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数ⅢCでほぼ0点の私が、なぜ数学を好きになれたか

noteはじめてみました。Twitterの文字数制限を超えた何かを書きたくなったときに以前ははてなブログにて記事を書いていたのですが、SOU数学ラボの活動も活発になってきて、そんな活動を振り返ろうと記事を書く機会も増えそうだったので、心機一転新しいサービスに手を出してみることにしました。同じタイトルではてなにも投稿したものがあり、それを修正したものがこの記事です。また2023年1月2日よりacademistという研究者向けのクラウドファンディングサービス内の、月額支援型プロジェクト『「囚人と帽子のパズル」の無限化を通して、新たな数学の公理を作る』に挑戦することにしました。そちらの活動報告に収まらない内容は引き続きnoteを使用していく予定です。

はじめに

「なぜ数学科へ進学したの?」と聞かれることは多いです。
質問者が予想できる私の答えは「高校時代から数学が得意、ないし好きだったから」だと思います。質問したくなる理由を考えてみると、中学・高校時代ですらしんどかった数学を大学以降も学ぼうとしたことが理解できないとかでしょうか。そんな前提をおいて質問されたとき、私個人の答えはかなり長くなってしまいます。つまり私自身が高校時代は数学は苦手だったし、楽に良成績や単位がとれたわけではないからです。もし「文章でもいいから教えてくれませんか?」と言われた場合のリンク先として書いてみることにしました。それとたまには自分の歴史の一部分を整理してみるのも悪くないと思います。

今回の記事のタイトルは「数ⅢCでほぼ0点の私が、なぜ数学を好きになれたか」です。事実、高校3年生の計8回の数学Ⅲ・数学C(1学期中間・1学期期末・2学期中間・2学期期末×2)にて私は計15点しか取れてません。たった1回のテストでのスコアではなく。。。つまりほとんど0点です。。。
しかし大学の数学科に進学し、留年・浪人もすることもなく(それが大事とは思わないけど)修士課程に進んで集合論の基礎の基礎の基礎の…の基礎を勉強することが出来ました。今回は、タイトルから連想されそうな「数学が苦手な子でも修士で集合論を勉強する方法」を紹介するわけではなく、どういったいきさつがあったのか振り返ります。一言が言えば奇跡的な出来事が多いわけですが、どのような機会にどのような奇跡に巡り合えたのかをリストアップして、自力と他力の区別をつけることで見えてくる自分の長所・短所があると思いました。そんな「自己分析」にお付き合いいただければ思います。

1つ注意点をあげておくと、私のように高校時代の数学が出来なくても、集合論は勉強できるという意味ではないです。読んでいただけると分かると思いますが、高校数学ができなくて大学でも困ってました。。。しかし高校数学が苦手でも、数学のどんな分野でも挑戦できるということはアピールしておきたいです。


もとにあった質問に答えるために出てくるエピソードは4つあります。
① そもそもそんな成績の高校生が何故数学科に進学できたのか
② なぜ進学先として数学科を選んだのか
③ そんな自分がどういった大学生活を送ったのか
④ なぜ集合論に興味をもったのか
この順に振り返ります。

そもそもそんな成績の高校生が何故数学科に進学できたのか

この答えは簡潔に言うと、エスカレータ校に通っていたからです。自分が通っていた中学校は中高大一貫校で、中学受験でその高校に入ってさえしまえば、ほぼ自動的にその大学に進学できるという学校でした。現在は付属校が増えたので、その中学に入っても「ほぼ自動的」とは言えないそうな。あと2,3年生まれているのが遅ければ、他の付属校の生徒にその椅子を取られていた可能性があります。

小学校時代、特に中学受験を意識せず算数・国語の復習・先取りのために塾に通っていた自分に母が囁いた一言「中学受験でとある中学に受かれば、あと10年間受験もなく遊べる」に、めんどくさがりの自分は惹かれてしまい、
小5から中学受験コースへ切り替えることにしました。それ以外にも仮に地元の中学に進んで、高校・大学進学を目指した場合、どのテストも英語という1教科が増えているとも囁かれました。つまりたった1回の4教科のテスト、つまり中学受験に合格した場合の結果は、子供心ながらかなりお得に見えたわけで。なので今まで中学受験と大学院受験しかしたことなくて、いまいち大学の偏差値とか大学受験の辛さとか学歴コンプレックスとか、幸か不幸か未だによく分からないです。

さてその高校の大学への内部進学のシステムですが、定期テストの結果の良い順に志望した学部・学科に進学できるというものです。仮に志望した学科が定員に達していた場合、あぶれた生徒は第2希望の学部に関して同様の順位付けを行われるといった形です。
ちなみに数学もひどかったですが、他の教科もひどく、まともに平均点を超えれるのは現国のみといった状況で、理系クラスの中でワースト3位だったと思います。たしか前後3人くらいは進学できなかったはず。

何故そんなに成績が悪かったのかいうと単に勉強する気がなかったにつきます。。。部活を言い訳にして勉強を特にしてませんでした。
数Ⅰ・Aくらいまでは無勉強でも点数が取れていたのですが、数Ⅲとかで極限やら微分やら積分やらがでてくるとさっぱりでした。単なる勉強不足と、下手なりにきちんと理解しようとしたことで(この極限ってなんやねん?みたいなやつ)理解も出来ず、公式を上手く使うこともできず点数が下がっていきました(というよりずっと0点で横ばい)。

理系クラスのみが進学できる学部の1つ、システム理工学部、その中には機械工学科、電気電子工学科、物理学科、数学科の4つの学科がありました。
ちなみに上記の順番は第1希望が多い順でもあります(当時ね)。そう数学科は我が母校の内部進学希望者にとって最も人気のない学部だったわけです。話が少し見えてきたのではないでしょうか?実は数学科志望者は人気がないどころか0人だったのです。つまりワースト3位の私でも、数学科を志望すれば、志望者内で1位だったわけですね。

ここからは憶測なのですが、おそらくその成績ではいくら志望者内1位であっても断られていたのではないかと思います。ではなぜ入れたかというと、内申点的なものが存在して、それを加味してねじ込めたのではないかと思っています。幸い頑張っていた陸上部では、部長をやって、人数ギリギリの8人で自分も含めてスポーツ推薦などもない素人同然の部員たちで、近畿駅伝に出場できたこと(つまり大阪で6位以内になったこと)というエピソードが推薦状的に上手く使えたのではないかと考えています。もちろん先生から、「そういった経験があるから有利だ」と言われたこともありませんし、勝手な推測です。ただ私の上下3位くらいの生徒が、帰宅部もしくは入部するも途中退部していたので、自分が進学できた理由を考えた時の私の中での辻々合わせとなっています。

ともあれ私は母の甘言通り、6年間部活(中学はソフトテニスでしたが)とPS2とPSPとGCとGBSPに打ち込み成績を落としていったにも関わらず、見事数学科に進学することが出来ました。ちなみに陸上部の名誉のために言っておくと、他の部員たちは定期テストでもきちんと点数は取っていました。

なぜ進学先として数学科を選んだのか

じゃあこの答えは簡単ですね。そんな自分でも進学できる唯一の学科だったから。ではありません。
これは信じてほしいとしか言えないのですが、そんな状況とは関係なく数学科を志望していました。数学科を志望すれば、とりあえず浪人などはしなくて済むということは数学科を志望した後に知ったことです。
最初の希望は何を血迷ったか(人気No1の)機械工学科でしたからね。高校3年の夏休み開始までに大体の志望学部を決める必要があり、その志望結果から微調整(第1志望が無理そうな生徒を第2志望へ誘導)することになっていたはずです。それを控えたある日、家でストレッチしながらPSP(スーパーロボット大戦MX Portable)をしていると両親から面白いテレビ番組が放送されていると聞きリビングへ。そこで(おそらくn回目の再放送だと思うけど)、『ポアンカレ予想 – NHKスペシャル|100年の難問はなぜ解けたのか ~天才数学者 失踪の謎~』と見ました。興味を持った方はNHKのアーカイブでもまだ見れると思いますし、DVD化もされてます。ちなみに自分が関連書籍の中で面白かったのは『完全なる証明』です。ペレルマン自身の軌跡(まだ存命ですが)として非常に楽しく読めます。これの感想文を書きだすと長くなるので、またいずれ。。。。。
このドキュメンタリーを見たとき、今自分が面白くない・楽しくないと思っている「数学」と違って見えて非常に面白そうと感じました。当時、数学が数式や記号にて事象を表現する学問だと思っていたわけですが、番組内で丁寧なCGで作られた位相同型な図形変形の様子は直感的には理解できるものの
数学者が扱っているからには、その現象も数式や記号で表記されているはずだと思いました。仮にそうだと仮定して(実際そうなんですが)、そういった数学は自分が知っている「数学」よりも魅力的に映ったわけです。どうやって数式・記号に表して扱うんだろうと。しかもポアンカレ予想が数学の中の「位相幾何学」という1分野の話に過ぎないということは、それ以外の分野にもそれと同じ、それ以上の面白い対象があってその事象をやはり記号・数式で表現しているはずです。もし大学以降の「数学」がそういった学問ならば勉強してみたいと思いました。事実、その感想は当たっていて大学以降の数学は私が夢見たもの以上の面白さでした。ペレルマンに、そのほかに登場した数多の数学者に憧れたわけではなく、自分の中で初めて勉強してみたいと思えるものに出会えた瞬間でした。

その番組を見た後日、担任の先生のとこへ相談にいきました。その担任の先生は数学Ⅲの教科担当でもあったので、私に5点くらいしかくれなかった張本人です。その先生に志望学科を数学科に変更したいこと、その経緯(上記の感動話)を伝えました。「先生のテストではよう点数とれませんが、もし高校と大学で数学の内容が異なっていて、こんな私でも入り口が開いているならば入学させてほしい」と。ちなみに高校と大学の数学が異なっているというのは高校生の私の勘違いです。確かに内容や雰囲気はガラッと変わっていますが、高校までの数学は大学になっても重要です。あとで当の本人が苦労するのでお楽しみに。

その折、内部進学者向けのオープンキャンパスが開かれます。1日使って色んな学部・学科のミニ授業や実験を体験する形式でした。
数学科の内容は「素数の個数が無限であることの証明」でした。これ以外にも何か話してた気がするけど忘れちゃいました。当然興味深々だったので、最前列に座りワクワクして座っていました。自分の直感(大学から数学が面白くなる)が正しいかどうかわかるからですね。教室を暗くしてのOHP(オーバーヘッドプロジェクタ)での講義でした。そんな中でど素人の自分でもわかるような定義や前提から、論理を積み上げていって証明をしていく。暗かったのと、昼ごはん後ということと、元々興味がないということで、結構な人数が寝てましたが、そんな中自分は最後まで覚醒したままで、終わった後は結構興奮してました。おそらく全国にいっぱいいる数学少年・少女が10代前半でとっくに味わっていたであろう感動を、私は18歳にしてようやく感じたわけです。オープンキャンパス後でも私の数学科志望は変わらず、他の生徒の数学科への関心も高まることもなく、見事内部進学者中1位という好成績で数学科に進学しました。

そんな自分がどういった大学生活を送ったのか

さてそこから数学に目覚めて、メキメキ数学力を上げていく物語かと思いきや、やはり高校数学ができないことでいろんな苦労をします。どうしても内部進学者と外部の一般合格者との学力の違いがありすぎるので、春休みには内部進学者向けの各理系教科を遅れを取り戻す短期講習があったりもしたんですが、私はあんまり真面目に受けてませんでした。テキストに書いてある内容が高校と代わり映えせず、(地続きであることも知らず)大学数学じゃないならいいやみたいな態度でした。あとは大学進学の際に両親から出された条件として「学費以外の資金は自分で稼ぐ」といったものがあったので、大学入学が決まった瞬間からバイトに明け暮れていました。最初は塾講師から始めました。講師になるためのテストは散々な結果でしたが、小学生とかを中心に教えるならといった感じでしぶしぶ受かった感じです。あまり進学意識が高い地域でなかったので幸いにも私に高校数学を教えられたかわいそうな高校生はいませんでした。その他にも、店長が電話に出てくれないコンビニ、怖いお兄さんが夜の蝶をやってそうなお姉さんを連れてやってくる深夜営業のお好み焼き屋さん、自分の中で経団連に悪い印象を与えただけだったホテルの給仕の派遣など色々やりました。

一番長く続いたのは、親の紹介でしった立ち飲み屋のバイトで、大学1年から修士修了までの6年間続きました。たまたま大学生のバイトが多く入った時期でもあり、他大学の学生と知り合う良い環境でもありました。また20歳から両親の影響で毎日のようにお酒は飲んでいたので、酒飲みばかりが集まるバイトはずっと大変だったけど楽しかったです。その立ち飲み屋は朝9時から営業しており、店内は広くはなかったので、忙しいときは40回転します。他の従業員の邪魔をせず、時にはサポートしつつ、いかに効率よくテキパキ動き、注文をさばいていくのか、一種の団体スポーツのようで楽しかったです。会計の数も当然多く、レジだけの係がいるほどです。そんなポジションの時、いかにして計算間違えしないか、そしてレジ業務をしつつも、レジ内売上とレジ内金額がズレていないかをチェックする方法を編み出しました。そんなことを自発的にやるくらいには楽しかったんだと思います。また驚異の9~23時シフトが存在し、それを週2回こなせば十分に稼げていました。なのでなるべく多く勉強時間を確保したい自分にとって効率よく稼げるバイトでした。あとは5年目からは他店舗へのヘルプも増えて、他店舗の店長やバイトとも仲良くなり、色んな経験ができました。そんなこともあって今でもたまに飲みに行っています(そして大体の店長が覚えていてくれてる笑)

そんな感じで春休みを過ごしていて迎えた入学式、そしてオリエンテーション。配られた学生証を財布ごとその日に無くして、学生課のお姉さんに苦笑されました。

そしてオリエンテーションn日目は、まさかの?抜き打ち実力テストでした。90分のテストで、主に入試問題と同レベルの内容でした。当然内部進学者向け講座を真面目に受けていなかったのでまったく解けず。粘っても仕方ないということで(というより友達を食堂で待たしていたというどうしようもない理由で)、全て未回答の白紙で席を立ち、テストの試験監督をしていた教授へ提出しに行きました。ちなみにその教授がオープンキャンパスで講義していた先生で、顔だけは知ってました。そして提出した答案用紙を眺めた先生の顔が曇り、一言「これじゃあ君は(卒業に)8年かかるよ」と。「これから頑張ります」とだけ伝えて教室を出ました。

話が脱線しますが、私と教授とのそのやりとりは他の学生に聞こえておらず、私がものの15分で席を立ったので、1回生の夏休みくらいまでは私は同学年学生からかなり数学ができるやつとして認識されていたそうです。。。ほとんど他の数学科生と話したりもしてませんでしたから、うわさが独り歩きしていたようです。

そして4月の中盤より通常の授業が始まります。当数学科では1回生は、微積分学、線形代数、コンピュータ数学(みたいな名前)、数学概論(みたいな名前)が必修でした。それ以外には英語と第2外国語と、希望者(私以外全員)は教員免許用の授業でした。

私は教員免許用の授業は履修しませんでした。理由としては頑張れば2回生からでも単位がとれると聞いていたので、塾講師のバイトを1年間やってみて、教員に興味を持っていたら2回生から履修しようと考えていたからです。結局塾バイトを1年間続けてみても教員志望意欲は沸かず(もちろん塾講師と教職員は違うと思いますが)履修することはなかったです。そういった面でも他の数学科生との交流は少なかったです。
微積分と線形代数は他の理工学部生と同内容だったので、まだ計算中心の内容でした。数学概論みたいなやつは各先生が3コマくらい与えられて思い思いの数学の講義をするみたいな感じの授業でした。

コンピュータ数学は、計算ソフト(maxmaとか)を触ったり、texを打ってみたりといった内容です。一番楽しかった授業はこれで、TeX打ちにめちゃくちゃハマりました。自分でTeX用のノートPCをバイト代で購入し、美文書作成入門を買って、インストールで躓いて、先生に一から手伝ってもらって。ちなみに私のPCスキルはかなり低くctrl+cとかのショートカットを使いこなしだしたのは修士を卒業してから。それまではかなり泥臭いコーディングをしていて、今思えばよくそんなスキルで40ページくらいのまとめノートを作ったなぁと。ともあれ字が汚い自分でも、きれいな数式を紙に出力できることに感動しました。
なので授業以外でもmaxmaやTeXに積極的にハマっていたおかげで、余裕で好成績でした。それからも自分でまとめノートや定義集を作るため、TeXは毎日のように使ってました。

当数学科には、それ以外に「1年限定担任制」みたいなシステムがありました。例年学科生は20から30人。教員は10人強でした。その教員1人ずつに1回生を2から3人ずつ割り当てて面倒をみるというものです。ただし面倒の見方は教員に裁量があって、週に一回世間話(ちゃんと授業は出ているか?分からないところはないか?と聞くとか)をするだけの教員もいれば,
課題を出したりセミナーもどきをやったりと様々でした。

私の担当になったのはなんと「8年かかる宣言」をした先生でした。
その先生の基本方針は週に一回、その週の微積や線形代数の内容のおさらい授業するというものでした。他の先生に比べたら重い内容だったで、同じ先生の担任の同級生は、他の楽な担任の生徒を羨ましそうにしてました笑。
私の遅れ具合を(ある意味誰よりも)知っている先生でしたから、私は普段のおさらい授業に加えて週に1,2回高校数学を復習するマンツーマン授業をしてもらっていました。
これ、今思うとかなりありがたいことです。
このマンツーマン高校数学復習授業は夏休みも関係なく行われ、私は夏休みも学校に通って、対数関数とか数列の総和とかそういった抜けていた知識をたくさん丁寧に教えてもらえました。そのかいあって、1年後期の成績では(内容が高校+αくらいの内容だったというものあって)そこまで周りの学生に遅れをとることはなかったです。

数学以外では学びたい授業を学びたいだけ学べる一般教養が楽しかったのを覚えています。一回生前期に履修した「人類学」(阪大の先生が教えにきていたはず)は最高でした。今からでも数学科から転部しようと思ったくらい。中には個人的にイマイチな授業もあったけど、文系理系えり好みせず、単位の取りやすさも、GPAが下がるのも気にせずいろんな授業を受けてました。これは4回生まで続きます。大きな図書館に、そういった授業の数々があったことで、サークルや体育会には所属しなかったけど毎日充実してました。

さて2回生になりました。ここでのちの大親友となる「お酒」に出会います。彼もしくは彼女がなかなかこちらを嫌いになってくれないので今日までほぼ毎日飲んでます。飲まなかったのはドクターストップがかかった時と何かの締め切りに追われて徹夜をしなくてはいけない時くらい。1回生から始めた立ち飲み屋のバイトにも慣れ始めて、そのバイトがなかなか時給が高く長時間のシフトで働けたので経済的に潤ってました(あと博打もファッションも興味なかったし)。そこから授業に関係ない本を買うことが多くなりました。

ここから数学科の授業もより「数学」らしく、つまり私が高校生の頃に夢見たものに近づいていきます。2回生でも数学科は微分積分、線形代数の授業は必修であって、内容は1回生のおさらいをしつつ、より数学科らしく証明を多く、抽象度をあげていくような感じでした。ここで数学科名物の1つ、ε-δ論法が登場しました。そして「集合と位相」という教科も必修で始まりました。そこでもう一つの名物、位相空間論が登場します。体感では半分くらいの学生がε-δ論法と位相空間論で(数学そのものから)脱落していきました。そういう生徒はなんとか過去問を入手して、わかっているのかどうかわからない証明で部分点をとって卒業していきました。

ここで逆に自分は成績が上がりました。特に「集合と位相」に関してはほぼトップだったはず。当然私にとっても難しかったのですが、高校でのあやふやな「極限」というものも理解できるとチャンスだと思えばむしろやる気がでて、自分でε-δ論法のことだけ書いてある本を買って格闘して、そもそも論理式を読めてないことに気付いて数学のお作法の本を読んだりしていました。そういうことを1人で続けているうちにある日、「だんだんとその値に近づいていく」という事柄をε-δ論法は表現できていることが、自分の中にしっかりとした形で理解できた気がしました(この時点ではその気がしただけ)。証明に使えるレベルまで理解が進むのはもう少し先でしたけど、自分の中ですごく腑に落ちた瞬間があったのは覚えています。その経験から、「数学」では定義が頭に染み込むまで反芻して、イメージが付くまで証明を眺め、実際に手を動かしていくことで自分のものになっていく、ということが分かりました。ここまでくれば位相空間論だって怖くありません。ここでさらに「数学」が好きになるとともに、高校生の頃の自分の選択は(少し数学について勘違いしていたけど)間違っていなかったことが分かりました。

それからは授業以外にもたくさんの数学に関わるものについて読むようになります。まだ数学書を一人でコツコツ読んでいく力はなかったので、簡単なものから。啓蒙書とか数学史の本とか。その中で「数学者は必ずといっていいほど少年時代に未解決問題に自分なりにチャレンジした経験がある」という記述を見つけました。よくある数学少年・少女よりはやや周回遅れ感がありましたが、自分でも何かにチャレンジしたくなります。2回生の夏から1つのチャレンジを開始します。テキトーに未解決問題を選んで、それが現在までどれくらい進んでいるかを調べることなく(つまり一切ググらずに)
半年でどこまでいけるかやってみるというものです。手が付けやすそうな(定義が簡単って意味)問題の方が良いと思い、図書館に行って『数論「未解決問題」の事典 』を借り、おもむろにページを開きます。そこで載っていたのが「完全数」関連で、ちょうど「奇数の完全数は存在するか」と書いてありました。完全数の定義だけ確認して本を閉じ、問題にチャレンジを開始しました。半年後に知ったんですが、この「奇数完全数の存在性」問題は、数学の中でも最古参な未解決問題で2000年以上解かれてない問題です。
そういった先入観もなく、自分なりにやり始めました。ある段階で、剰余群に近いものを自分なりに定義して使っていました。3回生の群論の授業にて、剰余群が出てきたときにはまた1つ感動しました。自分が編み出した(つもりの)概念が、実は数学界の常識であったこと。それを教えられるのではなく自分で見つけられたこと。ちなみに半年では形にならず最終的に自分の中で結果が出たのは3回生の夏のちょっと前くらいでした。どのようなことをやっていたかというと奇数全体を、その素因数分解後の形から100パターンくらいに分けてその1つ1つが完全数でないことを証明していってました。その中でどうしても完全数でないことを証明できない形が1つ見つかります。つまり「奇数の完全数が存在するならば、○○な形をしている」という定理を示したことになります。当然、この未解決問題を解決することは出来ませんでしたけど、自分なりに結果が出たことを喜びました。あとはこの泥臭い証明を、省略もせずTeXで100ページくらいのレポートにしました。

いよいよ答え合わせです。森羅万象・全知全能の神、Googleで「完全数」を検索し、今現在どこまで進んでいるのかを調べます。
すると自分と同じ定理がありました。誰がいつ証明したのか。
オイラーが100年以上も前に証明していました。しかもたった2ページで。
でも落ち込むどころか「やっぱりオイラー、すげぇ」となり、この自分の証明は(使っている道具もオイラーと同じだったので)数学界にはなんら益をもたらさないけど、1つの達成感がありました。

ここで1つ疑問に思います。こうも解けないのはよほど難しい問題なんだと。自分とは比べようもない、はるかに上の能力がある数学者たちがよってかかっても、この問題はどのように解いたらいいのかの糸口すら見つかってません。ちょうど「集合と位相」の授業で「連続体仮説」の話を聞いたのを思い出します。集合の濃度の章の最後でちらっと登場したあの話、講義を担当する先生の専門分野でなかったため説明も明瞭でなく、はっきりとどのような結末を迎えたかは理解できませんでした。
そして適当な本を開きます。
すると「連続体仮説は決定不能である」と書いてありました。
つまり証明も反証もできない命題であり(当時ZFCって名前も、ZFCが無矛盾ならばという前提が必要なのも知らなかったけど)、そういった可能性が現存の未解決問題にもあるならば、完全数の問題だってその可能性もあると感じます。そうなると決定不能というのはどうやって証明したのか気になります。少し数学基礎論・数理論理学、そして公理的集合論に近づきました。


3回生になりました。
本格的に数学科らしい授業、解析学・代数学・幾何学が始まり、より脱落者が増えていく中、自分は今まで以上にハマっていきます(二日酔いも遅刻も多かったけど特に成績を心配する必要はなかったです。数学に関しては。
1つ一般教養系の単位が足りず留年しかけましたがそれはまた後の話。

このころから、大学の外の世界が気になりだします。自分が気になっている数学は「数学基礎論」「数理論理学」に属することは図書館で調べて分かりましたが、自大学にはその数学の研究者もおらず、なかなか自習するのも当時に自分にとっては難しかったので、大学院に行くことも視野にいれました。またTwitterなるものもこの時は存在くらいしか知らなかったくらいSNSデビューは遅かったです。その折で「数学基礎論若手の会」という勉強会があることを森羅万象・全知全能の神、Googleから教えてもらいます。
この勉強会は毎年場所を変えるので、仮に関西から遠ければ参加を諦めるところでしたが、なんとその年の開催地は奈良。すぐに参加申し込みをしました。

ここからかなりの恥ずかしいエピソードなんですが、幹事の先生から、発表者が足りてないと聞き、なんと数学基礎論と全く関係ない2回生の頃に見つけた完全数の発表をしました。しかも数学系らしい発表のお作法も知らずbeamerはおろかパワポでもない発表でした。これ今思えばようやったなと(空気の読めてないというか)。専門家も多く参加する勉強会で、まったく関係ない数学の発表をしたわけですから。。。これからは自分がそういう発表を聞く側になると思いますが、当時の自分っぽい学生がいたら暖かい目でみてあげてしっかりフォローしてあげたいです。ほんまに。

大学の外に目を向けだし色々な勉強会やイベントに参加して、様々な発表を学外で聞く機会が増えました。そんな中で自分も勉強したことを周りに発表してみたいと思います。このとき、とあるイベントで出会った人と、所属大学・専攻分野関係なく、自身の専攻分野の面白さをプレゼンしあう交流系イベント「学問分野を知ろうの会」を運営する「関西学生学問研究会」を立ち上げました。そのあと協力してくれそうな人を集めて修士課程が修了する3年くらいの間に系10回ほどイベントを開きました。ほぼ毎回、非数学系を意識してプレゼンしてみる経験をここで積めました。ただ当時のスライドや資料を見ると、まだまだ下手だったなと思います。自分の中でプレゼン能力が一皮むけたなと思うのは社会人になってからです。また数学以外でもいろいろなイベントで発表させていただきました。

さて大学院を視野に入れたさい、当然大学院受験があります。関西で集合論を学べて、今の自分でも合格しそうな大学院が1つだけありました。数学基礎論・数理論理学の研究室は、純粋な理学部数学科に配置されていることが少なく、そんな学科へ大学院受験するさいは数学以外のテストを必要がありました。思い出してもらうと私は数学以外の理系教科でも赤点でしたから、そのような学科受験は私にとって難易度が高そうだと判断しました。私が目を付けた大阪府内の大学の集合論の研究室も、情報数理科学という学科に配置されていましたが、ここは情報系教科も出題されはするものの選択式になっていて、なんと数学系の微分積分・線形代数・論理と集合だけで試験に臨めます。しかし、過去問を解いてみても証明が上手く書けない、つまりまだ完全にはε-δ論法も理解できていないことが自分でも分かりました。この時の証明とはどう書くべきか、何を書くべきか、どのような証明が良い証明なのか悩んでいた自分にとって一番ためになったテキストが『論理と集合から始める数学の基礎』です。ここからもう1つの天然エピソードですが、私は数学基礎論若手の会に参加した目的は、1つは単にその世界を見てみたいのと、もう1つはその進学したい研究室の先生が参加すると知っていたからです。確か事前にすでにメールでやりとりしていて、若手の会に参加するのを勧められていた気がします(どっちが先かは忘れました)。
そして実は自分が普段から読んでいるそのテキストの著者が、そのメールしている先生だと半年くらい気づきませんでした。当時の自分としてはテキストを書くような先生は、自分の周りではなくもっと遠くにいるようなイメージでした。とりあえずその会で、その先生に初めて会いました。

4回生になりました。
大体の数学科では研究室配属があって、その中で数学科特有のセミナーが始まります。自大学に数学基礎論や集合論の研究室はなく、どの研究室配属を希望するか悩みました。たしか1回生の時に面倒を見てくれた先生は関数解析でした。ただどこかに所属して卒業研究なるものをする必要があったので、整数論の研究室に入りました。そこに入れば完全数関係の比較的新しめの論文をもとにセミナーできるとのことだったので論文を読む練習も兼ねてその研究室にしました。確かその前に上で書いた完全数のレポートをその先生に見せていて、そのレポートを見た先生からその研究室へ誘われていました。そして約数関数を用いて定義されるいろんな数(Powerful numberとかだったかな)の解析的整数論の論文(これはこれで面白かった)をじっくり読みました。

そしてなんと進学希望先の研究室の学部4年向けセミナーに参加させてもらえることになりました。内容は数理論理学の基礎、一階述語論理でした。このセミナーのおかげで大学院からの集合論の勉強もスムーズになりました。
初めて数理論理学の本を読んだとき、何が書いてあるのか、そして何がしたくてこんなことを書いてあるのか全く分かりませんでした。自分なりに同じ個所を何度も読み、そして英語とも格闘して読んでいきました。そのセミナーでの初めて発表にて、発表後先生から「君は数学のゼミ発表の仕方をキチンとみにつけているね」と褒められたのは今でも覚えています。その先生が所属する学科は数学ではないため、数学のゼミ活動に必要な能力を身についていない状態で研究室に配属される学生もいて、そんな学生と比較しての発言とは分かっていても嬉しかったです。よって4回生の時は別大学の2つのセミナーを掛け持ちしてました。

大体の単位は取れていたのですが、相変わらずのさぼり癖があって3つくらいの必修科目がとれていなかったです。当時の理系は、理系用の一般教養で一定単位を取る必要があったんですが、それが取れていませんでした。
バイト先に同じ大学の理系学生の後輩がいたので、恥を忍んで頼みこみ過去問をもらってました。厄介だったのが出席点を稼ぐことでした。しかしどれも1限目だったので、早起きが高校生の頃から苦手だった私がとった対策は学校に泊まり込むことでした。あんまり推奨はされてないんですけど、当時の数学科には学部4回生用の勉強部屋があって、そこは夜間でも出入り自由でした。その部屋で論文読んだり作業しながら一晩過ごしてました。
高校から数学科へ内部進学した学生は私だけですが、陸上部の同期の子がお隣の理系学部へ進学してました。私は長距離、彼は短距離種目中心で練習メニューが別なことから高校時代は同じ部活ではあるものの、そこまで交流はありませんでした。彼は化学専攻でありかなり早い段階から研究者への道を考えていて、私が大学院進学を考え出したあたりが交流が増えました。そして彼の研究室活動はよくある実験系学問のイメージ通り、夜間でも実験のため泊まり込むことが多かったです。そんな彼に声をかけて、エアーマットを買ってきて交互に寝ながら作業をし、時には動画を見たり、夜のキャンパス(大学近くが栄えているので夜中でも結構キャンパス内に人がいます)を話しながら散歩したり、わざわざ遠くのやよい軒まで歩いていって5時くらいに朝ごはんと称して定食食べたり(ご飯3回おかわりしてその結果お腹いっぱいになって1限授業で寝るという本末転倒っぷり)。そんな悪友もいたことで何とか出席点もとれ単位がとれました。

あとは夏の大学院入試を受かるだけ





落ちました。受験自体が中学受験以来で、すっかり受験というものを忘れてました。大学院受験では夏募集と春募集があって、夏募集で落ちた自分は春募集で受かるチャンスにかけて、もう一度勉強のやり方を変えて春に挑むことにしました。


ここでもう一度微積分や線形代数の中にある定義を見直して、きちんと自分で書きだせるようになっていること、なるべく多くの過去問を解くことの2点を意識しました。当時の彼女も同じ数学科で、彼女は私が志望していた大学院とは別の大学院に夏募集で合格しており、そんな彼女に自分が解いた過去問を見てもらってました。

あとはTeXを打つことが好きだった自分は、大学院受験に必要そうな定義だけをまとめたノートを作っていました。この作業が非常に有効に働き、この作業はその後の数学生活でも続けています。

再度の受験。結果発表がなんと大学の卒業研究発表の日でした。
自分の発表が終わった後くらいに、その結果が大学HP上に公開されるといった感じで、無事卒業研究発表を終えても進学できないという可能性がありました。ですがそんなに世の中面白くなってなく受かってました。10年ぶりに合格の嬉しさを味わいました。

ここまでが学部時代までのお話になります。


なぜ集合論に興味をもったのか


さて最後の疑問ですが、すでに節々でそのきっかけが出てきていました。
まず1つが独立性証明の手法そのものが気になったからです。実際に自分に使いこなせるかどうかはわからないけど、使い方を学ぶと非常に面白そうだと感じたからです。

もう1つ、集合論に興味をもったきっかけが、先のまとめノートを作る際に、数学概念の定義を参照していくことをやっていたのですが、どうしても関数(写像)と自然数と集合以上に分解できない段階にたどり着きます。
しかしその時読んでいた本(名前は忘れた)には、「数学」は「集合」を用いて構築できる、つまり自然数も関数も集合によって表現できると書いてありました。しかし関数はまだしも、自然数ってどうやって集合で表現するんだろう?そして集合で表現できたことで何が数学者にとって嬉しいんだろうと気になります。そういうモチベーションを語ってくれるようなテキストを見つけるのが未だに下手なので、それがどうしても知りたくて集合論、ひいては数学基礎論・数理論理学に興味を持ちました。それ以外にも数学基礎論・数理論理学では自分一人ではなかなか腑に落ちない事実・考え方がたくさんありました。例えば「集合論は循環しているのか」とか「強制法は結局何をやっているのか」とか「数学基礎論とメタ数学はどう違うのか」とかですね。そんな疑問に自分の言葉で答えられるようになりたい、それもモチベの1つでした。

まとめ

長くなりましたが、全ての疑問に答えました。ここまで読んでもらえばわかる通り、非常に奇跡的なものに助けられて修士まで楽しく勉強を進めてこれました。もちろんこれ以降の修士時代も楽しかったです。

挙げだすときりがないですが、
面白い番組があると教えてくれた両親
高校数学がろくに出来ないのに数学科に送り込んでくれた担任の先生
そんな学生に高校数学を1年間教えてくれた教授
よその学生でもゼミに参加させてくれ、院からの基礎作りを手伝ってくれた先生(のちの師匠ですが)
マイペースな自分にイライラすることもあったであろうとは思いますが、学問系・それ以外にもたくさんの人に助けてもらいました。

当時は自分一人で精一杯でしたけど、今ではここまで出てきたような誰かのような人に自分もなりたいと思っています。私が数学が「出来る」ようになったかどうかは分かりませんが、少なくとも数学に対して取り組む姿勢は形成できたと思います。そんな姿勢を伝えるべく、現在は大人のための数学教室と称し、大阪なんばの街中で数学を教えています。

ということでおしまい。
今度は『souji修士時代編』、『生まれてから高校生まで編』、『サラリーマン編』、『退職後博士課程進学編』のいずれかを書いてみようと思います。

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