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裏千家茶道点前「茶箱」からイノベーションを感じて

9月は夏から秋に変わる季節。今年の中秋の名月は、満月と重なり綺麗な月を眺めることができました。茶道裏千家には、茶箱の点前があり、箱の中に茶碗・茶杓・棗・茶筅などがコンパクトに納められたものです。
なかでも月点前という雅な点前もがあります。これらを考案したのが裏千家11代家元玄々斎です。とてもイノベーティブな方で、イノベーションが求められる今の時代にも参考になることが多々あるので、ご紹介します。

玄々斎の生い立ち

玄々斎は、1810年、由緒のある武士の家に生まれて、9歳の時に裏千家の家元に養子として迎えられています。これだけでも文武両道に長けていることがうかがえます。
玄々斎は、徳川家康に仕えた松平十八家の一家で三河国加茂郡大給(今の愛知県豊田市)の分家である奥殿藩松平家の五男として誕生しています。当時、松平家は裏千家十代認得斎との交流があり茶道に親しむ基盤がありました。
跡取りのいなかった裏千家と、聡明な五男の将来を考えた兄の思いから裏千家の養子に迎えられたそうです。

「玄々斎は武家としての素養を充分に身につけたうえで裏千家に入り尋常ならぬ覚悟をもって一生涯を茶道にささげた。まさしく文武両道の家元」
「大名家という堅い家に育ちながら、社会を柔軟に見る目を持っていたところに玄々斎の凄さがある。」
「高い教養を具えた上で、貴顕衆庶を問わない人脈を築き、幅広い活躍につなげた。」
と千玄室(裏千家禅前家元)も記されています。

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玄々斎の時代

1810年に生まれた玄々斎は、ペリーが浦賀に来航した1853年は44歳になります。明治10年(1877年)68歳で亡くなるまで、幕末から明治にかけて激動の時代を生きたことになります。
世界では万国博覧会が開かれるようになり、第2回パリ万博(1867年)では、有田焼や薩摩焼などの出展が好評でジャポニズムの隆盛につながりました。
当時、渋沢栄一をはじめとする財界人も現れ、茶道に造詣の深い益田鈍翁、岩崎弥之助、根津青山らもこの時代を生きています。

茶道は、江戸時代に大衆化され多くの人が嗜むようになっていましたが、明治5年に様々な職種に鑑札制度を設け、茶の家元にも「遊芸稼ぎ人」という認識の鑑札を付けられそうになりました。これに反発した家元たちは口上書を提出していますが、このまとめ役を玄々斎がなさいました。

明治5年(1872年)には、第1回京都博覧会が開催され多くの外国人を招くことになりました。その時、玄々斎が、テーブルでする茶の点前(立礼式)を考案しました。

玄々斎の行ったこと

玄々斎は、時代が変化するごとに、様々なイベントをこなし、点前や茶道具を考案されています。
大きな出来事は、1839年、玄々斎30歳の時、利休250回忌を行っています。88回におよぶ茶事し、多くの重鎮をお招きしています。また宮中で献茶をするなど、皇室との関係も深めていきました。人脈作りの繋げていたと感じます。
もう一つの大きな出来事は、先に記しましたが、1872年の京都博覧会です。それに合わせて立礼式つまり外国人でも誰でも椅子に座ってできる点前を考案しました。時代の流れにあわせた点前のイノベーションです。

またいくつもの点前を考案しています。これは、利休の時代にされていた点前を整理して、復興させた点前や変化させて作ったものなど、後世に継承してもらえるように整理しました。
利休が旅先でも茶をたてられるように考案した旅箪笥という点前を、参考に、よりコンパクトに箱に詰めた点前が「茶箱」になります。
1854年玄々斎が出張中に小津石斎(松坂商人)を訪ねて考案中の点前をお披露目したのが「茶箱点前」だったそうです。
そのほか数々の茶道具のデザインも考案されており、アイディアマンぶりが感じ取れます。

ちなみに、「月点前」は箱の中に茶道具が収められているほか、器据(きずえ)という4枚の板がくくられているものを使い、香をたくなど趣のある茶箱点前のなかでも美しい点前とされています。

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さいごに

柔軟な思考で変化する時代を生き抜いた玄々斎を紹介しました。イノベーションを起こした玄々斎の覚悟、行動力、人脈作り、発信力などがおわりいただけましたでしょうか。
実は、玄々斎に関する書物を3冊手元に用意していましたが、読み切れておらず、まだまだ、イノベーションを起こすために参考となる事があると思っています。
私にとってイノベーションとは何かを感じた月点前でした。

参考:淡交別冊 玄々斎の茶と時代 変革の世に問う、茶の湯の真価 淡交社(令和2年11月)


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