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社会、組織、個人における、硬直化した習慣とその変革についての考察

 社会と個人を同時に扱うため、慣習ではなく習慣を用いる。

 ある社会が変化に直面するとき、あるいは小規模な集団や個人が変化に直面するとき、従来のシステムがどのように変化を受け入れるのか、悪あがきや最後の抵抗をするのか、それともすんなりと受け入れるのか、そのような変化の法則のようなものについて考える。

 習慣はなかなか変えられない。英語にも、old habits die hard(古い習慣はなかなか消えない)という言葉がある。一度軌道に乗ってしまった物事は簡単には変わらない。個人の習慣でもそうだが、集団の習慣になると尚更だろう。それはそのシステムなりプロジェクトなりが複雑であればあるほどそう言える。
 つまり、現状にはまるで慣性の法則とでも呼ぶべきような、現状保持の力が働いているといえる。
 しかし、個人も社会も変化する。変化の度合いは様々で、徐々に変わっていく場合もあれば、一気に様変わりすることもある。これは一体どういうことか。現状に慣性の法則が働いているにもかかわらず、まれにだが様変わりする。慣性の法則を超える力がそこに加えられたのだろうか。
 物理現象について言えば、その通りだろう。つまり、投げられたボールは空気抵抗や重力の力が、投げられたときに加えられた力を上回ったときに落下する。進み続けようとする力が、外的な力によって上書きされる。
 社会や個人がこれと異なるのは、現状維持の力は常に加えられ続けるということだ。ある習慣を続けるとき、その習慣を実行するたびにその実行に対する肯定がなされる。つまり、進み続けようとする力をその度ごとに働かせる。こうして、鎖が続いていくように、文字通り連鎖していき、同時にその鎖にがんじがらめになる。
 つまり、ボールの場合と違うのは、一度加えられた力が保存されるだけなのか、それとも連続的に加えられ続けるのかという点にある。したがって、ボールの場合は、力が一定であり、これを変えるのは簡単かもしれない。しかし、習慣の場合は、増大していく力であるために、これを変えるのは難しい。
 ここまでの点から教訓を得るとするならば、習慣や慣習は長引けば長引くほど変えづらくなるから、早めに対処したほうがいいということだ。感覚的にも、昨日から始めたことを止めるのはかえって楽だが、何年も続けた習慣を変えるのは難しいことが想像できる。
 しかし、社会も組織も個人も変わる。ではどんな時か。ここでボールと習慣の比較に戻る。ボールは一定の力を常に持っている。一方習慣は連続的に力が加えられ増加していく。言い換えれば、力の増大は断続的であるということだ。
 習慣が強固になっていく行為の連鎖の間には、隙間がある。タバコを吸うにしても、面倒な仕事を押し付け合うにしても、バレなければいいとポイ捨てをするときでも、それが再びなされる間には時間がある。つまり、間を開けることと、再び同じ行為を繰り返すことがある行為を社会や組織や個人に染み込ませ、習慣化するのである。
 この結論は当たり前のことだが、この抽象化によって議論の発展可能性を拡げることになる。また、数多くの現象をこの主張から導ける。
 行為の内容と時間の長短を変化させてみる。たとえば、誕生日、結婚記念日、母の日や父の日を考えると、期間は一年間と長く、行為の内容は人を祝うことや感謝をすることなど良いことだろう。タバコを吸うことや何かしらの中毒性のある行為は、この期間がおそらくは徐々に短くなっていくし、内容は悪い面が多い。習慣の新たなパラメータとして、その行為を意志によってやめられるのかを追加すると、やめられない行為を中毒と定義できるだろう。
 こう考えると、なんらかの中毒化した習慣を変化させるには、次の行為までの期間をどのように整備するかが重要であることになる。
 具体的に考えてみる。社会が変わろうとしているとき、そこには外的な力が働いていることがある。たとえば気候変動が定住地域を変えたり、技術革新が労働形態を変えたり、感染症が社会におけるコミニュケーションのあり方を変えたりする。
 外的な力とは、環境や状況によって、変えさせられることであり、自発性をもたない変化であるとする。つまり、積極的な意志が介在せず、後手に回る対応になる。日本の政治や集団の意思決定の典型と言えるかもしれない。あるいは、病気になってから禁煙をするのもこれにあたるだろう。
 一方の内的な力とは、たとえその変化が状況の変化に伴っていようと、自らの意思によって現状を変化させる力である。内的な力が働くには、現状に対する能動的な評価が必要である。あるいは自己批判とも言えるだろう。なぜなら、変える必要があると感じるから、変えようとするからである。状況の変化に応じて習慣を変化させるのも、自己や状況に対する評価の結果である。
 この内的な力は社会や組織や個人をそれ自身が自己運動として動かしていく。そのため、それぞれは自らの力に自信を持てるし、未来は良くなると信じることができる。
 一方、この内的な力が欠如すると、自己の力のみでは変わることができなくなる。深い溝にはまったように身動きが取れなくなる。すると諦めが生じ、社会に対する不信、集団の求心力の低下、自己肯定感の低下が生じる。
 このように内的な力の欠如により、身動きが取れなくなったところに、救世主の待望や終末論、世界滅亡論、あるいは王子様の待望、異世界への転生願望が生じる。事実、景気の動向に応じて流行りの小説が変わる。不景気の時にはSFよりもファンタジーが売れるようになる。
 だが、誰かがなんとかしてくれることはあまりない。よって、残された道は、身売りするか自己崩壊に追い込むかである。
 身売りするとは、環境を強制的に変えることである。企業で言えば、別の企業の傘下に入るなどである。実際、日産はその手法で立て直した。個人で言えば、どこか厳しい環境に身を置くなどだろうか。国家で言うのは難しいが、対戦後の日本はアメリカの統治下で民主化を果たした。
 自己崩壊に追い込むとは、内的な力を取り戻すための手段であると言えるかもしれない。人間食うに困れば必死になるということを利用するのだ。社会が混乱すれば、なりふり構っていられないので、道徳は廃れ、犯罪は増える。怠惰な人間も締め切り前には必死になる。いずれにせよ、自己崩壊とは、生きるか死ぬかを賭けることで、人間の生存本能に訴えかけ、最終手段としての内的な力を取り戻すことである。これは加速主義と言えるかもしれない。
 便宜上内外に力を二分したが、実際は自発性と強制を厳密に区分することはできないだろう。だから、この区分は日常の感覚に依存している。要するに進んでやるのと嫌々やるのの二つをみんな経験しているでしょうという前提に依っているのである。
 習慣の話からそれを打ち破る力の種類を述べてきたが、この論考全体で何か斬新な提案ができたとは思わない。しかし、事態を整理する程度の役割は少なくとも自分な中では果たせたのではないかと考える。
 


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