見出し画像

日本古来の武術に共通する「道」と、レイキの真髄と。

昨日、レイキについてこんなこと呟いた。

レイキって、「道」だと思うんだ。
弓道や剣道、合気道、武士道などと同じ「どう」なのだと。

小学生のころ、親の勧めで合気道を学んでいた。師範は80歳を超えているんじゃなかろうかという、おじいちゃんだった。小柄で、右手の甲に大きなイボがあったのを覚えている。やさしくて、細やかで、柔和な人だった。そんな人が、自分よりも大きな肉体の盛りの大人の男性たちを、まるで子どもかのようにひょいひょいと投げ飛ばしていくのは、魔法のようだった。

そんな師範に一度、「どうして合気道や茶道、剣道には、『道』という言葉がついているの?」と尋ねたことがあった。

師範は一瞬、虚を突かれたような顔をした。でも、すぐに眉尻をさげて「とてもいい質問だ」と笑ってくれた。


「合気道だけではなく、さまざまな日本古来の武道に『道』という言葉がついているのは、こういった修練が、『道』そのものだからなんだよ。

たどり着く目的地がある。その目的地を目指して、歩いている。その歩いている『道』そのものに、意味がある。

どのようにしてその道を歩くのか。どのような態度や在り方で、その道と向き合っていくのか。そして、『道』の先にある、悟りの境地に、どうやってたどり着くのか。

合気道をはじめとした武道は、ボクシングなんかのように、ただ相手を叩きのめして勝つためのものではない。その修練・鍛錬の根底には、もっと深い目的や目指すべきものがある。それは、力や小手先の技術を上達させるだけでは、たどり着くことはできない。

合気道はつまり、「合気」の「道」なんだよ。合気道を学ぶとはつまり、人生そのものが、「合気」の「道」となるということだ。人生をかけて、探究しつづけていく。そこに終わりはない。だから、日本の武道には、みんな、『道』という言葉がついているんだね」


師範はたしか、そんなようなことを語ってくれた。小学校の低学年だったわたしには、正直あんまり意味がわからなかった。


レイキを学びはじめて4年半。マスターになって3年の月日が流れた。その間、わたしは何度もレイキから離れた。レイキがわからなかった。納得できなかった。腑に落ちなかった。

一般的に言われる「レイキは、宇宙の高次元の愛と光のヒーリングエネルギーです(♡)」という解説が、どうにもしっくりこなかった。肌にあわなかった。疑問や質問がたくさんあった。数え切れないくらいあった。でも、それらの質問を師匠やほかのレイキヒーラーやマスターたちにぶつけてみても、返ってくるのはフワフワとした答えばかりだった。なんだったら、質問の意図も答えももっていないから、それっぽい答えでその場を凌いだような回答ばかりだった。

「そもそもそんなに深く考えなくてもいいんちゃう?」と言われたことも、何回もある。でも、だって。わからないのに、わかってないのに、教えられない。納得してないのに、腑に落ちてないのに、伝授できない。それは、わたしの魂が、納得しない。

わたしの師匠たちは、「あなたはそれでいい。迷って、迷って、迷い続けたらいい。ほかの人から答えをもらっても、あなたはきっと納得しない。自分の力で、答えに気づくことで、納得できる人だから。それでいいよ」と背中を押してくれた。

瞑想のなかで、何度もレイキの創始者である臼井先生につながって、問いをぶつけ続けた。臼井先生は、ひたすらに沈黙を続けるのみだった。「迷え。自分の答えを見つけるまで、迷ったらいい。それでいい」と。

一度、瞑想のなかで臼井先生にレイキをしてもらったことがある。もう亡くなっている人にレイキをしてもらうって、どういうことやねんって感じなんだけど、本当にそうとしか思えない。

そのとき、わたしはレイキの別流派から学びなおしを受けたところだった。レベル3を受け終わって1週間経っただろうかというタイミング。うつになった。目が覚めたら、鬱状態だった。

なんで。どうして。どうしていつも、闇から抜け出せない。どうして。

そんなようなことを、考えたのだと思う。

「だと思う」と言ったのは、覚えていないからだ。

わたしは泣きながら、レイキのレベル3で学ぶ、見えない高次元の存在とつながる瞑想をはじめた。臼井先生に泣きついた。なんで、どうしてって。どうしたらいいの。なんとかしてくださいって。

そしたら、突然頭のなかで「それも想念だ」と声がした。わたしが思っている “闇から抜け出せない” という思考は、確固たる事実ではなく、それすらも「想念」つまり “思い込み” なのだと。

目からポロリと鱗が落ちた、その瞬間。
脳みそに爆風が激突したような衝撃を受けた。

実際、そのときは胡座を組んで畳に座っていたのだけれど、ぐらりと頭が後ろに揺れて、身体ごと、背中側にひっくり返りそうになった。

なになになに?!

火炎放射器のような、爆風と熱風が、頭に直撃している感覚。吹き飛ばされそうになる。なんとかお腹に力を入れて耐えていると、今度は毛色が変わって、濁流が押し寄せてきた。大雨の直後の川に放りだされ、濁流に押し流されて今にも溺れそうになっている感覚、といえば想像がつくだろうか。

いやいやいやいや、なに?!?!普通に怖いんですけど!死にそうなんですけど?!?!臼井先生?!ねえ、これ、ちょっと、臼井先生なの?!?!

ちょっと半泣きになりながらも、瞑想状態から出なかった。そしたら、今度は頭がぐわんぐわんとまわりはじめた。もう、めまいどころの騒ぎじゃない。しばらくグルグルと、コーヒーカップに乗って身体ごと畳の部屋自体が回転してんじゃないかと思って、薄目を開けて確認してみたら、部屋は止まったままだった。また目を閉じて、耐える。

しばらくしたら、今度はやさしい光の風のようなものが、ぶわああああっと身体全体を通り抜けていった。やさしいといっても、これも強風のようなものだ。光の超濁流って感じ。

それもしばらくすると、パタリと止んだ。わたしは、肩でハアハアと息をしながら目を開けた。部屋はさっきも同じ。なにも変わっていない。

でもなにかが違った。
わたしは、「なにを」臼井先生に泣きついたのか、その明確な言葉が、思考が、まったく思い出せなくなっていた。まるで、その「思考」だけ、ピンポイントで脳みそから抜き取られたかのように。記憶喪失になったかのようだった。

めちゃくちゃ頑張って思い出そうとした。5分くらい、頑張って思い出そうとした。そしたら、なんとなく、「思考」の片鱗、ぼんやりとした輪郭だけはなんとなく思い出せた。でも、そこに感情や熱量が伴わない。

これが、本物の靈氣なのか。

今まで受けてきた様々なレイキとは、根底から違った。レベルが違うどころの話じゃない。次元が違う。愛と調和と光の、癒しのヒーリングメソッドなんて、生ぬるいものじゃない。そんなフワフワした覚悟で、受け止められるものじゃなかった。

臼井先生以外に、こんなエゲツないパワーのレイキヒーリングができる人なんて、思い浮かばない。臼井先生だ。臼井先生に、レイキしてもらったんだ。想念を、吹き飛ばしてもらったんだ。

その確信だけが、自分のなかに確固たる真実として、あった。


そこからも、わたしはレイキと向き合いつづけた。実践はできなかった。概念として、知識として、理解しようとした。レイキを理解するために、古神道や武士道を学んだ。レイキから完全に離れて、過去の日本の武道家や武士たちが鍛錬の先に目指した「悟り」の境地がなんなのかを学ぼうとした。

ある日、唐突に、わたしはそれ・・を理解した。そのときのことは、この記事に書いている。

でも、それは刹那の体験だった。身体全体で体験したことではない。知識としての理解に近かった。それでも、わたしにとって、「ああ。これが、臼井先生が靈氣の実践をとおして導きたかった、境地なんだ」という、漠然とはしているけれど、明確な目的地として、理解できるようになった。

どれだけ経っても、言語化は追いつかない。自分のなかでは、靈氣の実践をとおして目指す境地は、わかっているつもり・・・ではある。でも、その境地のなかにしっかりと浸っているわけではないから、まだ、ちゃんと言語化できないのだと思う。

それでも、今自分にできる範囲で、このレイキの真髄を伝えたいと思った。だから、『伝統靈氣 “道”』という名前をつけて、テキストも全部オリジナルで書き直して、伝授をはじめた。


兎にも角にも、本当のレイキは、「宇宙の愛と癒しのヒーリングエネルギー」なんて、フワフワほわほわしたものなんかじゃない。もっと強烈で、もっと強く、もっとどっしりとしているもの。

「レイキは修行不要」であると言われている。でも、それは間違っていると思う。レイキは、たしかにアチューメント(伝授)を受けて、レイキがとおる回路をひらけば、その回路が閉じることはない。でも、修練と鍛錬をおこなわなければ、流れるレイキ量が増えることはないし、靈氣という実践の「道」の先に目指す境地には、たどり着けない。

レイキは、男性性のエネルギーが強いものだと思う。実際、レベル2で学ぶ3つの言霊とシンボルのうち、2つは男性性のエネルギーのものだ。

レイキは、京都の鞍馬山で発祥している。臼井先生が、鞍馬山に籠って断食瞑想をした末に、雷に打たれたような衝撃を受けて気を失い、目を覚ましたときに得た “悟り” と共に、使えるようになったヒーリング技法だ。

臼井先生が鞍馬山のどこでお籠りをしたのか、正確な記録はない。臼井先生が生きていた時代に鞍馬寺の館長を務めていた方のお孫さんにもお話をしたことがある。いろいろと話したり、調べたりして、おそらく木の根道の向こうにある大杉権現があったところ、もしくは奥の院なのではないかと思っている。

どちらにせよ、それは鞍馬寺本殿の「奥」だ。奥の院につづく道に足を踏み入れると、そこは日本中の天狗たちを総ている、天狗の総大将、僧正坊の領域となる。圧倒的かつ絶対的な男性性エネルギーに満ちている場所だ。みなちに、木の根道は、源義経が幼少期に、夜な夜な剣術の修行をした場所であり、僧正坊が鞍馬天狗と呼ばれる、義経に剣術の修行をつけた大天狗として知られている。

この鞍馬の大天狗、僧正坊は、サナートクマラと同じ存在であると言われている。これは、現在の鞍馬寺の館長さんのおじいさんにあたる、臼井先生の時代に館長を務めていた方が、瞑想していたときに降りてきた天啓だったらしい。鞍馬寺が発行している本に、そのことが書かれている。鞍馬寺では、サナートクマラ=魔王尊=大天狗という図式が、ぼんやりと、でもはっきりと、存在している。

なんにせよ、なにが言いたいかというと、レイキとは本来は男性性や修行のエネルギーが強いものだということだ。だからこそ、臼井先生の時代、大正時代、レイキは特に海軍の上層部にひろく認められてていた。事実、当時、臼井先生から “師範” (今でいうところのレイキマスター)の資格をもらうことができたのは、日本中に約3000人存在していた臼井靈氣療法学会の門下生たちのうち、たったの21人。そのほとんどが、海軍少将や海軍大尉など、海軍のなかでも高い地位にいた人たちだ。

当時の日本では、陸軍よりも空軍よりも、海軍が強かったそうだから、いってみたら、日本の防衛を一手に引き受けていた、一番強い人たちが学んでいたのが靈氣だったということになる。


最初に、合気道の師範が教えてくれた「道」についての話をした。

靈氣も、「道」なのだと思う。その確信が、ある。つまりは、その道を極めていった先に、たどり着く境地があるということ。そして、その境地とは、剣道や合気道、弓道や武士道を極めていった先にたどり着く境地と、同じ場所なのだ。

そこに、どうやってたどり着けばいいのか。どのように修練・鍛錬していけばいいのか。それは、わたし自身が模索しながら、答えを見つけようとしているところだ。

わたしもまだまだ、道半ば。

けれども、この理解は、ちゃんと、伝えていきたいと思う。

鬼滅の刃のアニメを観ると、涙が止まらなくなる理由も、胸がどうしようもなく熱くなる理由も。弓と禅の本を読んだときに、「これだ」と、脈絡もなく思った理由も。

きっと、そのすべてが、ちゃんと、つながるときがくる。そのときまで。やっぱりわたしは、問い続けるのだと思う。問い続けて、迷い続けて。何度も離れたりしながら。それでも、靈氣道という道に向き合い続けるんだと思う。

その真髄に、たどり着くことができる日まで。


伝統靈氣道の伝授(アチューメント)を、随時、レイキ発祥の地である京都の鞍馬山でおこなっています。

ご興味のある方は、詳細をこちらからご覧ください。

メンバーシップをやっています。

「誰も入る必要のないメンバーシップ」をつくった理由や、メンバーシップの詳細について、こちらの記事で書いています。ぜひ読んでください。

過去の有料記事の一覧はこちら

https://note.com/soulandself/m/

もしこの記事が気に入っていただけましたら、お気持ちで結構ですのでサポートいただけると、飛び上がって喜びます!いただいたサポートは、これからも表現をつづけていけるようになるために、大切に循環させていただきます。