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三島由紀夫ってご存知?

私の書く戯曲にはやたらと三島由紀夫が登場するのは、知る人ぞ知る話ですが、私みたいに三島を語りがたる輩は絶滅危惧種になっていました。
ところが、何の拍子なのか、最近若者の間で、ちょっと三島由紀夫ブームなんですってね。
まあ、ブームとか言ったって、そもそも純文学(これももう死語ですねぇ)なんか読む人間自体が希少生物みたいなものだから、数で言ったら、微々たるものでしょうけどね。

突然ですが、実はね、大学の時、卒論のテーマがいろいろ変遷してましてね、1年の時は、何か根拠のない自信に満ちあふれてて、作家論じゃない文学論を書こうと思ってました。題名も決めていて「文学は生産するか?」という題名。マルクスとかエンゲルスの文学論やら芸術論に始まり、サルトルのアンガージュマンの話とか、結局彼が映画館しか守れなかったとか、そういうエピソードを入れて、それから文化大革命の話も絡ませたりして、それこそ、今流行りの言い方で言うと、「文学って不要不急なのかな?」みたいなのを書こうと思ってた。でも、まあ、「これは2~3年では無理だなあ」と思って諦めた。

それから、2年生になって、だったら三島由紀夫を書こうと思った。これもタイトルがあって、「三島由紀夫の身長があと10センチ高かったら三島由紀夫はいなかっただろう」というやつ。まあ、タイトル通りに、劣等感、コンプレックスを主軸に書くつもりだった。ただ、そのコンプレックスというのは、よく言われている肉体のコンプレックスとか、戦争で死ねなかったコンプレックスじゃなくて、自分の偽物臭さのコンプレックスなのね。偽物臭さというのは、「考えちゃう自分」に対するコンプレックスなわけ。ほら、人間てのは「考える葦」で、知性みたいなのがあるから人間なんだみたいに言われるけど、その一方で、衝動というか、激情というか、そういう理性でコントロールできない動物性みたいなところ、どうしようもない愚かさみたいなのがあるでしょ? 例えば、人を好きになるのに理屈からは入らないじゃない? 「この人はカクカクシカジカであるから愛さねばならない」というんじゃなくて、なんかわかんないけど、好きになっちゃった。それこそフォーリンラブなわけですよ。まあ、いわば性的衝動なのかな? でもね、三島というか平岡少年、青年には、そういう衝動性、愚かさが著しく欠けていた。それでともすると「カクカクシカジカであるから」という行動規範を持ってしまっている。まあ、それはすごく知的で賢いということでもあるんだけど、それが偽物臭い、いわば「人間らしさ」に欠けていてすごくイヤでコンプレックスだったと思うのね。「生きるってそういうことじゃないだろう?」って、これまた理屈で考えてしまってますます自分がイヤになるという悪循環。だから、その対極にあるものを憧憬し、美化していたのね。それは何かと言えば「愚かさ」であり「馬鹿さ」なわけです。例えば、国を愛するとか、天皇陛下のために死ぬなんてのは、合理的に考えたら、愚かなことでしょ? 少なくとも理屈で出て来る結論じゃない。だからこそ、その「愚かさ」「馬鹿さ」は、すごく尊い。三島の小説には、そういう、非論理的というか、非合理的なヒロイズム、美学がたくさん登場する。三島は2.26の軍人が好きだったけど、何故かといえば、極論すれば、愚かだったからだと思う。自分にとって何の得にもならないのに、国のために命を賭けるという究極の「無意味性」に、自分の偽物臭さの対極にある美=「本物の生」を見ていたんだと思う。三島は、美的天皇制を説いていたけど、自分の立場はあくまでその美の側じゃなくて、美を守る「武」でありたいとしていたのもそういうことだと思うのね。だからこそ、知の対極にある筋肉ゴリラであろうとしたし、無心に御神輿をかつぐ若者であろうとしたし、その延長線上に、盾の会も自決もあったと考えるのです。それ故に、損得、経済的合理性しか考えない、つまり「計算高く考える」戦後日本を唾棄したわけですよ。三島は、市ヶ谷で「精神性を失った戦後日本の空洞性」を非難したけれど、「精神なんかでメシが食えるか!」というのが、戦後の功利主義の論理です。そして、自分の偽物臭さの中に、その功利主義、合理主義に通じる物を感じていたんじゃないかな? とすれば、あの決起は、彼にとって45年に及ぶ自らの虚構性に対する自己否定の総決算であったと言えなくもないでしょう。すなわち、衝動的に「愚かに死ぬ」ことによって、したりげな「偽物の自分」を超克して、「本物の生」の熱狂を獲得するはずだったのです。

ただね、惜しむらくは、市ヶ谷の決起は、無謀で愚かでアナクロな右翼作家の衝動的行為であったはずなんだけど、でも、そういう筋書きを既に緻密に考えてしまっている三島がいるわけで、その時点で既に衝動ではない。その証拠に、11月25日の朝に「豊饒の海」の最終稿を書き上げているわけで、そんな衝動的行為などあるはずがない。そして、その入念な準備からして、市ヶ谷の決起が失敗して自決するというストーリーまでが織り込まれている節があるのだから、結局限りなく偽物臭い。「やむにやまれぬ愛国的な衝動」を装って演出した虚構でしかないわけです。その意味でかっこわるい。彼が憧れたふんどしをしめて神輿を担ぐ若者達の無心の熱狂、陶酔、エクスタシーにはほど遠いという意味で、三島はついに自らの宿痾とも言うべき偽物臭さ、虚構の人生を払拭できなかった。

まあ、そもそも小説の書き方からして、三島は「カクカクシカジカ」式だったのね。小説の書き方にはいろいろあるけど、一つの典型は、「筆の勢いに任せる」というパターンで、構想、プロットはほとんどなくて、思いつくままに書いて行くというやり方がある。例えば太宰治の「駆込み訴え」みたいな書き方。その対極にあったのが三島で、彼は、ほとんど完成稿に近い形にまで草稿を作らないと書けない人だったらしい。これは別に悪いことでも何でもないけど、そういうところにも全て計算の上でしか動けない彼の特徴が現れていると思う。そういう自分の「人間味」のない「かっこわるさ」が、三島のコンプレックスの本質ではないか?みたいなことを書こうとしたんだけど、なんか無茶苦茶長くなっちゃった。すんません。


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