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記憶を失くした妻にもう一回惚れてほしい男と絶対に惚れ直さない女

 意識、戻ったみたいです! でも、あの記憶が…。看護師に言われ、山田は走った。直子の意識が戻ったのだ…。ついに、ついに。医師からは「いやあ、戻らないでしょうねえ、うん」と言われていた直子が。一週間前に信号無視で横断歩道に突っ込んできたタンクローリーの下敷きになった直子が…。そのあと二トントラック、コンクリートミキサー車、クレーン車、キャリアカー、自衛隊高機動車…と立て続けに轢かれた直子が。直子、直子。山田は病室に走っていく。
 扉を開けるとそこには、半身を起こした直子の姿があった。「直子、直子」直子のもとに駆け寄り、手をにぎる。瞼が開き、瞳がしっかりとこちらを見ている。よかった。付き添いの看護師が、
「でも、記憶が…」
「記憶が、戻ってないんですか?」
「はい。記憶を失っているみたいです」
 そっか…。ショックである反面、無理もないよな、と山田は思う。あれだけの事故に遭ったんだ。でも。山田は思う。俺を愛してくれてた直子だ。きっと、惚れ直してくれる。そうすれば、きっと二人の愛はより深いものになる。「直子」力強く呼びかけ、山田は直子の目を見つめる。直子は、困ったように瞳をきょろきょろと動かしている。看護師が直子に、
「旦那さんですよ。ずっと寄り添ってくれてた、旦那さんです」
「旦那…」
 直子はしばらく山田を見つめ、
「直子…」
「…」
「直子、おれだ」
「…ちょっと無理かもしれないです」
 山田が、
「え?」
「あの、この人が旦那は無理かもしれないです」
「無理?」
「はい」
「あ、いや直子。大丈夫だ。君は記憶を失ってるんだ。戸惑うのも無理はない」
「いや冷静です」
「いやいや」
「たしかに意識は失ってましたが、取り戻したいま、いたって冷静です」
「いや直子、君はいま、戸惑ってるんだ。大丈夫だ」
「大丈夫とかではなくて、本当に無理だなって思うんです」
 ははは、思わず山田は笑ってしまう。意識を取り戻すと、人はこんなにも戸惑ってしまうのか。いやあ。
「まあいきなりな、旦那と言われても困ってしまうかもしれない。たしかにそうだ、ごめんな急に。うん、いったん自分も落ち着こうと思うよ」
「いや、急にとかじゃなくて」
「ん?」
「その…生理的に無理というか」
「ん?」
「顔が無理なんです」
「顔というと誰のかな…?」
「あなたの」
「あなたの…」
「あなたの」
 直子は山田の眉間のあたりを指差す。
「ああ、へえ」
 ん? そうなの? そういうことあるの? 記憶失ったら、惚れなおすんじゃないの? 聞いてないなあ。それは聞いてないなあ。看護師は無表情で二人のやりとりを見ている。
「はは、ははは。まあ顔が無理でもね。その、まあオーラ、というか。雰囲気というか、コミュニケーションというか。人対人って、外見とかじゃないから」
「まあそうなんですけど、それを加味しても無理っていうか。顔が無理なんですよね。顔の無理さがすべてを覆い尽くしてるというか。どれだけコミュニケーションがあれでも、顔が一切を崩壊させるというか」
 ん~、おかしいぞお。聞いてないなあ。
「そうだ、直子。写真を見てくれ」
 山田はスマートフォンのカメラロールにある二人の写真を見せる。昨年行った軽井沢旅行からはじまり、一昨年の軽井沢旅行、三年前の軽井沢旅行、四年前の軽井沢旅行、五年前の軽井沢旅行、六年前の軽井沢旅行、七年前の軽井沢での出会い…。直子の瞳はスクロールに合わせ動く。見入っているようだ。いいぞ、いけ、写真。いけ、写真。すべて見せ終えたところで、直子が、
「で?」
「え?」
「効いた?」
「は?」
「効いたでしょ?」
「いや…無理だなあとしか」
「え?」
「私と、顔が無理な男性が一人写ってるなあと」
「そんな感想ある? 思い出とかは」
「わたし記憶失ってるので」
「ああ、そっか」
「はい」
「ちょっと待って」
「はい」
「もう一回記憶失えない?」
「無理ですね」
「え、どうすればいいの?」
「どうすればって言われても…」
「とりあえずでも、あれだから、旦那と妻だから」
「離婚します」
「え」
「離婚します」
「無理。それはこっちが無理」
 直子が看護師の顔を見る。看護師は口を開き、
「相手が離婚に応じない場合は、家庭裁判所で離婚調停を申し立てましょう。調停委員を介在させて、お互いの意思が伝えられるので、夫婦間で直接話し合う必要もありません」
 直子が、
「じゃあそれで」
「いやあ。それでって言われても…」
「以降は裁判所のほうで」
「いやいや」
「裁判所で」
「直子、おい直子! おれだ、山田だ! 山田だぞ!」
 山田は両手を開き、ハグのポーズを取る。
「裁判所で」
「思い出さない? ねえ」
「わたし記憶ないので」
「へい直子! おれだ山田だ~!」
「裁判所で」
「いや待とうよ」
「裁判所で」
「冷静になってよ」
「わたしは冷静です」
「はあ」
「裁判所で」
「死ぬ」
「はい?」
「俺は死ぬ」
 山田は舌を出し、両の歯で先端を薄く噛む。
「噛み切って死ぬ」
「はい?」
「直子といられない人生なんて死んだほうがましだ」
「ああ」
 山田は舌を噛み切ろうとするが、勇気がない。
「だめだ」
「裁判所で」
「ちょっと」
「裁判所で」
「それ以外も言ってよ」
「裁、判所で」
「読点打たないでよ」
「裁。判所で」
「句点打たないでよ」
「さい☆ばんしょで」
「つのだ☆ひろみたいに言わないでよ」
「裁判所で」
「マジで言ってるの?」
「はい」
「ちょっともう一回顔見て」
「…」
「いける? いけそう?」
「裁判所で」
「ねえ」
「はい」
「そろそろ面会時間終了です」
 看護師が手で制す。
「ちょっと」
「終了です」
「いや」
「終☆了です」
「すぐ言う」
 看護師が指パッチンを鳴らす。病室の扉が開き、サングラスを着用したスーツ姿の身長二メートル超えの男が二人、山田の両脇をかためる。「ちょ、痛い痛い」男二人が山田を抱きかかえる。直子、嘘だろ。嘘だと言っておくれ。すると扉の締まり際、直子の口がゆっくり動く。音は発していない。扉が閉まる。
 男二人に担がれながら、山田は最後の言葉を反芻する。あ・い・あ・う・お・え。愛してる? いや「裁、判、所、で」だ。山田は、頭の中で何度も反芻する。裁判所で。病院の入口扉が開く。視界がいつもより高い。街の輪郭を、残照がなぞっている。男二人に、
「おれは、どこに運ばれるんだ?」
「言えません」
「なんで?」
「裁判所で」
「それも裁判所なの?」
「はい、裁判所で」
「なんでそれしか言わないの?」
「顔が無理なんで」
「君たちも?」
「はい」
「二人とも?」
「「あ、はい」」
「へえ、そっかー」
 田中は裁判所を思い浮かべた。罪を犯しているわけでもないのに、裁判官の前に座り、懲役刑を宣告されるところを想像した。

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