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人擬き

メチルフェニデート(英語: Methylphenidate)は、ドーパミン及びノルアドレナリン再取り込み阻害作用によって前頭前皮質や線条体を刺激し、脳機能の一部の向上や覚醒効果を主な作用とする精神刺激薬である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/メチルフェニデート

 大学進学を機に上京して、改めて自分が社会での生存が困難なタイプであることを自覚した。水道事業の民営化が成功していたなら、僕の家の水道は5回は止まっただろう。
 ワンルームを狂ったように歩き回りながら、水道料金の口座振替開始届を書き上げた日に、僕は勢いそのままメンタルクリニックに駆け込んだ。

 そのクリニックの経営は順風満帆のようで、僕は超満員の、居心地の悪い待合室でうんざりする量の質問にチェックをつけたり、A4の白紙に木の絵を描かされたりした。
 ずいぶんと待たされて通された診察室で僕の問診票見た先生は、典型的なADHDの傾向があると言った。先生は僕が通学鞄にすべての教材を詰め込んで通学していたために、その重量で自転車の前カゴを高校3年間で7回破壊したエピソードをたいそう気に入ったようだった。

 あれこれと問診を終えて、投薬を含めた今後の話をした後で、先生は「今まで辛かったですね。これからはきっと楽になりますよ。」と心からの激励をくれた。
 僕は"今まで辛かった"のだろうか?

 地元を出るまでの18年、僕は"普通に"生きることに成功していたように思う。
 小中となんてことのない公立校に通い、高校は偏差値が絶対に70に届かない、地域で永遠に二番手の、典型的な自称進学校に進み、これといった活躍もなく、とはいえ問題もなく卒業した。数学が(なんなら算数が)壊滅的に理解できなかったために私大以外への進学は早々に見切りをつけたが、そのおかげで浪人は避けることができた。
 クリニックの先生のお気に入りになるようなエピソードはいくつかあれど、僕自身はそんなものだと思っていたし、これといって深刻な問題はなかった。水道が止まりそうになることも深刻な問題ではなかった。

 そんなわけで、何がどう楽になるのか今ひとつピンとこないまま、僕は薬を飲み始めた。
 はじめに処方されたのはストラテラという薬だった。その真っ青なカプセルをはじめて見た時、これが本当のブルーピルかと苦笑いを堪えられなかった。

 服用を始めて一月半ほどが過ぎたころ、小さな変化を感じた。それは劇的なものではなかったし、何が変わったのかと問われるとうまく説明できないが、とにかく、いくらか物事がスムーズになった。水道代は口座から引き落とされていたし、人の話が聞こえなくなることも減った。ちょうどウエルベックの『セロトニン』の日本語訳が発売される頃で、それを発売日に買いに行くことにも成功した。しかしながら、不幸にも僕は嘔吐にも悩まされた。

キャプトリクスの服用で見られる最も一般的な副作用は、嘔吐と、性欲の喪失、不能などだ。

ぼくは嘔吐で困ったことは一度もなかった。

ミシェル・ウエルベック『セロトニン』、関口涼子訳、河出書房新社、2019年、p.6

 これは"どちらも"深刻な問題で、僕はストラテラの服用を中断せざるをえなかった。ただ難儀なことに、一度楽になる可能性に気づいてしまったために、これまでの生活に戻るのはどうにも気が進まなかった。そこでもう一つの薬を試すことにした。コンサータだ。

 しかしそれまで通っていたクリニックではコンサータを処方できないようだった。というのもコンサータは管理システムに登録された医師のいる医療機関だけが取り扱うことができる薬であり、また患者自身も処方対象として登録されている必要があった。つまり転院が必要だった。

 紹介状に目を通した先生は、想像していたよりもすんなりとコンサータを処方してくれた。淡々と登録作業をしながら、新しい先生は対照的な激励をくれた。曰く「大人になって病院に来る人はあくまで"傾向"があるだけ。本当に深刻なら子どものうちに親が病院に連れて行っているから。なんであれ、使えるものを使って少しでもやりやすくしていくといいよ。」。そして"使えるもの"としてコンサータの説明と、その気になれば使える諸々の支援制度の話を受けて、(ついでに先生のYouTubeの宣伝を受けて)、僕は登録患者として青いカードを受け取った。

 コンサータの効果は絶大だった。脳内で渦巻く思考を制御できなくなることも、人の話が聞こえなくなることもなくなり、さらには携帯電話のプランを変更することにも成功した。今回は副作用もなかった。

 コンサータによって"普通の"人間になれたおかげで、これまでがいかに辛かったのかを理解することができた。どうやら"普通の"人間は隣のテーブルの会話に耳が持っていかれて、目の前の相手が話していることが聞こえなくなるなんてことはないらしい。とにかく僕はようやく人間になれたようだった。
 しかし問題はあった。ストラテラと違い、コンサータには時間制限があるのだ。

 個人差はあるようだが、僕が人間でいられるのは8時間が限界だった。それを過ぎると僕は今までどおりの人擬きに戻ってしまのだ。そして人間の感覚を知ってしまったことで、人擬きに戻ることに苦痛を感じるようになってしまった。特に薬が薄れていく時間(およそ7時間経過後)は、少しずつうまくいかくなっていくことを自覚できてしまうために、思わず泣きたくなった。

 この感覚と折り合いをつけるにはかなりの時間を要したが、ついに僕は8時間で充分だと思えるようになった。
 つまり8時間あれば、僕は労働中は人間のふりをすることができるので、それで充分なのだ。そもそも人間であることが要求されるのは、人間の社会の中にいる時だけなので、巣に帰った後は人擬きでよいのだ。少なくとも自分にそう言い聞かせることに成功した。

 さらに言えば、人擬きにしかできないこともある。文章を書いたりすることがまさにそうだ。無秩序に飛び交う思考のままに、文章を書き連ねる感覚は人間では味わうことができない。決してこれを才能だの個性だのと呼ぶつもりはないが、この楽しみを手放すのは少し惜しい。

 そんなわけで、僕は薬の力でうまく人間のふりができる人擬きとして生きている。
 そしてnoteを書き始めてから、人間と人擬きの奇妙な共闘関係も生まれた。人擬きが好き放題に書いた文章を、人間が体裁を整えることで完成するのだ。
 とにかく僕は相変わらず、"普通に"、なんとか、うまくやっている。

 そういえば先日の飲み会で、職場の他部門の先輩から「薬なに飲んでる?俺はデパス!」と言われた。思わず「コンサータとエビリファイ!」と元気に答えたが、実は人擬きだとバレているのだろうか?あるいはスタンド使いは惹かれあうのか。
 そんな先輩はつい先日子どもが産まれて育児休暇に入った。案外みんな必死に人間のふりをしているのかもしれない。


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