日々の中にこそ、ドラマもしあわせも、人生の意味も宿っている
ここ数年で、豊かさやしあわせ、やりがいや使命って言葉を、いろんなところで目にするようになった。
ベーシックインカム制度についても、よく議論されるようになっている。
それもこれも、おそらく「生存のために働く」という "ライスワーク" だけで終わってしまう人生ってなんなんだ?なんの価値や意味が、そこにはあるんだ?っていう疑問が生じはじめたことからきているんだと思う。
かくいうわたしも、「"ライスワーク" なんて絶対にイヤだ!」と、学生の時分からずっと考えていた。"ライスワーク" じゃなくて、せめて "ライクワーク"、でもやっぱり、できることなら "ライフワーク" がしたい!と思っていた。
だから大学卒業後は、就活もしないで、旅に出たりしたわけなんだけれども。
でも、今のわたしの中には、数年前の自分とはまったく違う価値観がはぐくまれてきているなぁ、なんてことを、洗濯物を干しながら、ふと思った。
自分が30歳になって、子どもが年長さんになって。シングルマザーになってみて。"ライスワーク" の楽しさみたいなものを、感じられるようになってきているのだ。
食べるために働くことって、全然悪いことなんかじゃないと思うし、どんな仕事であったとしても、「自分の力で稼いで、そのお金で生活をまわしていっている」という実感は、なによりも自信や自己肯定感につながっていくんだと思う。
それに、学生時代の頃は、なんだかんだ大量の課題に追われながらも、いつもどこかで手持ち無沙汰な感覚や、なにをすればいいのかわからない感覚、退屈感をもてあましていた。
でも今は、手持ち無沙汰な感覚や退屈感って、ほとんど感じることがなくなっているなぁって。
これは、「なにしたらいいかわかんない」「楽しいことがない」「退屈」と、ふと時間のスキマができたときに、娘が言っているのを眺めていて気付いたことだったりする。
もちろん、仕事がいそがしかったり、子育てで自分の時間がなかったりっていうこともあるんだと思う。
でも、それだけじゃなくて。
日々の生活を丁寧にやっていくっていうことに、よろこびや充足感を感じられるようになってきているのだ。
それは、洗濯をしたり、洗濯物を干すこと。ご飯を作ったり、お皿を洗うこと。掃除機をかけたり、お部屋を掃除したり、整理整頓すること。
そういった「日常」を、しっかりと、丁寧に生きていたら、退屈することってなくなるんじゃないかなって。
子どもの頃に、わけもなく「退屈」って感じるのは、「生活」に直結することは親がやってくれているからで。自分で「生活を営んでいる」もしくは、そこになんらかの形で貢献しているっていう意識や体感が、希薄だからなのかもしれない。
子どもにとっての時間っていうのは、「遊ぶ」ことでしか潰していくことができない。「遊び」が純粋に楽しいことであればいいのだけれど、時間を潰すための「遊び」は、やっぱりなんだかんだで「退屈」になってしまうのだと思う。
それは、「仕事」をはじめとした、すべてのことに言える話なのかもしれないけれど。
すこし話がとっ散らかってしまった。
要はなにが言いたかったのかっていうと、「人生に豊かさを感じるために、やりがいとか使命とか、そういった大それたことを目指す必要って、ないんじゃないかな」ってこと。
何者かになろうとする必要ってきっとないし、なにか立派なことを成し遂げなきゃいけないなんてこともない。やりがいのある仕事をしてるとか、使命を生きているとか、ライフワークができていたら勝ち組で、ライスワークばかりで仕事と家の往復の生活だから、だめってわけでも、絶対ない。
そんなことをしなくても、人生っていうものは、「食べて、寝て、遊んで、仕事して、笑って、泣いて」っていう、日々の繰り返しでできている。
普通に朝起きて、生きるための身の回りのことをして、友達やすれ違う人と言葉をかわしたり、ふと出かけてみた先でなにか心が動かされるようなものと出会ったり。
人生の意味や彩りなんで、それで充分というか。
むしろそういった本当になんでもない、平凡な日々こそが、「人生」の意味であり、目的であり、よろこびであり、しあわせであって、そのすべてが "ドラマ" なんじゃないかなって。
そんなことをね、最近は、感じていたりします。