い。私たちの時代にも既にその萌芽はあったような気がする。(もう40年以上も昔の話だ!)
思い起こすのはバブル時代前夜。マルキン、マルビなんて言ってた頃(どうでもいいのでググって下さい)、デートのマニュアルは既にあったよな。悲しいかな、私は全く縁がなかったけど、知識としてアカプリの話なんかは知ってた。アカプリというのは、今は亡き赤坂プリンスホテルのことで、ここで彼女とクリスマスイブの一夜を過ごすのが、若者のステータスだったのだ。アカプリのレストランでフレンチのフルコースを食べて、翌朝、ティファニーのジュエリーをプレゼントするという定番コースの話は雑誌なんかによく載ってた。10万~20万円コース(ジュエリーを除く)と聞いて、「そんな金のあるヤツがいるんだ」と驚いたものだ。そして、大人気のアカプリクリスマスは、25日のチェックアウト時に来年の予約をしておかないともうとれないとか。それで、彼女と別れでもした時には、あわてて11月までに新しい彼女を見つけるのだとか。まあ、盛ってるところもあっただろうけど、かなり事実だったと思う。有名なアッシーとかメッシーなんてのも、考えてみたらマニュアル化された男女交際の分業化だ。かく言う私だって、フレンチを食べる時、「お飲み物は?」と聞かれたら、すました顔で「キールを」と言うのが通だという知識は持っていたし、その知識は今でもたまに使っている。(すました顔はさすがにしない)
ということで、1980年代には、既に「マニュアル世代」は存在していたということになる。起源はもっと古そうだ。

これは何なのだろう? 勝手な想像だが、これは日本の「恥」の文化に由来するものではないか? とにかく日本人の大多数は、恥をかくことを異様に恐れる。大昔には「恥をそそぐ」ために腹を切る習慣まであったぐらいだ。だから、「初めからできる人なんかいないよ」とか「誰だって初めは失敗するものさ」なんて言われても、やっぱり恥はかきたくない。だから、できれば「初めから完璧にやりたい」という強迫観念みたいなのがある。「初めての方ですね?」なんて見抜かれるのは屈辱だ。それ故か、「冠婚葬祭入門」とか「テーブルマナー」の本なんてのが昔からやたらと多い。最近テレビでよく見かける葬式のCMだって「私にお葬式なんかできるかしら?」と失敗、恥の不安を煽ってる。葬式に慣れてるヤツなんているはずがないのに。だから、何でもかんでも、事前準備、予習に余念がない。海外旅行にでも行こうものなら、もう路地裏に至るまで、当地の地図を完璧に調査、記憶し、観光ガイドができるぐらいに把握しないと気が済まない。
まあ、これは日本人の几帳面さと言えば聞こえが良いが、逆に言えば、失敗を恐れる臆病さであって、トライアンドエラーが超苦手なのだ。よく言われる「日本人は英語がしゃべれない」原因もここにあるのだろう。言葉なんてトライアンドエラーで習得するしかないし、「とりあえず通じたらいいや」なのだが、そういう発想が日本人にはできない。もう、初めから完璧で正確な英語でないといけないし、発音だってネイティブ並みでないと‥‥。「あなたネイティブじゃありませんね?」って、どんなにがんばっても顔見りゃ見抜かれるのにね。

話を戻そう。
このマニュアル文化、いや、ひょっとしたら日本古来の「恥」の伝統文化が、極度に失敗を恐れさせ、トライアンドエラーを妨げているのではないか? そして、既にお気づきと思うが、「コスパ」「タイパ」は、まさにトライアンドエラーのアンチテーゼなのだ。
「私、失敗しないので」というドラマのセリフがあったが、多くの日本人、特に若い日本人ほど、この「失敗しない人生」を追求する傾向があるように思う。勉強にしても、仕事にしても、恋愛にしても、結婚にしても‥‥。近年流行の「終活」なんて、死に方さえ失敗したくないという意識の表れではないか? ここまで行くと、もうちょっと病気じゃないかしらん?
で、拍子抜けするぐらい当たり前の質問をしたい。
「あなたは、失敗しないために生きているのですか?」「あなたの人生の目的は失敗しないことなのですか?」
何を今更と言われそうだが、案外これは重要な問いかけだと思うのだ。
もちろん、「とりあえずやってみよう」とか「やりながら考えたらいいよ」とか「失敗したらやり直せばいい」なんてありきたりなアドバイスを言うのは簡単だ。「マニュアルやコスパやタイパに縛られて窮屈じゃないの? そんな人生楽しいの?」とお説教するのもアリかもしれない。
でもね、それは「やりたいことをやってみろよ」「一度きりの人生、何のために生きてるの?」という大前提があるわけでしょ? もし「やりたいことなんかない」「何のために生きてる?って‥‥別に」「楽しい人生って何? それおいしいの?」と言われたら、どうします?
何の因果か、教師という職業を長年やってきて、イマドキノワカイモンの本音は、実はその辺にあるのではないかと実感しているのだ。(もちろん全員ではないが)
「そんな大げさな」と思われる方は思って下さい。私だってそれが杞憂であってほしいとは思ってるんですから。
その原因はいろいろあると思う。例えば、長年の不況=「今日より明日が良くなる」とはとても思えない世界観=漠然とした将来への不安、閉塞感。ネットやスマホによる人間関係の分断、コミュニティーの崩壊。その辺りがよく指摘されるし、私もそれは大きいと思う。特にね、「明日、将来、未来に希望が持てない」というのは大きいと思う。これってね、生きるモチベーションに関わる大問題ですよ?
そりゃ、守りに入りたくもなるし、保守的になるだろうし、失敗したくなくなるだろうし、「せめて現状は維持したい」「人並みの安定した生活がほしい」と望むことを批判、非難なんかできないんじゃないだろうか? 国連だってサスティナブルなんて言ってるじゃない? サスティナブル=持続可能=現状維持ですよ?
少し前のワカモンなんかは「あなたたちは今の若者は夢がないとか批判するけど、夢なんて持てたのが贅沢だし、そんな恵まれていたあなたたちの時代がうらやましいんですよ」と言ってたけど、今のワカモンは、もうそんなことすら言わないですよね。そんな時代は、もうはるか歴史の彼方で、幕末の志士の英雄譚みたいなものかもしれません。

と、ここまで書いて、「じゃあ、どうすればいいのさ?」と言われても、処方箋が思い浮かばない。もちろん先行世代としての我々にも責任は十分あるんだけど、かと言って「ごめんなさい」と言っても始まらないし、彼らもそんなのは全く望んではいないだろうし。

老兵は死なず、ただ消え去るのみ、か。
でも、これも敵前逃亡みたいで、ずるいっちゃずるいよね。

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